<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
>

<channel rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/">
<title>きょうのことばメモ</title>
<link>http://yeemar.seesaa.net/</link>
<description>飯間浩明のブログです。新聞や雑誌、書籍、テレビなどから拾った日本語と、それに関する短いつぶやきを記します。</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://blog.seesaa.jp/" />
<items>
<rdf:Seq>
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/235537761.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/226485498.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/226333649.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/179571957.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/159051619.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/156550063.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/108302754.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/107451405.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/97805744.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/93179734.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/93089355.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/92871894.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/92829670.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/90942990.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yeemar.seesaa.net/article/90394812.html" />
</rdf:Seq>
</items>
</channel>

<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/235537761.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/235537761.html</link>
<title>スクープ！　早大赤本の間違い見つけた</title>
<description>大学入試の現代文を、久しぶりに読む機会がありました。印象として、以前（私が受験した1980年代）に比べ、出題される文章の質が上がっているようです。以前は、どう考えても読むのがむだでしかない、無内容な文章が出てきました。今回読んだ文章は、読みながら「なるほど」と考えさせられる、興味深いものが多くありました。もっとも、入試問題文の制約上、一部分だけの引用であるため、それを読んだだけで何かまとまった知識が得られるというものではないのですが（入試の文章だけ解いているのではだめで、1冊..</description>
<dc:subject>表現・文章一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2011-11-16T19:45:45+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
大学入試の現代文を、久しぶりに読む機会がありました。印象として、以前（私が受験した1980年代）に比べ、出題される文章の質が上がっているようです。以前は、どう考えても読むのがむだでしかない、無内容な文章が出てきました。今回読んだ文章は、読みながら「なるほど」と考えさせられる、興味深いものが多くありました。もっとも、入試問題文の制約上、一部分だけの引用であるため、それを読んだだけで何かまとまった知識が得られるというものではないのですが（入試の文章だけ解いているのではだめで、1冊の本を読む必要があるのはこのためです）。<br /><br />それはともかく、私の答案を「赤本」（教学社『大学入試シリーズ』）の解答と照らし合わせてみて、がっかりしました。ちょいちょい間違いがあって、どうも満点が取れないのです。まことにお恥ずかしい。日本語を研究し、教えていながら、こんなざまでは困ります。うっかりしていた部分もあるし、引っかけ問題にだまされた部分もあります。いわゆる「受験の勘」を忘れてしまったためのミスだった、と言い訳しておきます。<br /><br />ただ、そうは言っても、「これは、赤本のほうが間違っている」と考えられる部分もありました。具体的には、2008年度の早稲田大学文学部の国語の現代文。末木文美士（すえき・ふみひこ）さんの『他者／死者／私』の一節が出題され、その文中で渡辺哲夫さんの『死と狂気』に触れた箇所があります。そこに出てくる「歴史的に構造化する」という語句の意味が問われています。この解答が、どうも腑に落ちないのです。<br /><br />と言っても、これだけでは、何のことか分かりませんね。以下に問題文の必要箇所を引用しておきます（ご面倒なら、あとから読んでくださってもけっこうです。原文と設問の雰囲気だけ分かってもらえば、以下で私の言いたいことは伝わるはずです）。<blockquote>渡辺によれば、死者は、「生者たちの生存と生活を D<u><b>歴史的に構造化する</b></u>」力を持ち、「常に不特定、没個性」である。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何より言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」。われわれが死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ。<br />　渡辺はこの観点から他者論を見直し、「他者」という言葉の多義性を三つに分ける。第一に、「ほとんどの他者は、死者である。……他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつ」。第二に、「他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する」。これを著者は「言語的分節世界」と呼ぶ。つまり、死者によって構造化された世界のことだ。それは、生者から見れば収奪したものであり、死者から見れば贈与したものだ。第三に、「生きている個々の他者、他人」である。従来の他者論がこの第三の他者を中心に論じられてきたのに対して、渡辺は第一、第二の他者の見直しを図ろうというのである。</blockquote>次に、設問と選択肢を示します。<blockquote>問七　傍線部D「歴史的に構造化する」の説明としてもっとも適当なものを次の中から選び、その記号の記入欄にマークせよ。<br />　イ　われわれの生きている世界はすべて無名の先人たちが築き上げてきたものだということ。<br />　〔略〕<br />　ニ　個々の人間を歴史の中に位置づけることを通して、普遍的な人間の運命を明らかにするということ。</blockquote>わずらわしいので、選択肢は2つを除いて省略しました。私はこのうち「イ」が正解だと考えたのですが、赤本では「ニ」が正解となっています。はたして、本当に正解は「ニ」でしょうか。<br /><br />素直に読めば、「イ」なのです。事実、赤本の解説にも、こう書いてあります。〈他者たる死者は、現在の生者に日常的秩序を贈与する。それがすなわち「死者による世界の構造化」ということ〉。つまり、現在、宗教・法律・慣習・倫理などといった、私たちの世界を構成する基本的なものや概念は、すでに死んでしまった先人たちが形作ったものだ、彼らから贈与された遺産だ、というのです。それなら、「イ」の選択肢そのままではありませんか。<br /><br />もっとも、赤本では、続けて〈イとニで迷うが〉と書いています。〈イは「無名の先人たちが築き上げてきた」が「死者たちに負うて」きたの言い換えとして不適当。ニの「歴史の中に位置づける」が「構造化」の言い換えにあたる〉と説明しています。<br /><br />でも、渡辺さんがここで言う「死者」とは、〈没個性の霊魂の群れの“顔”〉なのだから、これを〈無名の先人たち〉と言ってもいいはずです。〈言い換えとして不適当〉どころか、どんぴしゃりです。むしろ、「ニ」は、〈歴史の中に位置づける〉はたしかに「構造化」の言い換えかもしれませんが、〈個々の人間を歴史の中に位置づける〉は意味をなさないし、後半の〈普遍的な人間の運命を明らかにする〉はいっそう意味不明です。つけ加えれば、もとの選択肢「イ～ニ」の中で、日本語として意味が通るのは、唯一「イ」だけです。<br /><br />「いや、それはやはりあなた（飯間）の考えが足りないのではないか。自分が答えを誤ったので、くやしまぎれに強弁しているだけだろう」と言われるかもしれません。<br /><br />ところが、驚くべきことがあります。渡辺さんの説を批評しているこの問題文の筆者、末木文美士さんがホームページを開設していて、そこで、同じように渡辺さんの文章を批評しています（「<a href="http://homepage3.nifty.com/bunmao/INDEX.HTM" target="_top">ボクの哲学モドキ</a>」のうち「<a href="http://homepage3.nifty.com/bunmao/0233.htm" target="_top">死から死者へ</a>」。2002年の文章）。そして、そこには次のように書かれています。<blockquote>　渡辺さんの説には、柳田・折口の民俗学の影響が強い。著者によれば、死者とは、「生者たちの生存と生活を歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である（23 頁）。というと分りにくいけれど、<b>要するにボクたちの生きている世界はすべて先人たちが築き上げてきたものだ、ということだ</b>。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何よりも言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」（33頁）。ボクたちが、死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ（25頁）。</blockquote>なんと、筆者自らが、正しい選択肢が「イ」であることを証言しているではありませんか。<br /><br />末木さんのホームページの文章は、著書の一節が早稲田の入試問題として取り上げられる以前のものです。ことによると、著書の中にも、こんなふうに「歴史的に構造化する」の意味を解説した部分があるのかもしれません。入試問題の作成者もそれを踏まえていたのではなかったでしょうか（何しろ、選択肢の言い回しがそっくりだから）。<br /><br />おそらく、この設問は、問題作成者の親切によるものでしょう。「歴史的に構造化する」と言われても、受験生は分かりません。そこで、「これはこういう意味ですよ」ということを、選択肢の形で教えてあげたのだろうと推測します。現に、私も「イ」の選択肢を読んで、そのあとの読解が助けられました。もし「ニ」が正解だとしても、それは語句の説明としてまったく意味不明であり、読解の役には立ちません。<br /><br />今回の例は、赤本の誤りであると確定しました。私としては、自分の正しさが確認されて、満足しました。もっとも、こんなことで「スクープ」などといい気になってはいけないのでしょう。入試問題の模範解答は、出版社や予備校によって、往々にして食い違いがあると聞いています。今回のような例は、ほかにもざらにありそうです（今回、私が解いてみた問題の中には、ほかにも疑わしいものがありました）。<br /><br />それにしても、こうした例がもし「ざらにある」ならば、受験生の人たちはかわいそうです。模範解答が間違っているにもかかわらず、「自分のほうが間違いだ」とむりに納得している人がいるかもしれません。出版社や予備校の責任は重いし、さらに責任が重いのは大学です。大学、特に難関大学は、ぜひとも入試の正解を公表すべきであると、最後に結論を添えておきます。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/226485498.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/226485498.html</link>
<title>「どうも！にほんご講座です。」の冒険</title>
<description>■私で務まるのか？2011年4月から半年間、NHK Eテレの「どうも！にほんご講座です。」の講師を務めました。外国人学習者のための日本語講座です。本放送が土曜日の午前5時5分から、再放送が翌週金曜日深夜の12時半からという、あまり視聴率の見込めない放送時間帯でした。ただ、それだけに冒険もできました。桜金造さん扮するそば屋の主人とその一家が巻き起こす小事件を扱いながら、日本の古いコントのフレーズや、芸能人の名言などを紹介するという、なんとも変わった番組が誕生しました。放送がもう..</description>
<dc:subject>コミュニケーション</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2011-09-18T09:16:13+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<br />■<b>私で務まるのか？</b><br /><br />2011年4月から半年間、NHK Eテレの「<a href="http://www.nhk.or.jp/gogaku/other/japanese/" target="_top">どうも！にほんご講座です。</a>」の講師を務めました。外国人学習者のための日本語講座です。本放送が土曜日の午前5時5分から、再放送が翌週金曜日深夜の12時半からという、あまり視聴率の見込めない放送時間帯でした。ただ、それだけに冒険もできました。桜金造さん扮するそば屋の主人とその一家が巻き起こす小事件を扱いながら、日本の古いコントのフレーズや、芸能人の名言などを紹介するという、なんとも変わった番組が誕生しました。放送がもう少しで終わるのを期に、この番組を総括しておきます。<br /><br />最初、講師の話をいただいたとき、「私で務まるのか」と驚きました。私は、日本語研究者、国語辞典編纂者であって、日本語教育の専門家ではありません。大学で外国人学生対象の日本語クラスを持ってはいますが、それは上級者を対象にしたものです。初級・中級者といった、外国語を学ぶ途上にある人に対する教授法を知りません。私が日本語講座を担当するなんて、魚の缶詰工場の工員が漁に出るとか、SF作家がロケットの乗組員になるとか、そのくらいの違和感があります。日本語教育の専門家が知ったら激怒するのではないか。<br /><br />でも、テレビで自分のことばで語る機会が得られる、というのは魅力的です。「ともかく、走りながら考えよう」と腹を決めて、話をお受けしました。<br /><br />話を受けてから、「そうは言っても、知識が不足していてはまずいだろう」と思い、日本語教育関連の本を改めて読みました。教授法のDVDも取り寄せて視聴しました。そうやっていくつかを読んだり見たりしたものの、途中でやめてしまいました。「どうやら、これらの内容は、テレビの語学番組にはあまり関係がない」と考えたからです。<br /><br />■<b>放送講座は対面教育ではない</b><br /><br />日本語教育に限らず、世にごまんと出ている外国語教育のための本は、言うまでもなく、対面教育を前提にしています。生徒と向かい合って、動詞の活用を教えたり、発音を指導したりするためのものです。それらを教える際、どういうところに気をつけたらいいかということが、すなわち日本語（外国語）教授法です。<br /><br />ところが、放送による語学講座（放送講座）では、講師は学習者と対面していません。「ああ、そういう言い方はしませんよ」「その発音では分かりません。もう一度」「すばらしい。最初よりずいぶんよくなりました」などと声をかけることはできません。対面教育のように、フィードバック（軌道修正のための助言）を与えたり、上達度を評価してモチベーション（やる気）を高めたり、ということは不可能です。これは、一般的な語学教育の指導方法が、放送では通用しないことを意味します。<br /><br />放送講座にはまた、決定的な制約があります。それは放送時間です。NHKの語学テキストのうちどれでもいいので、巻末か巻頭に載っている「語学講座放送時刻表」を見てください。放送時間が一番長い番組でも、テレビなら週1回25分、ラジオなら週4回15分です。想像してほしいのですが、あなたが語学学校に通うとして、週イチで25分間教室に座っているだけで、外国語が上達すると思うでしょうか。ほとんど絶望的です。今回の番組の場合、なんと週イチで15分間の放送です。一般的な日本語教授法によるかぎり、どんなに優秀な教師だって、これだけの時間で学習者のレベルを大きく上げることは困難です。<br /><br />■<b>放送講座で必要なこと</b><br /><br />では、立場を変えて、自分が放送講座で学ぶとしたら、番組に何を求めるかを考えてみましょう。私はこれまで、NHKラジオの語学講座にはたいへんお世話になりました。中学の時の「基礎英語」から始まって、「中国語講座」「ハングル講座」「ロシア語講座」あたりまで手を出しました。ドイツ語やフランス語もちょっとはやってみました。放送講座で最もありがたかったのは、「ネイティブのゆっくりした発音が聴ける」ということでした。講師の人には悪いのですが、あまりに細かい文法説明などはどうでもよかったのです。「いいスキット（短いドラマや会話）の提供」。私が放送講座に求めるものはこれでした。<br /><br />ラジオでの私の学習法は、ざっと以下のようです。第1、「スキットのゆっくりした発音を聞く」。第2、「そのとおりに自分も繰り返す」。第3、「日本語訳を参照しながら意味を取る」。第4、「スキットを暗記する」……これだけ。要するに、「聴いて、覚える」の繰り返しです。だから、放送時間は20分（昔は今よりちょっと長かった）でも、繰り返し聴いて覚えるためには、何時間もかかりました。<br /><br />放送講座では、学習者自身が先生役を務めなければなりません。スキットが覚えられなければ「もう少しがんばろう」と自ら励ましたり、スキットがやや長いと思う日は「この部分だけ覚えればいいことにしよう」とハードルを下げたりします。分からないことがあれば、人に質問もできないので、自分なりに「こうだろう」と納得できるまで調べるしかありません。「独習」というのは、そういうことです。語学の独習は、基本的に、苦難の道のりなのです。<br /><br />放送講座の講師が生徒と対面できない以上は、やるべきことの第一番は、いい素材の提供です。「この文章を覚えてみたい」「こういうことばを使ってみたい」と学習者が思うような魅力的な素材が提供できれば、その講座は、責任のかなりの部分を果たしたと言えるでしょう。<br /><br />余談になりますが、魅力的な素材ということであれば、必ずしも放送講座や語学CDのスキットに限ることはありません。外国の映画やドラマ、音楽を繰り返し聴いて覚えるのも、語学力の向上のためにはたいへん有効です。などと言ってしまっては、NHKには悪いのですが……。<br /><br />■<b>学習の原動力を提供</b><br /><br />さて、「どうも！にほんご講座です。」をどうするか。週イチ15分では、一般的な日本語教授法が通用しないことは、すでに述べました。初回に「私、○○と申します」を教え、それから1週間も経って「これは何ですか」を教えるといった調子では、学習者のやる気は下がりまくりです。また、対面教育なら、何人かが15分間「私、○○と申します」と自己紹介しあうだけでも間が持ちますが、放送では、延々それだけを流すわけにもいきません。<br /><br />ここは、「セサミストリート」方式で行こうと考えました。「セサミ」は、かつてNHK教育テレビで放送されたアメリカの子ども番組です。せりふはふつうの英語で、吹き替えなし（後には副音声がついた）。日本の子どもには、話の内容はほとんど分からないはずですが、大人気の番組でした。私もよく見ており、「なんだか分からないが、英語はおもしろそうだ」ということは分かったのです。<br /><br />「どうも！にほんご」も、「日本語はおもしろそうだ」と感じてもらうことに徹しよう。スタッフとの話し合いでは、この点を強調し、賛同を得ました。スキットの日本語をやさしくするという配慮はするけれども、出演者の自由会話は、別に語彙を制限したりせず、ふつうに話してもらうことにしました。初級学習者で、日本語がよく分からなくても、「なんだかおもしろそう」と興味を感じさえすれば、それが学習を続けるための原動力になります。番組は、その原動力を提供しようと考えました。<br /><br />■<b>自分がおもしろいと思うことをやる</b><br /><br />では、どういう方法をとれば、おもしろさを感じてもらえるのでしょうか。これは、正直なところ、分かりません。おもしろさの感覚は人によります。千差万別の学習者が、一致しておもしろがるような内容にすることは不可能です。「こうすればウケるのではないか」などと、実感もないまま、学習者の好みを想像しながら番組を作ることはできません。<br /><br />となれば、方法はひとつです。自分がおもしろいと思うことをやるしかありません。<br /><br />私が提案したのは、「日本語のおもしろフレーズを紹介しましょう」ということでした。日本には昔から、「アーノネオッサン、ワシャカナワンヨ」（高勢實乗）だの、「地球の上に朝が来る」（川田義雄）だのといった、変なフレーズ（ギャグフレーズとも言う）がたくさんあります。以上は戦前のものですが、戦後になると、「こりゃまた失礼いたしました」（植木等）とか、「飛びます、飛びます」（坂上二郎）とか、「次行ってみよう、次」（いかりや長介）とか、有名なフレーズが次々に生まれました。おもしろフレーズに限らなくとも、「ふつうの女の子に戻りたい」（キャンディーズ）、「ぼくは死にません」（武田鉄矢）、「同情するなら金をくれ」（安達祐実）など、メディアから生まれた名ぜりふは無数にあります。これらを織りこんだスキットを作るというのはどう？<br /><br />「なぜ、そんなフレーズを？」――それは、私自身が好きだから、としか言いようがありません。私自身が、クレージーキャッツのコントが好きで、ドリフターズの番組をよく見ていて、キャンディーズのファンだから、というのが理由です。流行したフレーズは、いずれも、日本語の音のおもしろさや表現のおもしろさを備えていて、ついついまねして使いたくなります。いや、そうした実用性を離れても、「ことばというものはおもしろい」ということを表現する材料として、私がまず取り上げたいのは、こうしたフレーズなのです。日本の詩歌や小説の一節を紹介してもいいわけですが、それは別番組の「にほんごであそぼ」に任せます。私は、私のおもしろいと思うことをやる。いかがでしょう。<br /><br />■<b>放送開始</b><br /><br />放送は、4月2日から24回の予定で始まりました。内容は、大きく分けて、5つのコーナーからなります。<br /><br />まず、桜金造さんのそば屋一家のスキット。短いコメディーで、毎回、往年の名フレーズのひとつが物語のポイントになります。たとえば、「こりゃまた失礼いたしました」の回では、金造さんが、植木等の「お呼びでない」のギャグを再現します。<br /><br />次に、2人のアニメキャラが登場し、語法の解説をします。「失礼」ということばにはどういう使いかたがあるか、といった具合です。<br /><br />3番目に、和服姿の私が畳の部屋に座り、名フレーズの流行した当時の背景について語ります。私の要望で、このコーナーにも要所にギャグを入れてもらいました。<br /><br />4番目に、「にほんご紙芝居」のコーナー。外国人の解答者を前に、私が、こんどは紙芝居屋の格好をして、日本語に関するクイズを出します。素材には、主に、私が街の中で撮影してきた写真を使います。アシスタントは、タレントのもりまいさん（<a href="http://ameblo.jp/mai-morishita/" target="_top">森下まい</a>さん）です。<br /><br />最後に、VTR映像で、日本で働いている外国人に「仕事で出合った日本語」について語ってもらいます。<br /><br />これで15分。短い時間に、盛りだくさんな内容です。私としては、昔の「ウゴウゴルーガ」の雰囲気もちょっとあるのではないかと思います。<br /><br />■<b>ツイッターやブログの反応は</b><br /><br />心配なのは、視聴者の反応です。外国人学習者がブログやツイッターを使って、「日本語で」番組の感想を書くことはむずかしいため、今のところ、彼らの反応を知ることはできません（NHKには声が寄せられているかもしれません）。私に分かるのは、（本来の対象ではない）日本人視聴者の反応です。これらを見るかぎり、私のねらいは、まあまあ成功したと考えています。<br /><br />反応は大きく2つに分かれました。ひとつは、「学び初めの外国人にはむずかしい内容ではないか」ということです。これは覚悟していました。「セサミストリート」のように、内容の理解よりも、まず言語のシャワーを浴びせることを目的としているのですから、少々むずかしくてもやむをえません。<br /><br />もうひとつは、「日本語講座とは思えないフレーズを教えている」。それはそうです。何しろ、コントなどのフレーズを教えるのですから。このことについては、「非常識で、よくない」という反応はごく少なく、「意外で、おもしろい」という反応が多いようです。週の番組のタイトル（フレーズが載っている）に興味を引かれて番組を見た人も少なくないようでした。<br /><br />「ふつうの女の子に戻りたい」の回では、ツイッターに「こんな特殊なフレーズ、使っている人は3人しか見たことがない」という趣旨の意見が出ました。つまり、キャンディーズの3人だけ、というわけ。そのとおりですが、この回では「～たい」の言い方を学習しています。キャンディーズの名ぜりふをきっかけに、希望表現のいろいろを覚えてもらおうという、なかなか手のこんだことをやっているつもりです。<br /><br />■<b>問題提起は果たした</b><br /><br />私の見た範囲は、あくまでブログやツイッターに限られますが、「不まじめだ」とか「つまらない」という反応はまずなく、むしろ強い興味を示してくれたものが多かったことは幸いでした。<br /><br />語学の独習は苦難の道のりだと述べました。その苦しさを乗り越えさせるのは、「この言語はおもしろい」と感じる学習者の気持ちです。放送講座では、何よりもまず、その気持ちを持ってもらうことが肝心です。おもしろい素材にもいろいろありますが、私の「好み」から言えば、それはコントなどのフレーズだったということです。<br /><br />日本語教育の方法論から言えば、邪道のそしりもあるかもしれません。でも、「自分が学習者だったら何を望むか」を突きつめて考えた結果として、放送講座のひとつのありかたを示したつもりです。問題提起の役割は果たすことができたでしょう。<br /><br />この番組は、今年度下半期も同じくEテレで再放送されることが決まっています。放送時間は上半期と同じで、土曜日の午前5時5分からと、翌週金曜日深夜の12時半から。再放送のほうが視聴しやすいと思います。関心のおありのかたは、どうか、ぜひご覧ください。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/226333649.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/226333649.html</link>
<title>○×式のことば報道はよくない&lt;br /&gt;――「間が持てない」と「間が持たない」</title>
<description>文化庁の平成22年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されました。この調査については、「いったいどれほどの税金をつぎこんでいるのだろう」という個人的な疑念はありますが、それは置いておきます。ことばの変化や、人々の意識の変化について、有益な情報が含まれていることは確かです。ところが、メディアは、これを単なる「正しいことば遣い調査」ととらえているふしがあります。調査には、〈本来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこに..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2011-09-17T08:49:56+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
文化庁の平成22年度「<a href="http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h22/pdf/h22_chosa_kekka.pdf" target="_top">国語に関する世論調査</a>」の結果が公表されました。この調査については、「いったいどれほどの税金をつぎこんでいるのだろう」という個人的な疑念はありますが、それは置いておきます。ことばの変化や、人々の意識の変化について、有益な情報が含まれていることは確かです。ところが、メディアは、これを単なる「正しいことば遣い調査」ととらえているふしがあります。<br /><br />調査には、〈本来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこにも書いてありません。価値判断は持ちこまずに、ことばの変化を調べています。それが、ニュースでは、「正しい言い方をしている人何パーセント」などと表現されます。調査の趣旨が単純化されて、「○×クイズ」になってしまうのです。<br /><br />調査項目のうち、「間が持てない」「間が持たない」を取り上げましょう。これは、どちらが誤用とも言いがたいものです。報道では、〈慣用句でも「間が持てない」を６割以上が「間が持たない」と誤って理解していることが分かった〉（「<a href="http://sankei.jp.msn.com/life/news/110915/edc11091521220003-n1.htm" target="_top">MSN産経ニュース</a>」2011.09.15）と説明していますが、さあ、はたして「誤って」なのでしょうか。<br /><br />まず、歴史的にどうだったかをたどってみます。『日本国語大辞典』には「間が持てない」の用例は出ていないので、いつ頃から使われたことばか、よく分かりません（この辞書では、文献に用例のあることばは、その例を載せています）。私の調べた範囲では、漱石・鴎外も、芥川も、太宰も使っていません。もともと、古くからの慣用句というほどではなさそうな印象を受けます。<br /><br />ウェブの「青空文庫」では、戦後の例が出てくるだけです。<blockquote>・三芳 （<b>間が持てないで</b>）君の家でも皆さん元気だそうだ。（三好十郎「<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/49745_34066.html" target="_top">猿の図</a>」〔1947年〕）<br />・これは舞台の上でも或る意味で、間を黙つてる人物の<b>「間」がもてない</b>といふことを救ふことにもなるけれども、（岸田國士「<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44810_40534.html" target="_top">対話</a>」〔1949-50年〕）</blockquote>私が検索したところでは、以上の2例が出てきました。<br /><br />一方、「間が持たない」は「青空文庫」にはありません。「Googleブックス」で検索すると、中野重治（1902年生まれ）の「中国の旅」（1958年、『中野重治全集 第二十三巻』筑摩書房 p.414）の例が出てきます。<blockquote>「堀田さん、ちよつときてくださいよ。僕らのところにオーストラリアの御婦人がひとりいるんですよ。何ということもないことはないんですが、どうにも、<b>間がもたないんだ</b>。郭さんは英語ができるらしいんですが、話すとなるとらくに行かぬらしいんですよ。頼みます、掘田さん……」（原典で確認）</blockquote>三好十郎や岸田國士よりも若干遅れますが、まあ、「間が持たない」も、かなり前から使われています。<br /><br />次に、文法的に考えます。「持てない」の肯定形「持てる」は、『日本国語大辞典』に〈保たれる。維持できる〉と説明されています。『浮世床』（1813-23年）に〈此上に飲ぢゃア身は<b>持（モテ）ねへ</b>〉とある「持ねへ」は、ちょうど「間が持てない」の「持てない」と同じ用法です。<br /><br />ところが、「身が持てない」は、また「身が持たない」とも言います。ごくふつうの使いかたです。「持つ（保つ）」は、これも『日本国語大辞典』の語釈では〈長くその状態が継続される。維持される。保たれる〉だから、「身が持てない」「身が持たない」いずれも意味は通ります（歴史的な新古はともかく）。<br /><br />「間が持てない」と「間が持たない」の関係も、これと同じです。「間が持てない」は「間が保たれない、間が維持できない」ということ、「間が持たない」は「間が維持されない、保たれない」ということであって、ニュアンスは違うけれど、両方とも理屈は通ります。世論調査では〈することや話題がなくなって、時間をもて余すこと〉をどう言うかを尋ねていますから、どちらを答えても「誤り」ではありません。<br /><br />手元の小説の資料を見ると、作家の世代によって差があるのは事実です。戦後に活躍した作家はずっと「間が持てない」を使っていますが、「間が持たない」も徐々に現れます。上記の中野重治の例のほかには、野坂昭如（1930年生まれ）の長編『エロ事師たち』（1963年）にも見え、若い世代の村上春樹（1949年生まれ）、町田康（1962年生まれ）、三浦しをん（1976年生まれ）といった人々の作品にもあります。<br /><br />世論調査では、さらに若い世代でこの傾向が強まっているという、おもしろい結果が現れています。それを単なる正誤の観点でまとめてしまっては、内容が浅くなります。<br /><br />国語辞典の記述はどうかというと、私のたずさわる『三省堂国語辞典』を含め、「間が持てない」のみを載せる辞書が大部分です。これは、「間が持たない」を誤用と考えるからではなくて、この語形を見落としたり、軽視したりした結果と言うべきです。こうした中で、『明鏡国語辞典』は、新形の「間が持たない」のほうだけを載せているのは、現代語の辞書としてきわめて妥当です。<br /><br />『明鏡』がせっかく「間が持たない」を載せても、報道でこれを「誤り」としてしまっては、辞書の利用者は混乱するでしょう。「なぜ『誤用』のほうを載せるんだ？」と『明鏡』の編集部に批判が殺到していないことを祈ります。くどいようですが、報道のしかたのほうが短絡的なのです。<br /><br />参考文章：「<a href="http://yeemar.seesaa.net/article/24838163.html" target="_top">「愛想を振りまく」は使われないか</a>」<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/179571957.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/179571957.html</link>
<title>文章の書き方</title>
<description>今回は宣伝めいた文章です。「文章の書き方」の本を、これまでに2冊出しました。1冊は2年前、もう1冊は今月の刊行です。A 『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』（ディスカヴァー）B 『伝わる文章の書き方教室』（ちくまプリマー新書）いっぱしの文章家気取りか、と言われると心苦しい限りです。私は格別、文章家でも名文家でもありません。ただ、「こう書けば論理の通った文章になる」「こう書けば分かりやすい文章になる」ということを、筋道を立てて説明する自信はあります。簡単な原理を守..</description>
<dc:subject>表現・文章一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2011-01-08T08:22:53+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
今回は宣伝めいた文章です。<br /><br />「文章の書き方」の本を、これまでに2冊出しました。1冊は2年前、もう1冊は今月の刊行です。<blockquote>A 『<a href="http://www.amazon.co.jp/o/asin/4887596790/" target="_top">非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門</a>』（ディスカヴァー）<br />B 『<a href="http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480688536/" target="_top">伝わる文章の書き方教室</a>』（ちくまプリマー新書）</blockquote>いっぱしの文章家気取りか、と言われると心苦しい限りです。私は格別、文章家でも名文家でもありません。ただ、「こう書けば論理の通った文章になる」「こう書けば分かりやすい文章になる」ということを、筋道を立てて説明する自信はあります。簡単な原理を守って書きさえすれば、誰にでも、最低限の論理性と明快さを備えた文章が書けます。そのことを説明しました。<br /><br />それにしても、「簡単な原理」を説明するために、2冊も本を書く必要があるのだろうか、という疑問は、当然生まれます。簡単な説明なら、1冊ですむはずです。<br /><br />ただ、この2冊が扱う文章は、それぞれちょっと違います。テーマが微妙に違うので、やはり、別々の本で論じる必要があります。<br /><br /><font color="#d68389">●●</font><br />Aの『<a href="http://www.amazon.co.jp/o/asin/4887596790/" target="_top">非論理的な……</a>』では、論理的な文章を書くための方法を説明しています。この本を書くに当たって、私が特に念頭に置いたのは、大学生のレポートや論文です。<br /><br />私自身、大学生の頃、レポートを書くのには苦労していました。「レポート・論文の書き方」といった本は読んだし、文章構成をどうするか、資料をどう集めるか、参考文献をどう示すか、などということは分かりました。それでも、レポート・論文と呼ばれる文章の本質については、まだよく理解できませんでした。「あっ、要するにこういうことか」と分かったのは、大学卒業後、ずいぶん経ってからのことでした。「こういうことか」と気づいた文章の根本原理を、できるだけていねいに、単純明快に説明しようとしたのが、Aの本です。<br /><br />Aの本は、幸いにも、予想外の好評をいただきました。高校や大学などで文章指導に当たっている方々、あるいは、文筆にたずさわる方々などから、激賞とも言えるご評価をいただいたことは、著者冥利に尽きました。自分の考え方が間違っていないと認めてもらえることほど、うれしいことはありません。中には、「当たり前のことしか書いていないじゃないか」という批判もありましたが、これも、ある意味ではほめことばです。何しろ、「あとがき」で断ってあるように、私はそもそも「当たり前」のことを書こうとしたのですから。「当たり前」のことが分からないからこそ、（学生時代の私を含め）みんな困っているのです。<br /><br /><font color="#d68389">●●</font><br />Bの『<a href="http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480688536/" target="_top">伝わる文章の書き方教室</a>』は、論理的な文章にとどまらず、およそ文章を書くときに必要な、「伝える」という目的を達する方法を説明しています。文章を書く目的は何かというと、これはほぼ例外なく、ものごとを読み手に伝えることです。ところが、肝心の「伝える」という機能が果たされていない文章が少なくありません。そのような文章をどう書き換えれば伝わるようになるか、というところに話をしぼって書きました。<br /><br />などと言うと、実に大まじめな感じです。でも、私はむしろ、読者に楽しんでほしいと思って書きました。<br /><br />この本は、ゲームふうの「例題」の連続で進んでいます。例題を解きながら、文章のコツを会得してもらおうとしています。<br /><br />例題とは、たとえばこういうものです。ある小説の一節を、「い」の音を使わずに書き換えてみる。あるいは、漢語（漢字を音読みすることば）を一切使わない文章に書き換えてみる、などなど。ほかにも、ことば遊びふうの例題を多く用意しています。<br /><br />「ことば遊びなんかやりたくないよ、それがどうして『伝わる文章』の話につながるのだ？」と言われそうです。でも、ちゃんとつながりますから、心配しないでください。本書は、「ゲーム感覚で楽しみながら、伝わる文章が書けるようになる」ことをねらって書いています。さっそくお寄せいただいた感想の中には、「実用書であるとともに実に楽しい読み物となっている」というおほめのことばもあって、まさしくそのつもりで書いた私としては、ありがたいことでした。<br /><br /><font color="#d68389">●●</font><br />レポート・論文に追われる学生諸君は<a href="http://www.amazon.co.jp/o/asin/4887596790/" target="_top">Aの本</a>を、楽しみながら、達意の文章が書けるようになりたいと思う方は<a href="http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480688536/" target="_top">Bの本</a>を、どうぞご覧ください。<br /><br /><br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/159051619.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/159051619.html</link>
<title>昔は「がんばれ」を「しっかり」と言った（か）</title>
<description>再び、NHK「みんなでニホンGO!」についての話です。2010.08.05の放送では、「がんばれ」という励ましのことばが取り上げられました。「がんばれ」と励まされると、プレッシャーを感じて、必ずしもうれしくないというのです。この回のディレクターの方からも、私はちょっとだけ電話取材を受けました。また、以前書いた「「頑張れ」の支持率」も参考にしていただいたそうです（番組の内容にかなり近いことが書いてあります）。ただ、私の話は、結局番組では取り上げられずに終わりました。残念。上記の..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2010-08-10T18:58:18+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
再び、NHK「<a href="http://www.nhk.or.jp/nihongo/" target="_top">みんなでニホンGO!</a>」についての話です。2010.08.05の放送では、「がんばれ」という励ましのことばが取り上げられました。「がんばれ」と励まされると、プレッシャーを感じて、必ずしもうれしくないというのです。<br /><br />この回のディレクターの方からも、私はちょっとだけ電話取材を受けました。また、以前書いた「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k030210.htm" target="_top">「頑張れ」の支持率</a>」も参考にしていただいたそうです（番組の内容にかなり近いことが書いてあります）。ただ、私の話は、結局番組では取り上げられずに終わりました。残念。<br /><br />上記の文章に書かなかったことで、私が話したのは、「昔はあまり『がんばれ、がんばれ』とは言わなかった」ということでした。<br /><br />もちろん、戦前だって、かの「前畑がんばれ、前畑がんばれ」（1936年のベルリンオリンピックの中継放送、河西三省アナウンサー）のアナウンスが知られるとおり、「がんばれ」と応援していました。でも、それは、スポーツなど、闘志を持って行動している人にかけることばだったと思います。<br /><br />「がんばれ」と言わないとすれば、何と言ったかというと、「<b>しっかり</b>」です。昔は、やわらかい調子で「しっかり！」と励ましていたのが、いつしか、強い調子の「がんばれ！」が広がってきました。結果的に、「しっかり！」と言えばすむところにまで「がんばれ！」を使うことになり、言われてつらい思いをする人も増えたのでしょう。<br /><br />「しっかり」という励ましは、今ではあまり聞かなくなりましたが、昔は使っていました。たとえば、獅子文六『悦ちゃん』（1937年作品）では、主人公の悦ちゃん（柳悦子）が、近所の教会で童謡を歌う場面で、友だちから「しっかり」「がんばれ」という声援が飛びます。<blockquote>　悦ちゃんは、ノコノコ、壇へ上って行った。／「<b>しっかり</b>やってえ、柳さアーン！」／「<b>ガンばれえ</b>、悦ちゃアん！」／　キワ子さんとチヨ子さんが、黄色い声を張り上げると、それを合図のように、方々から声がかかった。悦ちゃんを知らない子供が大勢だのに、口真似{くちまね}をして、／　「悦ちゃアん！」／　「悦ちゃアん！」と、ものすごい声援である。（角川文庫 p.347-348）</blockquote>ここでは「しっかり」と「がんばれ」が並んで使われています。<br /><br />明治から終戦後にかけての小学校の国定読本（第1期～第6期）を見ていくと、次のような使われ方をしています。「しっかり」がやや優勢です。<blockquote>　第2期　1910　明治43～　しっかり1<br />　第3期　1918　大正 7～　しっかり2<br />　第4期　1933　昭和 8～　しっかり1　がんばる1<br />　第5期　1941　昭和16～　しっかり2　がんばる1<br />　第6期　1947　昭和22～　しっかり2　がんばる1</blockquote>国定読本では、スポーツの応援場面でも「しっかり」が使われます。<blockquote>ボク　ハ、一生ケンメイ　ニ　走リマシタ。／「<b>シッカリ</b>。」／「早ク、早ク。」／オウヱン　ノ　コヱ　モ、ゴチャゴチャ　ニ　ナッテ　聞エマス。（4期2-2「四　カケッコ」）<br /><br />ぼくたちは、コートへでていった。／たかやま先生が、／「<b>しっかり</b>やれ。」／と、元気づけてくださった。／「ピー。」／と、用意のふえが鳴った。（6期4-1「五　作文（ドッジボール大会）」）</blockquote>一方、「がんばる」はどうかというと、山登りでへばっている友だちに「がんばれ」と言ったり、戦場の塹壕で〈一週間もがんばりつづけましたが〉のように使ったりしています。「しっかり」よりも過酷な感じです。<br /><br />佐々木邦「わんぱく時代」（1932年作品）では、相撲を取る場面で、「がんばれ」は使われず、「しっかり」が使われます。<blockquote>「よしよし」／「今度は負けない」／「何だ？　このヒョロ／＼が」／　と九鬼君も一生懸命だった。／「稲垣君{いながきくん}、<b>しっかり</b>！」／「<b>しっかり</b>、<b>しっかり</b>！」／　と王供君{おうともくん}と別所君{べっしょくん}と大西君{おおにしくん}が応援してくれた。／「坊ちゃんさま、坊ちゃんさま、<b>おしっかり</b>」／　と神戸さんは大声を立てた。行司のくせにひいきをする。僕は九鬼君を土俵際へ押しつめた。（『佐々木邦全集』第14巻（講談社）p.170）</blockquote>今だったら、こんな時に「しっかり」とは絶対言わず、「がんばれ」しかないと思います（なお「おしっかり」はわざとです）。<br /><br />「しっかり」が似合うのは女性です。小津安二郎監督の映画「麦秋」（1951年松竹）では、「しっかり」の使われる場面が2か所あります（以下の引用、松竹ホームビデオによる）。<blockquote><b>間宮康一</b>（笠智衆）　とにかく終戦後、女がエチケットを悪用して、ますますずうずうしくなってきつつあることだけは確かだね。<br /><b>間宮紀子</b>（原節子）　そんなことない。これでやっと普通になってきたの。今まで男がずうずうしすぎたのよ。<br /><b>間宮史子</b>（三宅邦子）　<b>しっかりしっかり</b>。ふふふ。<br />　…………<br /><b>田村アヤ</b>（淡島千景）　幸福なんて何さ。単なる楽しい予想じゃないの。競馬に行く前の晩みたいなもんよ。あしたはこれとこれとこれ買って、大穴が出たら何買おうなんて、一人でわくわくしてるようなもんよ。<br /><b>高梨マリ</b>（志賀眞津子）　違う。〔未婚者にはそんなこと言う〕権利なし。<br /><b>安田高子</b>（井川邦子）　権利なし。<br /><b>アヤ</b>　あんた何さ。<br /><b>間宮紀子</b>（原節子）　〔アヤに〕<b>しっかりしっかり</b>。</blockquote>こういうときに、当時の女性はあまり「がんばれ」とは言わなかっただろう、「しっかり」がふつうだったろう、というのが私の見方です。<br /><br />「がんばれ」は命令形なので、「何をがんばればいいのか？」と反発する気持ちも出てきます。一方、「しっかり」は、「土台がゆるがないように」「気をつけて」というような意味なので、反発する気持ちも起こりません。この点は、「しっかり」の長所です。このことばが使われなくなったのは、もったいないことです。<br /><br />「がんばれ」と言われて傷つく人に対しては、「しっかりね」と言ってはどうでしょう。今の感覚に合うことばとして、推薦しておきます。<br /><br /><font color="#0060ff">▼</font><b>関連文章</b>＝「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k030210.htm">「頑張れ」の支持率</a>」<br /><br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/156550063.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/156550063.html</link>
<title>「私って～じゃないですか」なんて言う人はいるのか</title>
<description>（長く放っておいたブログを、突然更新します。三省堂辞書サイト「国語辞典入門」など、他の文章を書くのに時間を割かれて、自分のブログの文章を書く余裕がありません。でも、他の媒体で当面書かないと思われる話題は、できるだけここに書きつけておきます。）NHK「みんなでニホンGO!」の今週の放送（2010.07.15 22:00）は、語尾の「じゃん」および「私って～じゃないですか」を取り上げました。後者では、特に、「私って、うそのつけない人じゃないですか」のように、相手の知るはずもない、..</description>
<dc:subject>文法一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2010-07-16T22:01:11+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
（<font color="#808080">長く放っておいたブログを、突然更新します。三省堂辞書サイト「<a href="http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/table_of_contents/%E9%A3%AF%E9%96%93%E6%B5%A9%E6%98%8E%E3%81%95%E3%82%93%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8%E5%85%A5%E9%96%80/" target="_top">国語辞典入門</a>」など、他の文章を書くのに時間を割かれて、自分のブログの文章を書く余裕がありません。でも、他の媒体で当面書かないと思われる話題は、できるだけここに書きつけておきます。）</font><br /><br />NHK「<a href="http://www.nhk.or.jp/nihongo/" target="_top">みんなでニホンGO!</a>」の今週の放送（2010.07.15 22:00）は、語尾の「じゃん」および「私って～じゃないですか」を取り上げました。後者では、特に、「私って、うそのつけない人じゃないですか」のように、相手の知るはずもない、自分のことについて言う用法（仮に「自己言及用法」と言っておきます）に焦点を当てました。「こういう言い方に違和感はあるか」とスタジオの人々に聞いていました。<br /><br />私は、この回にはアイデア段階で協力させていただいたので、途中のいきさつも、多少は知っています。スタッフのみなさんは、完成までにきっと苦労されただろうと思います。というのも、「私って～じゃないですか」という言い方は、話題になっているにもかかわらず、実例がさっぱり見つからないからです。<br /><br />『三省堂国語辞典』では、「じゃないですか」を連語として立てています（今回の第6版から）。そこには、「この本はあなたの<b>じゃないですか</b>」（質問）、「名刺ってかさばるじゃないですか」（同意要求）とあわせて、「私ってうそのつけない人<b>じゃないですか</b>」（自己言及）の用法を入れてあります。番組では、この3つの例文がいずれも紹介されました。ところが、最後の例文は、実は、作例を辞書に載せたもので、実例ではないのです。<br /><br />スタッフは、「私って～じゃないですか」と言っている映像・音声を探し求めていました。ところが、私の手元には、この用法の「じゃないですか」の用例はひとつもありませんでした。<br /><br />私には、それ以上の協力はほとんどできませんでした（ほかに、いろいろアイデアは提供しましたが、今回の内容には結実しませんでした）。その後どうなったか、興味津々で放送を待ちました。<br /><br />番組を見て知ったのですが、スタッフは、「私って～じゃないですか」の実例の大がかりな捜索を行ったようです。<br /><br />まず、〈取材班はある1日のテレビ番組をチェック。東京にあるテレビ局のバラエティー番組すべてをウオッチ。「じゃないですか」を丹念に数え上げた〉。のべ28時間15分に及ぶ放送をチェックした結果、たとえば、「ギャル、イコール、マルキューの店員<b>じゃないですか</b>」（TBS）「今の話じゃ無理<b>じゃないですか</b>」（テレビ東京）など、「じゃないですか」が、実に155例採集されたと言います。ところが、「私って～じゃないですか」に類する自己言及用法は、ついに1例もなかったようです。もしあれば、必ず番組内で紹介されたはずです。<br /><br />あるいは、「トーク番組の収録」と称して若者を集め、アナウンサーの司会で自由会話をさせました。これも、「じゃないですか」の実例を採集するためです。すると、たしかに「じゃないですか」そのものは何度も出てきました。でも、自己言及用法はやはり1度も出てこなかったようです。<br /><br />番組では、結局、自己言及用法には必ずしもこだわらず、「じゃないですか」一般に話を広げることで、なんとかまとめていました。とはいえ、「じゃないですか」自体は昔からあった表現です。夏目漱石の小説にも、「〔迷亭君が〕その辺の消息を説明したものとすれば、中々味がある<b>じゃないですか</b>」（吾輩は猫である）とあります（ここでは、同意を求める用法）。肝心の自己言及用法の実例が紹介できなかったのは残念でしたが、スタッフは最大限努力したと思います。<br /><br />さて、そうすると、「私ってうそのつけない人じゃないですか」なんて言い方が、そもそもあるのか、という話になります。騒がれているだけで実体のない、いわば「幽霊用法」ではないのでしょうか。<br /><br />「幽霊語」とか「幽霊用法」とかいうものは、たまにあります。たとえば、以前、若い人が使っていると話題になった「チョベリバ」は、実際にはほとんど使う人がなかったようです。実体のないことばを指弾して、「ことばが乱れている」と言うことは、ありうることです。<br /><br />もし「じゃないですか」の自己言及用法が幽霊用法であれば、『三省堂国語辞典』はフライングをしたことになります。この辞書は、新聞・雑誌・テレビなどの用例に基づいて語釈や例文を書くことを基本にしていますが、「じゃないですか」に関しては、自己言及用法があると言われていることだけを根拠にして、実例の吟味を怠ったことになります。<br /><br />ただ、まったく用例がないかというと、実はあるのです。それは、木村拓哉さんの例と、松岡充さん（SOPHIAのボーカル）の例です。彼らがテレビやラジオに出演してしゃべった内容を、ファンが忠実に再現したホームページがあります。その中から3例見つけました。<br /><blockquote><br />●〔木村〕居ますよね、家に来る〔ファンの〕人。夜テレビとか見てる<b>じゃないですか</b>。そうすると、窓の外でピカーッと〔カメラが〕光るんですよ。まさか雷はって思って、ファーッとカーテン、ビヤッと〔開けて〕やると、あのー女の子が３人とか２人とかで。<br />フジテレビ「HEY! HEY! HEY!」1996.07.29放送<br /><a href="http://www.geocities.jp/smap_angel/tv/tv96.html" target="_blank">http://www.geocities.jp/smap_angel/tv/tv96.html</a><br /><br />●〔木村〕僕、正直「ハウルの動く城」をやらせてもらったとき、「俺、すげーだろ」と思ったんですよ。あの、俺に対して、僕も、スタジオジブリ大好きなんで、今までの作品とか全部見てる<b>じゃないですか</b>。そこに自分が身をおいてやらせていただいて、ね、自分の声なんだけど、ハウルの声としてやらせてもらったときに、すっげーだろ！て自分に対して思ったんですよ。<br />文化放送「STOP THE SMAP」2006.05.26放送〔？〕<br /><a href="http://www.mypress.jp/v2_writers/seinanao/story/?story_id=1416451" target="_blank">http://www.mypress.jp/v2_writers/seinanao/story/?story_id=1416451</a><br /><br />●〔松岡充〕たまたま曲作りしてるスタジオが〔うどん屋の〕近くで，出前とったらすごくうまくて．例えば日本全国にツアーとかで行って，例えば徳島とか本場で食べてる<b>じゃないですか</b>，僕なんて．<br />〔堂本光一〕ツアーでいろんなとこ行ってね．<br />フジテレビ「堂本兄弟」2002.02.24<br /><a href="http://www.fujitv.co.jp/DOMOTO/talk/042.html" target="_blank">http://www.fujitv.co.jp/DOMOTO/talk/042.html</a><br /></blockquote><br />放送を直接聞いたわけではありませんが、おそらくこのとおりに発言していたのでしょう。これらは、自分のことについて「じゃないですか」と言っています。やはり「じゃないですか」の自己言及用法はあるわけです。<br /><br />これらの例については、NHKのスタッフにも知らせました。でも、「ジャニーズの例は、差し障りがあって使えません」とのことでした。まあ、しかたがないでしょう。<br /><br />今回の番組のための準備や、また、放送された内容によって、「じゃないですか」の自己言及用法が、言われるほどには多くない、むしろ少ないことが分かりました。何しろ、スタッフが「じゃないですか」を155例採集して、その中に自己言及用法がないのです。話題になっていることばを取り上げたはずが、皮肉な結果になりました。<br /><br />木村拓哉さんらがこの使い方をするのは、納得できます。木村さんぐらいになると、みんなが自分のことを知っていて当然であり、そこで、「僕も、〔ジブリの作品を〕全部見てる<b>じゃないですか</b>」と言えるのです。若い人が誰でも使うことばではなく、テレビなどで限られた人が例外的に使って、それがインパクトを与えているのではないでしょうか。<br /><br />私はバラエティー番組などからことばの用例を採ることはあまりありません。でも、「じゃないですか」の自己言及用法を採集するためには、そういった番組も見なければならないかなあ、と思います。「タレントの誰が自己言及用法をよく使っている」ということをご存じの方があれば、ぜひお教えください。<br /><br /><font color="#0060ff">▼</font><b>関連文章</b>＝「<a href="http://yeemar.seesaa.net/article/12221673.html">「じゃないですか」の先祖</a>」<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/108302754.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/108302754.html</link>
<title>「推量する」の意の「積もる」は使うか</title>
<description>『三省堂国語辞典』の「積もる」には、「雪が積もる」と言うときの意味などとともに、〈考える。思いはかる。〉という意味が載っています。初版以来、この記述があり、前身に当たる『明解国語辞典』にも載っているので、えんえん引き継がれてきた語釈と言えます。でも、私は、「考える」とか「思いはかる」とかいう意味で「積もる」を使いません。もちろん、「○○するつもり」と、名詞形の形では使いますが、動詞形では、自分も使わないし、現代語での例を見たこともありません。ほかの辞書を引いてみると、『大辞林..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-10-19T12:18:51+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
『三省堂国語辞典』の「積もる」には、「雪が積もる」と言うときの意味などとともに、〈考える。思いはかる。〉という意味が載っています。初版以来、この記述があり、前身に当たる『明解国語辞典』にも載っているので、えんえん引き継がれてきた語釈と言えます。<br /><br />でも、私は、「考える」とか「思いはかる」とかいう意味で「積もる」を使いません。もちろん、「○○するつもり」と、名詞形の形では使いますが、動詞形では、自分も使わないし、現代語での例を見たこともありません。<br /><br />ほかの辞書を引いてみると、『大辞林』第3版や『広辞苑』第6版には江戸時代の例が出ています。『日本国語大辞典』第2版も江戸時代の例（4例）です。どうも、古い使い方ではないかと考えられます。『学研国語大辞典』第2版には、泉鏡花「照葉狂言」（1896年）および樋口一葉「われから」（1896年）の例が引いてありますが、近代の例としてもだいぶ早いものです。「われから」の例を以下に引いておきます。<blockquote>どういふ様子どのやうな事をいふて行{ゆ}きましたかとも問ひたけれど悋気男{りんきをとこ}と<b>忖度{つも}ら</b>るるも口惜{くちを}しく、（新潮文庫『にごりえ・たけくらべ』p.159による）</blockquote>また、小型辞書を見ると、『明鏡国語辞典』初版が〈「悋気{りんき}男と―・らるるも口惜しく〈一葉〉」〉と、「われから」の例を載せています。典拠を示しているということは、古い使い方であることを示唆しているようです。『旺文社国語辞典』は、以前の版ではこの意味を載せていましたが、最新の第10版にはありません。『新選国語辞典』第8版・『集英社国語辞典』第2版などにもありません。<br /><br />こう見てくると、現代語として「積もる」を「推量する」の意味で使うことはなくなっているのではないかと思われてきます。<br /><br />ところが、『学研現代新国語辞典』改訂第4版には、〈おしはかる。〉という意味が記されていて、次のように口語文の例が出ています。<blockquote>「けちな奴{やつ}と―・られるのもくやしい」</blockquote>これは、いったいどこから採集した用例でしょうか。もし、現代語としてこのような例があるならば、「積もる」の「推量する」の意味を辞書から削るべきではありません。でも、どうも、これは作例らしく思われます。というのも、上に示した「われから」の一節と酷似しているからです（『学研現代新国語辞典』のもとになった『学研国語大辞典』に「われから」の例が引いてあることからもそう思われます）。<br /><br />はっきりしたことが分からないため、安易な批評はできませんが、もし『学研現代新国語辞典』の例が作例ならば、誤解を与える不適切な例です。「われから」の文章が分かりにくいため、口語文に差し替えたということかもしれませんが、それが現代語の実例であるような印象を与えかねません。<br /><br />私は、辞書の例文として実例でなく作例を用いる場合には、よほど慎重にしなければならないと考えます。「○○ということばを使って短文を作りなさい」という問題は、国語の授業でもよく出ます。ごく当たり前の例文を作ったつもりが、あとで考えると、そんな言い方はしない、ということはよくあるものです。実際に確かに用いられた例があり、しかも、簡潔でだれにでも分かりやすい文を選ぶことも、辞書作りに求められることの一つだと考えます。<br /><br />さて、「推量する」の意味の「積もる」ですが、もろもろの辞書を調査した結果からは、現代語ではあまり使われなさそうだ、という感触が強くなりました。まだ断定したわけではなく、しばらく注意をしてみたいと思います。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/107451405.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/107451405.html</link>
<title>麻生首相の演説の文体</title>
<description>9月29日、麻生新首相が所信表明演説を行いました。所信表明というよりは、政権交代をうかがう野党民主党への代表質問の色合いが濃く、異例の演説だと驚きをもって迎えられました。私も有権者であるからには、演説の内容については思うところがありますが、ここは日本語について述べる場ですから、一切省略します。ここでは、新首相の演説文の特徴について指摘しておきます。新聞で演説を読んで、すぐに、「ああ、これは役人の手がほとんど入っていないらしい」と思いました。首相の演説というよりは、政治家が夕刊..</description>
<dc:subject>表現・文章一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-10-02T07:16:14+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
9月29日、麻生新首相が所信表明演説を行いました。所信表明というよりは、政権交代をうかがう野党民主党への代表質問の色合いが濃く、異例の演説だと驚きをもって迎えられました。<br /><br />私も有権者であるからには、演説の内容については思うところがありますが、ここは日本語について述べる場ですから、一切省略します。ここでは、新首相の演説文の特徴について指摘しておきます。<br /><br />新聞で演説を読んで、すぐに、「ああ、これは役人の手がほとんど入っていないらしい」と思いました。首相の演説というよりは、政治家が夕刊紙に書くコラムのような文体です。〈〔民主党が〕のめない点があるなら〉などという格調を欠く表現が目につきますが、分かりやすいことは確かです。分かりやすいというのは、内容の適否や真偽について、聞き手（読み手）が判断しやすいということです。<br /><br />首相の演説というものは、一般に、各省庁の役人が書いた原案をつぎはぎして作るものだそうです。そのせいか、ふつうはたいへん読みにくいのです。一文の中にたくさんの情報を欲張って盛りこんでいて、ついていけなくなります。<br /><br />麻生首相の演説には、情報を詰め込む文は目立ちません。むしろ、〈経済成長なくして、財政再建はない。あり得ません。〉のように、「ない」を「あり得ません」にただ言い換えただけのところがあったりして、情報の密度は低いのです。ゆっくり進む授業と同じで、これは聞き手の理解を助けます。首相が何に積極的で、何に消極的かということが、よく分かります。<br /><br />分かりやすいということのほかに、文末が多様であることも特徴です。役人の下書きに基づく演説は、一種の法律文のような趣があって、文末も型にはまっています。ほぼ10年前の小渕首相の所信表明演説（1998.08.07）を分析すると、7,461字、118文（私の計算による）のうち、「ます」で終わる文が95、「です」が10、「た」が7、「ん」が6です。長文の演説の語尾が、わずか「ます」「です」「た」「ん」の4種類しかありません。<br /><br />私が文章を書いたとしても、「ます」「です」「た」「ん」が多くなります。この私の文章も、書き終えてから確かめると、（下の箇条書きの部分を除いて）この4つの語尾だけでできています。私の文章も役人ふうなのかもしれません。<br /><br />麻生首相の演説は、がらっと様子が変わります。6,026字、206文のうち、「ます」で終わる文が106、「ん」29、「です」23、「か」10、「た」9、「ある」3、「を」3、「こと」2、「ましょう」2という具合です。このほか、1例ずつ出ているのが、「当たり前」「いく」「強化」「経済成長」「結構」「三年」「手段」「する」「たい」「立ちすくませる」「と」「取り組む」「無い」「…ない」「なる」「に」「不足」「ほしい」「補正予算」です。<br /><br />「か」が多いのは、もちろん、民主党への詰問調の演説だからです。また、いわゆる名詞止め（体言止め）を多用していること、丁寧体の中に普通体を混ぜていることなどが、文末を多様にしています。これほど型破りな文体の首相演説は、後にも先にもないのではないかと思います。<br /><br />最後に、私は麻生首相の演説をどう評価したかをまとめておきます。<br /><br />１　文章が分かりやすい。したがって、内容がいいか悪いかが判断しやすい。<br />２　文末が多様。<br />３　格調に欠ける。<br /><br />以上です。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/97805744.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/97805744.html</link>
<title>笹原宏之『訓読みのはなし』を読む</title>
<description>漢字には何千年の歴史がありますが、時代によって、また地域によって変転をきわめてきました。けっして、使われ方の固定した、万古不易の文字ではありませんでした。日本では、漢字は日本語の一部として用いられ、中国とはまったく異なった展開を見せました。これは、笹原宏之氏が一貫して追究し、かつ証明してきたところです。今のコンピュータ時代にあっても、日本の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます（「文字のスナップ」参照）。とはいえ、以..</description>
<dc:subject>文字・表記一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-05-24T18:28:30+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
漢字には何千年の歴史がありますが、時代によって、また地域によって変転をきわめてきました。けっして、使われ方の固定した、万古不易の文字ではありませんでした。日本では、漢字は日本語の一部として用いられ、中国とはまったく異なった展開を見せました。これは、笹原宏之氏が一貫して追究し、かつ証明してきたところです。<br /><br />今のコンピュータ時代にあっても、日本の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます（「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/ktb_s01.htm" target="_top">文字のスナップ</a>」参照）。とはいえ、以前に比べれば、私たちはペンを持つことが少なくなり、書いた文字を人に見せる機会も減りました。まして、新しい漢字や漢字字体を生み出して流通させることもむずかしくなりました。私たちの書写生活の大部分は、規格化されたコンピュータ文字に支配され、画一化に向かっているとみることもできます。少なくとも、私はそうだろうと思っていました。<br /><br />ところが、それは一面的な理解に過ぎなかったことを、笹原氏の近著『訓読みのはなし』（光文社新書）で気づかされました。なるほど、漢字の字体はコンピュータによって堅固な枠がはめられました（堅固というのは私が言っているだけで、異論が出るかもしれません）。でも、漢字には、字体の要素以外に、「よみ」という要素があります。漢字に日本語をあててよむ「訓読み」の多様さ、自由さは、今日でもなお衰えていません。コンピュータによる制約を受けることなく、新しい訓が生まれ、古い訓が滅んで、新陳代謝を続けています。本書はそのことを豊富な実例で教えてくれます。<br /><br />印象的な一例を挙げれば、最近では、「おなかがぺこぺこ」というときに、「<b>お腹凹凹</b>」と書く人がいるのだそうです（p.139）。「凹」という文字自体は、常用漢字にもあるし、特にめずらしい漢字ではありません。しかし、それを「ぺこぺこ」ということばと結びつけたところが大発明です。「ぺこぺこ」ということばを書きあらわす漢字がなかったところへ、忽然とその漢字が現れたという点では、新しい漢字が発明されたのと同じぐらいの価値があります。「ぺこぺこ」の「ぺこ」は「へこむ」と関係があるでしょうから、「凹む」の「凹」が使われるのは理にかなってもいます。<br /><br />昨日整理していた週刊誌で、たまたま「<b>猿公</b>」という文字を目にしました。「えてこう」とルビが振ってあります。<blockquote>野鳥とふれあうこころの安らぎを求めて、山里の湖沼にバードウォッチングに来てみたが、神出鬼没の<b>猿公{えてこう}</b>のわるさ連発でストレス倍増！　そんな光景のイラストが７枚にクラッシュ！　でも、よ～く見ると６枚はどこかが違っています。間違いのない１枚は、Ａ～Ｇのうち、どれでしょう？（『週刊朝日』2008.05.16 p.77）</blockquote>「えてこう」を表記する漢字として「猿公」を示している辞書もありますが、たとえば『三省堂国語辞典』では示していません（そもそも、「えて」の項目しかありません）。「猿公」に「えてこう」とあてる訓は戦前からあるようで、それが定着し、今日まで存続しているとすれば、新しい訓（ことばの側から見れば、新しい用字）として辞書に載せることは考えていいことです。<br /><br />あるいは、別の週刊誌に「奏べ」という表記がありました。「しらべ」と読むようです。<blockquote>　時空を超えて繋がるフレーズ、胸に響く熱き<b>奏べ</b>。仲間とともに歌った母校の「校歌」は、青春の想い出であり、人生を支える心の糧でもある。（『週刊実話』2008.01.31 p.111）</blockquote>古くからある用字かもしれませんが、それこそ調べが及んでいません。『新潮日本語漢字辞典』にはありませんでした。でも、インターネットではまま見受けられる用字です。「調査する」意と区別するため、あえて「奏」の字を使ったものでしょうか。<br /><br />『訓読みのはなし』には、「紅白歌合戦」で、演歌の歌詞に「巨（でか）い」とあった例が紹介されていました。おそらく1999年の鳥羽一郎「足摺岬」だと思われます。歌詞の表記はたしかに注目すべきで、「<b>奏{ひ}いて</b>」「<b>理由{わけ}</b>」「<b>希望{のぞみ}</b>」「<b>真実{ほんと}</b>」「<b>幸福{しあわせ}</b>」「<b>生命{いのち}</b>」など、私たちにも納得できる用字が多くあります。そのいくつかは、辞書に載せてもよさそうです。『新潮日本語漢字辞典』だけは、このような用字もたんねんに拾っていて脱帽するのですが、漢字辞典・国語辞典を問わず、この方面の手当ては十分でないというべきでしょう。<br /><br />「お腹凹凹」「巨い」など、常用漢字音訓表にない訓でよまれる字は、一般にあて字とされ、辞書では無視されがちですが、中には広く定着したと見られるものもあります。私自身は、『三省堂国語辞典』の編集に関わり、たとえば「おとこ」の用字に「漢」の字を加えるなど、多少の配慮をしたつもりです。とはいえ、それぞれのことばにどのような漢字をあてるかという視点は、なお十分でなかったと反省しています。「わけ」の項目に「理由」という漢字を示していいかどうかなど、もっと深く考えるべきです。『訓読みのはなし』を読了して、意識改革が起こりました。<br /><br /><br /><br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/93179734.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/93179734.html</link>
<title>「号泣」の「誤用」成立まで</title>
<description>三省堂辞書サイトでの連載に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。声を上げない「号泣」については、早くは、橋本五郎..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-04-13T07:50:55+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<a href="http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/index.php" target="_top">三省堂辞書サイト</a>での<a href="http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2008/03/26/%e3%80%8e%e4%b8%89%e7%9c%81%e5%a0%82%e5%9b%bd%e8%aa%9e%e8%be%9e%e5%85%b8%e3%80%8f%e3%81%ae%e3%81%99%e3%81%99%e3%82%81-%e3%81%9d%e3%81%ae8/" target="_top">連載</a>に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、<blockquote>(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。</blockquote>この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。<br /><br />「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。<br /><br />声を上げない「号泣」については、早くは、橋本五郎監修・読売新聞新日本語取材班『乱れているか？ テレビの言葉』（中公新書ラクレ 2004）p.26で触れられています（元の新聞記事は2003.10.09 夕刊 p.18）。<blockquote>ワイドショーなどでは、過剰な表現のタイトルを多用することが多い。「遺族<b>号泣</b>」「アジト潜入」「極秘入籍発覚」――。大げさな言葉で視聴者の目を引こうとする姿勢がのぞいている。</blockquote>と記し、かつまた、フジテレビの生活情報局では「号泣」「潜入」などの誇大表現を避けるよう指示するようになったとつけ加えています。ここでは、「号泣」は誇大表現という扱いです。<br /><br />ネット上でも、早くから指摘されています。<blockquote>　ずっと前から不愉快に思ってたんだけどさ、「<b>号泣</b>」って表現ね。あれ、どうにかしろよ！＞テレビ局／〔略〕／　言葉の意味ぐらいは知ってて使ってるんだろうけど、いくらテレビ欄を見る人の注意をひきたいからといってもさ、視聴率を稼ぎたいからといってもさ、いつもいつもその表現だと、そのうち「涙が出るか出ないかくらいの泣き方」が「号泣」って意味になっちまうよ。（ブログ「雑草譚」<a href="http://god-net.way-nifty.com/god_net/2004/07/post_18.html" target="_top">2004.07.29</a>〔元は2004.04.11〕）</blockquote>これも「誇大表現をやめよ」という趣旨ですが、それだけでなく、誤用を誘う可能性も示唆しています。<br /><br />私は、先の『乱れているか？ テレビの言葉』は、刊行されてすぐに読みましたが、単に「誇大表現」の話と受け取り、「号泣」の意味の変化につながるものとは考えませんでした。想像力に欠けるというべきです。<br /><br />私自身が首をかしげた最初の例は、「ウィキペディア」の文章でした。「NHK紅白歌合戦」（<a href="http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=NHK%E7%B4%85%E7%99%BD%E6%AD%8C%E5%90%88%E6%88%A6&direction=next&oldid=4055611" target="_top">2006.01.02 06:36の版</a>。気づいたのは同年9月）に、次のようにありました。<blockquote>〔1984年の「紅白」で〕最後には、〔引退する〕都はるみの代表曲「好きになった人」が歌われた（都本人は<b>号泣</b>して殆ど歌えず、他の歌手達が都を囲んで合唱）。</blockquote>私はこの「紅白」を見ていますが、都はるみは、「さけび泣くだけで、歌にならなかった」わけではなく、涙で声がつまったのです。ここで「号泣」というのは、誇大表現というよりは、話を変えてしまうと思いました。<br /><br />「号泣」にいっそう注意するようになったのは、週刊誌で次の例を見てからでした。<blockquote>〔覚醒剤で逮捕されたミュージシャンの裁判で、被告人は〕情状証人として父親が出廷すると、下を向いて泣き始め、弟まで出廷すると<b>大号泣</b>に。（「週刊朝日」2006.12.29 p.42）</blockquote>これは法廷内のことですから、もし被告が大声を上げて泣きだしたら、裁判の進行はストップです。これは涙をたくさん流したということだろうと思われます。<br /><br />テレビの例は、ワイドショーをあまり見ないので遅れましたが、ようやく採集しました。<blockquote>〔字幕〕夕張市取材でみのもんた<b>号泣</b>、善人面する薄っぺらなマスコミ報道（MX東京テレビ「談志・陳平の言いたい放だい」2007.01.21 6:00）</blockquote>みのもんたさんが、財政再建団体となった夕張市の窮状に同情の涙を流したということと思われます。声を上げて泣いては、放送ができないはずです。<br /><br />こういった具合で、いくつか例を集めました。とはいえ、どの例も、その部分だけを読めば、単なる「誇大表現」か、それとも「誤用」か、分かりにくいものです。だれが見ても声を上げていないことが明白な文で、「号泣」と言っている例があればいいと思いました。<br /><br />その例は、新聞連載まんがの西原理恵子「毎日かあさん」にありました。<blockquote>〔母の私が公園で酔っぱらいと〕だらだら話してたらば 〔そばでブランコをこぐ〕娘にとっては 〔ひとこぎするたび〕ものすごい 怖いおっさんが 10秒に一回 眼前にやってくるわけで／30分後に<b>声を止めて号泣</b>してる娘を発見／〔娘発言〕女の子なんだから あんな怖い人に 近よせないでっ いい人かもしれない けど好きになれ るもんじゃないのっ（「毎日新聞」2007.09.16 p.21）</blockquote>「声を止めて号泣」とあるので、これは確実に声を上げていない「号泣」の例です。しかも、多数の人の目に触れる新聞に載った例であり、これで「号泣」の誤用は一応証明されました。この例は、画像とともに、上記の<a href="http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2008/03/26/%e3%80%8e%e4%b8%89%e7%9c%81%e5%a0%82%e5%9b%bd%e8%aa%9e%e8%be%9e%e5%85%b8%e3%80%8f%e3%81%ae%e3%81%99%e3%81%99%e3%82%81-%e3%81%9d%e3%81%ae8/" target="_top">三省堂辞書サイト</a>でも紹介しました。画像の掲載許可は、編集部から西原さんに頼んでいただきました。<br /><br />このほか、いくつかの例をもとに、この用法は、『三省堂国語辞典』第6版に無事（？）載りました。<br /><br />最後に、最近の例から、明らかに〈大いに なみだを流す〉場合を、もう一つ挙げておきます。<blockquote>〔千原ジュニア〕〔バイク事故の〕後遺症で、涙腺が狭窄してですね、その涙嚢というまあ涙が溜まるところがつながってないんですよ。たとえばしゃべっていたりその温度なんか変わるとこっちから涙出てくるんですよ。だからうどん食べたらふつうはなが出ますよね。僕、涙、あのうどん食べたら<b>号泣</b>ですよ。（日本テレビ「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2008.02.01 20:00）</blockquote>「うどんを食べると、はな水の代わりに涙が出る」というのですから、ここは声を上げるかどうかは問題にしていない例です。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/93089355.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/93089355.html</link>
<title>辞書に載せるべきか「後期高齢者」</title>
<description>4月から「後期高齢者医療制度」（長寿医療制度）が施行され、「後期高齢者」なる用語がにわかに注目されました。私の理解では、この制度は75歳以上の人が年金から保険料を天引きされるものです（全国平均で月額約6,000円＝「朝日新聞」2007.11.27 p.1）。介護保険料とあわせて1万円以上が年金から差し引かれるため、「史上最悪の国家犯罪」（「サンデー毎日」2008.04.20 p.20）などと最大級の表現で批判されています。制度が決まったころには、それほど批判の論調がなく、今に..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-04-12T11:01:26+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
4月から「<b>後期高齢者医療制度</b>」（長寿医療制度）が施行され、「後期高齢者」なる用語がにわかに注目されました。私の理解では、この制度は75歳以上の人が年金から保険料を天引きされるものです（全国平均で月額約6,000円＝「朝日新聞」2007.11.27 p.1）。介護保険料とあわせて1万円以上が年金から差し引かれるため、「史上最悪の国家犯罪」（「サンデー毎日」2008.04.20 p.20）などと最大級の表現で批判されています。<br /><br />制度が決まったころには、それほど批判の論調がなく、今になって批判が高まったことに違和感はあります。ただ、私自身が「後期高齢者」であれば、こういう制度はありがたくないので、賛成か反対か投票せよと言われれば、反対票を入れるでしょう。<br /><br />「後期高齢者」という呼び名についても、たしかに「人生の終わりが近い」というニュアンスが感じられて、いかにも無神経です。もともとは老人学などの用語でしたが、それを役所がそのまま制度の名前に使ったのはよくありません。また、「長寿医療制度」という「通称」も、実態をごまかすという意見に説得力があります。<br /><br />NHKニュースを聞いていると、どちらの名称も避けていました。<blockquote>七十五歳以上の高齢者を対象に、今月から始まった<b>医療制度</b>で、新しい保険証が届いていない人が、六万三千人あまりに上ることが、厚生労働省の調べで分かりました。〔略〕<b>新しい医療制度</b>は、七十五歳以上の高齢者を対象に、今月一日から始まったもので、〔略〕おととい現在で、<b>新しい制度</b>の対象となる千三百万人のうち、〔略〕（NHK「ニュース7」2008.04.11 19:00）</blockquote>という具合です。新聞では両者併記ですが、朝日・読売・産経・東京・日経が「後期高齢者」を先に、毎日が「長寿」を先にしているようでした（違う場合もあるかもしれません）。<br /><br />さて、この「後期高齢者」ということばですが、辞書に載せるべきだろうか、と考えます。考えるも何も、すでに『広辞苑』には第5版（1998年）から見出しに立っています。小型の『三省堂国語辞典』でも、第5版（2001年）から、「高齢者」の項目に「前期高齢者・後期高齢者」という言い方を示してあります。ただ、これは老人学などの用語として載せているものです。今、さかんに使われているのは、いわば「役所発」の官製語です。私としては――これは偏見を含みますが――役所発のことばというのは、品がない、実態をごまかす、などの点で、あまり辞書に載ってほしくないものが多いのです。「後期高齢者」「長寿医療制度」などは、さしずめその代表です。<br /><br />厳密な官製語というのとは違いますが、『三省堂国語辞典』では、第5版に「ロト」「ミニロト」「ナンバーズ」が載っていました。宝くじの名称であり、くじの「胴元」は地方自治体です。宝くじとは役所がかけごとを推奨するものと思っている私は、このネーミングを片腹痛く思っていました。第6版では、結局、「項目としては細かすぎる」という理由で削除されました。第6版には「トト」（サッカーくじ）が残っていますが、これも売り上げが伸びず、存在意義に疑問が投げかけられています。次回の改訂までに制度が消滅してくれればいい、と思っています。<br /><br />「後期高齢者」も、これらと同じで、そういう制度ができたからといって辞書に載せるのは、役所のお先棒を担ぐようでおもしろくありません。でも、おもしろかろうがなかろうが、ことばが定着してしまえば、それは現代語の一部ですから、中立的に行こうと思えば載せるしかありません。たとえば、こんな感じになるでしょうか。<blockquote><b>こう き</b>［後期］（名）……――<b>こうれいしゃ</b>［後期高齢者］（名）〔行政などで〕七十五歳以上の人を呼ぶ言い方。「―医療（イリョウ）制度〔＝年金から一定の保険料をとる、七十五歳以上の人の医療制度。長寿（チョウジュ）医療制度〕」（←→前期高齢者）</blockquote>ここには、この名称がいかがわしいとか、この制度に批判があるとかいう説明は一切省かれます。それが辞書というものだからです。<br /><br />辞書に載せなくてよい場合があるとすれば、それは、制度や名称が変更になった場合です。問題点が明らかになり、この制度・名称が変更を迫られることになれば、「後期高齢者」は辞書の見出しに立てる必要がなくなります。私はそのことをひそかに願っています。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/92871894.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/92871894.html</link>
<title>福田首相の「過分な期待」</title>
<description>「Yahoo!みんなの政治」というサイトで、福田康夫首相についての評価を見ていたら、なるほどと思う書き込みがありました。「過分な期待」って日本語の使い方が間違っているんじゃないか。／我々が年金問題の解決を期待することは「過分」なのか。／要するに、そんなことを国民が期待するのは／「分不相応」と言いたいのか。単に国語能力の低さを／露呈しただけならともかく、ここには政治家の本音が／ハッキリと見える。実に不快だ。思い上がるな!!（投稿日時：2008年4月8日　9時35分）年金記録問題..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-04-10T08:32:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
「Yahoo!みんなの政治」というサイトで、福田康夫首相についての評価を見ていたら、なるほどと思う書き込みがありました。<blockquote><b>「過分な期待」って</b><br />日本語の使い方が間違っているんじゃないか。／我々が年金問題の解決を期待することは「過分」なのか。／要するに、そんなことを国民が期待するのは／「分不相応」と言いたいのか。単に国語能力の低さを／露呈しただけならともかく、ここには政治家の本音が／ハッキリと見える。実に不快だ。思い上がるな!!（<a href="http://seiji.yahoo.co.jp/giin/rev/detail/index.html?g=2008000610&s=0&d=1&r=467" target="_top">投稿日時：2008年4月8日　9時35分</a>）</blockquote>年金記録問題を2008年3月までに解決するかのような公約を唱えたことについて、福田首相が陳謝したというニュースを受けての書き込みです。『毎日新聞』2008.04.08によれば、その発言は以下の通りです。<blockquote>　福田康夫首相　昨夏、「（今年）３月までに年金記録問題を全面的に解決する」という誤解を与える表現、説明もあったと思う。誤解を与えた、<b>過分な</b>期待を持たせたという意味でおわびしないといけない。</blockquote>私は、このニュースを読み流してしまい、「過分な」には引っかかりませんでした。しかし、『三省堂国語辞典』第6版では、「過分」は〈地位・能力・労力に相当した程度を こえること。〔けんそんして、自分には すぎた、という意味で使われることが多い〕「―な おことば・―の謝礼」〉〈〔昔、殿様（トノサマ）などが〕ありがたいと思うときに言った ことば。「―に思うぞ」〉とあります。「過分な期待」は、たしかに、〈そんなことを国民が期待するのは「分不相応」〉というニュアンスが入ってしまいます。この書き込みの主は語感が鋭い、私はぼんやりしていた、と思いました。<br /><br />報道では、この「過分」を聞きとがめるものはまだ目にしていません。記者が頭の中で「過度の」に訂正したのかもしれません。しかし、たとえ言い誤りにしても、たしかに失礼になるのは事実なので、囲み記事ででも指摘してはどうでしょう。<br /><br />福田首相の発言といえば、私が気づいたのは、4月9日の党首討論で、国会運営について述べたことばです。<blockquote>〔福田康夫首相〕〔ねじれ国会の運営を、民主党の〕だれとお話をすればですね、信用できるのか。そのこともですね、ひとつぜひお示し、教えていただきたい。たいへん苦労してるんですよ。<b>かわいそうなくらい</b>苦労してるんですよ。（NHK「ニュース7」2008.04.09）</blockquote>この「かわいそう」の主体が分かりません。首相自身でしょうか。<br /><br />ふつう、「かわいそう」は他人について使うことばです。『三省堂国語辞典』からまた引けば、〈気の毒に思って、何かしてやりたくなる・ようす（気持ち）。あわれ。〉ということになります。これを自分自身に使って、「ぼくはかわいそう」などと言うと、なんだか自己陶酔的な、情けない感じがします。首相のことばとも思えません。「自分をかわいそうとは何ごと」などという批判記事が出てもいいところです。<br /><br />これが、たとえば、国対委員長かだれかを指してでもいるのであれば、「彼ははたで見ていてかわいそうなくらいだ」という意味になり、思いやりのある首相という感じが出ます。でも、そういうわけでもないようです。<br /><br />首相として毎日いろいろなところで発言していれば、この程度の言い損ないはあって当然なのか。それとも、政権が危険水域（これは『三省堂国語辞典』第6版で載ったことば）に入ったため、発言が荒れているのか。それは私には分かりません。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/92829670.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/92829670.html</link>
<title>「身につまされる」のあいまいな用例</title>
<description>「身につまされる」という句が、意味があいまいなまま使われることがあるようです。辞書の説明が分かりにくいのも混乱の一因かもしれません。ネット上では、2002.04.29に「Navi」氏が次のように指摘しています。〔「心身が弱った状態で老人問題特集を見ていると身につまされる」という使い方は正しいかどうか〕先ほど辞書をひいてみた。〔『三省堂国語辞典』では〕「自分にくらべてあわれに感じる」だって？　微妙に自信が無かったとはいえ、これはちょっと納得できない。慌てて『広辞苑』もチェック。..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-04-09T21:44:32+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
「身につまされる」という句が、意味があいまいなまま使われることがあるようです。辞書の説明が分かりにくいのも混乱の一因かもしれません。ネット上では、2002.04.29に「Navi」氏が次のように指摘しています。<blockquote>〔「心身が弱った状態で老人問題特集を見ていると<b>身につまされる</b>」という使い方は正しいかどうか〕先ほど辞書をひいてみた。〔『三省堂国語辞典』では〕「自分にくらべてあわれに感じる」だって？　微妙に自信が無かったとはいえ、これはちょっと納得できない。慌てて『広辞苑』もチェック。〔略。「人ごとでなく感じられて、哀れに思われる」の説明を引き〕おぉ、これだよこれ、「人ごとでなく感じられて」。間違いではなかったか。よかったよかった。（<a href="http://www.geocities.co.jp/HeartLand/1068/topics/memo_0204.html#2002-04-29" target="_top">そいとごえす・近況雑談</a>）</blockquote>たしかに、『三省堂』の説明は不十分で、「自分にくらべてあわれに感じる」は舌足らずです。「自分の身に引きくらべて〔＝当てはめて〕あわれに感じる」というのを圧縮しすぎて、分かりにくくなっています。次回の改訂では再考すべきです。「自分のことのようで あわれに感じる」としてもいいでしょう。<br /><br />私にとって、「身につまされる」の典型的な使い方は、たとえばこうです。<blockquote>或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、<b>身につまされる</b>から」とおっしゃっていた。（太宰治「<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html" target="_top">如是我聞</a>」）</blockquote>『斜陽』は没落貴族を描いた小説なので、宮様は、まるで自分のことのようで、登場人物に同情したということでしょう。<br /><br />さて、「身につまされる」の意味をこのように確認したあとで、実際の用例を検討してみると、どうも分かりにくいものが多くあります。古いほうから挙げます。<blockquote>私がＳＦ作家になるに至ったのは、実に私が、ＳＦの描くいろんな災難、ウイルスで地球が死滅するとか、放射能でゴキブリが巨大化するとか、そういう話をひとつも、ウソや、といって笑いとばすことができず、全部<b>身につまされた</b>からである。（中島梓『にんげん動物園』角川書店 1981.11.30初版 p.150）</blockquote>フィクションに描かれた災害が「人ごとでなく」感じられた、ということでしょう。「身につまされる」の意味に一部は重なりますが、「あわれに思う」という意味はここには含まれていません。自分も大災害に遭遇した経験があって、それで、巨大ゴキブリに襲われた登場人物に同情した、というわけでもなさそうです。違和感の残る表現です。<blockquote>〔アンケートで、「なりたい人物」としてイチローを選んだことについて〕「同級生なので、自分との差が激しいから」（31）<br />　と<b>身につまされている</b>人もいる。（『週刊文春』2005.11.10 p.48）</blockquote>この例では、べつにイチローをあわれに思っているわけではありません。イチローが活躍している一方、自分はぱっとしないなあ、と残念に思っているのです。「自分の身を省みてはずかしく思う」ということでしょう。なお、この文では「同級生」の使い方も注意を引きます。<br /><br />次の例もアンケートに関する文章です。<blockquote>　現時点でのわが家の位置づけを尋ねると、七七・五％が〈中流〉と答えた。なるほど、まだかろうじて「一億総中流」の神話は残っているようだが、〈下流〉が一八・八％を占めていることが気にかかる。<br />　十八歳の子どもを持つ親といえば、おそらく四十代半ばから後半にかけて。「親が幸せに生きているように見えますか？」の設問に〈ＮＯ〉と答えた子どもが三二・二％にのぼっていることも合わせて、これらの設問への回答は、むしろ親の世代にとって<b>身につまされる</b>だろう。〔重松清〕（『週刊文春』2006.05.18 p.142）</blockquote>アンケート結果を読んで、だれか他人をあわれに思うというのはへんなので、これも、「人ごとでなく思う」ということでしょう。<br /><br />『週刊文春』の例ばかりたまたま続きますが、次も同じ雑誌の例です。<blockquote>「〔事故を起こして〕入院中に先輩たちから愛情を注がれるなかで、今まで笑いの伝え方が不親切だったなと気づかされた。お客さんに対する愛がなかったんじゃないかと<b>身につまされました</b>」<br />　と千原ジュニアさん（３３）は語る。（「週刊文春」2008.04.10 p.121）</blockquote>先輩たちから親切にしてもらったことで、自分を反省したというのです。ここでは、だれかの話を自分自身に引き比べてみたというわけではありません。ここまで来ると、先の太宰治の例とはかなり距離が生まれています。<br /><br />以上の「身につまされる」のそれぞれの例は、互いに一致する部分としない部分があります。それぞれの例は、散発的なものか、一定の勢力を持っているのか、よく分かりません。また、手元の用例がなぜか『週刊文春』にかたよっているのも不満です。なおしばらく用例を集めてみたいことばです。<br /><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/90942990.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/90942990.html</link>
<title>かなり当てはまらない</title>
<description>名前は管理職なのに時間外手当が出ないなどの「名ばかり管理職」について、NHKが1月、全国200社あまりを対象にアンケートを行いました。その結果が報道されました。会社の管理職が法律の条件に当てはまるか尋ねたところ、「ほとんど当てはまらない」が9％、「かなり当てはまらない」が18％、「一部当てはまらない」が36％で、（NHK「ニュース7」2008.03.23 19:00）この「かなり当てはまらない」に注意が向きました。私は使わない言い方です。こういうアンケートの文言は、数値を日常..</description>
<dc:subject>文法一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-03-25T23:17:06+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
名前は管理職なのに時間外手当が出ないなどの「名ばかり管理職」について、NHKが1月、全国200社あまりを対象にアンケートを行いました。その結果が報道されました。<blockquote>会社の管理職が法律の条件に当てはまるか尋ねたところ、「ほとんど当てはまらない」が9％、「<b>かなり当てはまらない</b>」が18％、「一部当てはまらない」が36％で、（NHK「ニュース7」2008.03.23 19:00）</blockquote>この「かなり当てはまらない」に注意が向きました。私は使わない言い方です。こういうアンケートの文言は、数値を日常語に翻訳している面もあるので、ふつうの日本語とは違った言い回しになることがあるかもしれません。<br /><br />『三省堂国語辞典』第6版では、「かなり」は次のように説明しています。<blockquote>(1)極端（キョクタン）なほどではないが、程度が強いようす。「―大きい」(2)〔俗〕非常に。すごく。「―むかつく」<br /></blockquote>第5版では〈相当。「―大きい」〉だけだったので、詳しくなっています。これは「かなり＋肯定表現」を想定した説明です。「かなり」はふつう否定表現とは結びつかず、「かなり痛くない」「かなり高くない」などとは言いにくいはずだからです。「かなりつまらない」とは言いますが、これは「つまらない」が否定表現ではなく「無味乾燥」の意の形容詞になっているからです。<br /><br />『三省堂』の上記の説明でも、むりやり「かなり当てはまらない」を解釈できないこともありません。「ほとんど当てはまらない」を「はずれ度A」とした場合、「かなり当てはまらない」は、そこまで極端ではないが、まあ「はずれ度B」ぐらいといった語感でしょうか。<br /><br />しかし、私の語感では、「かなり＋否定表現」が何パーセント程度を指すのか、分かりません。「テストがかなりできた」と言えば、80点か90点かといった点を思い浮かべます（100点ではない）。一方、「テストがかなりできなかった」と言われても、さあ、それは何点ぐらいか、ちょっとイメージしがたいのです。肯定表現の場合を単純に逆転すれば10点か20点だったということになりますが、その場合、私なら「ほとんどできなかった」になります。私の語感に基づいてだいたいのところを示すと、0点は「まったくできなかった」、0～40点ぐらいは「ほとんどできなかった」、40～70点ぐらいは「あまり（それほど）できなかった」、70～80点ぐらいは「ふつう（まあまあ）だった」、80～90点ぐらいは「かなりできた」、90～100点は「よく（たいへんよく）できた」であり、「かなりできなかった」の入る余地はありません。<br /><br />ところが、この「かなり＋否定」は、しばしば目にします。用例を引用します。<blockquote>〔チョコボールのくじの〕金〔＝ゴールドの意〕も本当にあるのだが、<b>かなり出ない</b>。仮に「20個に１枚銀」と仮定すると、銀５枚ぶんつまり「１００個に１枚金」ぐらいになるのか。〔つぼさがし46・「おもちゃのカンヅメ」のつぼ〕（「週刊朝日」2005.03.04 p.56）<br /><br />　今連載している雑誌の担当も男性で、男性作家の担当が当然多いのだけれど、この人も〔差し入れ時に〕<b>かなり肉しか買って来ない</b>。〔安野モヨコ・くいいじ8〕（「週刊文春」2006.10.19 p.69）<br /><br />「そうだよ、雅子ちゃん」山瀬が口をはさんだ。<b>かなり呂律{ろれつ}が回っていない</b>。「この際、犬の名前もヨーから、プーぐらいに変えてさ」〔藤田宜永・喜の行列悲の行列51〕（「サンデー毎日」2007.04.29 p.59）</blockquote>これらの用法をかりに辞書に載せるとすれば、「〔俗〕〔下に打ち消しのことばが来る〕ほとんど。」と簡潔に説明したいところです。上の例は、「くじの『金』がほとんど出ない」「ほとんど肉しか買って来ない」「ほとんど呂律が回っていない」と解して差し支えないからです。ただ、そうすると、先のアンケートの「ほとんど当てはまらない」と「かなり当てはまらない」の違いが出ません。その点に配慮すれば、<blockquote>〔俗〕極端（キョクタン）なほどではないが、程度が弱いようす。「条件に―当てはまらない」</blockquote>このようになるでしょうか。<br /><br />『三省堂国語辞典』は、新用法はわりあい積極的に載せる辞書ですが、この「かなり」は、用法になお不明な点もあるので、載せるにあたっては迷う語といえます。『三省堂』は第6版が出たばかりなので、次の改訂で載せるとしてもまだ先のことです。この用法をそれよりも先に載せる辞書は、おそらくないでしょう。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yeemar.seesaa.net/article/90394812.html">
<link>http://yeemar.seesaa.net/article/90394812.html</link>
<title>「イケメン」検証はありがたい</title>
<description>TBSのバラエティ番組「ご起源さん！」（2008.03.21 18:55）を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「イケメン」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発..</description>
<dc:subject>語彙一般</dc:subject>
<dc:creator>Yeemar</dc:creator>
<dc:date>2008-03-22T00:16:07+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
TBSのバラエティ番組「ご起源さん！」（2008.03.21 18:55）を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「<b>イケメン</b>」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。<br /><br />番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発祥について、ゲイ雑誌「バディ」からとの説があったが、編集部の証言で否定された。最終的には、ギャル雑誌「エッグ」（egg）の元編集者・矢野智子さんが初めて使ったとされ、本人もインタビューで認めた。1999.01の誌面で「ねえ、ひろゆきクン、前回のイケメン見てどう思った？」とある。これは「クリクリ矢ぬの イケてるメンズ」というコーナーの略称。したがって、本来は「いけてる」と「メンズ」の合成語ということになる――<br /><br />有意義な取材だったと思います。俗語の発祥については、この「イケメン」に限らず諸説ある場合が多いのですが、それを具体的に実証しようとすると、なかなかむずかしいものがあります。この番組のように、突撃取材で関係者のインタビューまで取ってもらえると、（その検証過程が正当であれば）有力な資料になります。<br /><br />この「イケメン」の語源については、これまでのところ、学術的に最も頼れるのは米川明彦編『日本俗語大辞典』（東京堂）の次の記述です。<blockquote><b>いけメン</b>［名］（「いけてるメン」の略で、英語 men と「面」をかけたもの）かっこいい男（達）。「イケメン」と表記する。</blockquote>ただし、この〈men と「面」をかけたもの〉と判断した根拠は示してありません。この記述がなぜ頼れるかというと、編者がきわめて実証的な研究者だからで、いわば編者の信用に基づいているのです。<br /><br />『大辞林』第3版も、この説を踏襲しています。引用しますと、〔若者語。「いけてる（＝かっこいい）」の略に「面」あるいは「メン（men）」をつけたものといわれる〕というふうに、伝聞の「といわれる」をつけています。<br /><br />『三省堂国語辞典』第6版も、通説を踏襲して、以下のような語釈になりました。<blockquote><b>イケ メン</b>（名）〔俗〕外見の かっこいい男。いい男。〔「イケてる【＝かっこいい】メン【＝menまたは面】」から〕</blockquote>辞書の見出しは、和語はひらがなで、外来語はカタカナで表記するので、もし「いけてるmen」なら「いけメン」、「いけてる面」なら「いけめん」となります。しかし、後半が「メン」だか「めん」だか分からないので、全体を一般的表記に従って「イケメン」としてあります。<br /><br />今回の番組では、非常に助かることに、「イケメン」の発信源とされる雑誌の号数や誌面の様子まで教えてくれています。それで、この情報を元に追加調査をすることができます。この点で、じつにありがたい番組です。<br /><br />ただし、語源の捉え方としては、やはり〔「イケてる【＝かっこいい】メン【＝menまたは面】」から〕のままでよいと考えます。というのも、「イケメン」ということばは、容姿を重視しています。現在では、このことばには「面」の意識はやはり入っているというべきだからです。「menまたは面」を「menおよび面」として、両方を積極的に認める道もあるでしょう。<br /><br />ところで、番組中の私のインタビューというのは、「いけてる」の古い例についてでした。私は、ドラマで桃井かおりさんが30年も前に使った例（「男たちの旅路」1977年）があると証言したのですが（「<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k001230.htm">いける、いかす、いけてる</a>」参照）、番組でその裏を取ってくれました。ドラマのその場面が流され、また、元の脚本（山田太一）にそのせりふはないことが示されました。結論として、この「いけてる」は「桃井さんのアドリブだった」ということになりました。<br /><br />さらには、桃井さん本人にインタビューを敢行したのには舌を巻きました。桃井さんいわく、「若者っぽいアドリブをかましたくて、〔性的な俗語の〕「いく」「いかない」〔に基づいて〕なんかちょっとかっこいいものを見たとき、『今いけてます』っていう意味だった」ということでした。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
</item>
</rdf:RDF>

