2008年03月11日

むずかしい漢字「油ちょう」

冷凍ギョーザの毒物混入事件が報じられはじめたころ、テレビで毒物混入のルートを探る特集が放送されました。その中で、卸売り業者が冷凍食品の輸入元について知らせるファクスが紹介されていました。表の中に、「油ちょう」という見慣れないことばがありました。
てづくり野菜かき揚げ40(油ちょう済)
〔略〕
てづくりむきえびかき揚げ60油ちょう
(NHK「クローズアップ現代・追跡・毒混入ルート 〜中国製ギョーザ 深まる謎〜」2008.02.04 19:30)
「油ちょう」のような書き方は、「憂うつ」などと同じで交ぜ書きと言われます。もとは二字熟語で、「ちょう」も漢字で書いたはずです。どういう漢字だったのか知りたくなりました。

とりあえず、ウェブサイトを検索してみます。こういう場合、「ゆちょう」のようにひらがなで検索すると、用語解説のサイトなどで、漢字を示しているのに突き当たるものです。ところが、なかなかそれらしいものが分かりません。

「油ちょう」の意味はすぐ分かりました。「油調理」ということです(「油であげること」のほうがよりよい。下段参照)。冷凍食品会社のサイトに以下のようにあります。
また日本でのエビの復権も大きな課題といえます。ニッスイは日本の消費量の減少について、「台所から油調理(油ちょう)が減少したのが最大の原因」と分析。(ウェブ「ニッスイ フロンティア」2006.03発行)
とすれば、「油ちょう」は「油調」かと思われました。実際、「油調」としてあるサイトもあります(全日本外食流通サービス協会のウェブサイトに「冷凍食品-油調」のページがあります)。しかし、それならば素直に「油調」と書けばいいだけの話です。ひらがなにしてある理由が分かりません。

k080311yutyo.jpgこうなると、専門書をひもとかざるを得ません。『最新冷凍食品事典』(朝倉書店 1987、1989年3刷)を見てみました。残念ながら用語解説のようなページはありませんが、以下の文章に突き当たりました。
また,イカは油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}による収縮によって歯ざわりが著しく硬くなることが多い.冷凍食品の場合,必ずその食品の特性を出す理想的な調理が行われる保証がないから,高温で早く油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}する場合も多い.述べた切込みを入れることで,このように調理の条件による変化も防止することを可能にし,軟らかさを保つことを可能にする.(p.199)
この「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」こそ、「油ちょう」の正確な表記でしょう。この「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、そうとうむずかしい字です。JIS漢字の第2水準までになく、ふつうには入力しにくいのです。ウェブで探しても見つからなかった理由のひとつと思われます。

字書によっては、この字を「チョウ」読むことが示してありません。『学研漢和大字典』や『新潮日本語漢字辞典』では「やく」「いためる」の意で「ヨウ」、「ゆでる」の意で「ジョウ・ソウ」です。『増補改訂 JIS漢字字典』では「ソウ」のみです。とすると、『最新冷凍食品事典』に出てくるのも「ユソウ」とか「ユジョウ」であって、目指す「ユチョウ」ではないかもしれないという疑問が湧きます。

『角川大字源』を引いてようやく、「ソウ」「ヨウ」の読みのほかに「チョウ」の読みに出会いました。意味も3番目に「あげる。油で揚げる」の意が示してあり、「油ちょう」の用法と矛盾がありません。「油ちょう」は「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」であると考えられます。

昔からある専門用語は、このようにむずかしいものが多いようです。今では、難解な字を避けてひらがなに開いてしまうため、そのむずかしい字を使った熟語が今に残っていることが、外からは見えにくい状態になっています。「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、言わば、ひらがなの皮をかぶりながら、特殊な分野で現代でも生き続けている字と言えるでしょう。

似たような漢字の例として、通信用語の「き線」(幹線の末端)などにつかわれる「き」がそうです。「饋線」と書くのだそうです。
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2008年03月09日

使うべし、「とんでもございません」

新宿の地下街で書店に寄った際(3月7日)、『頭がいい人の敬語の使い方』(本郷陽二著、日本文芸社 2006)という本を目にしました。いくつも重ねてあったので、売れているものとみえます。以前に出た本なのに今になって気づいたわけは、帯に次のように大書してあったからです。
使ってませんか!?/「とんでもございません
「おや、自分は『とんでもございません』という言い方を使っているが、誤りなのだろうか?」と思った人が手に取ることをねらっているものとみえます。

この「とんでもございません」は、たしかに、よく敬語の誤りの例として出されるものです。それで、帯で訴えるのにふさわしいと出版社は判断したのでしょう。インターネット書店で確認したかぎりでは(買わなかったので)、「「とんでもございません」はとんでもない誤用」という章または節もあるようです。

筆者の文章の細かいニュアンスを知らずにいうのも気が引けますが、「とんでもない誤用」と断罪することには反対です。筆者は敬語の専門家ではないようですが、そう自信を持って決めつけていいのかと、疑問に思います。

「とんでもない」は、これで熟した一語であるため、「とんでもありません」「とんでもございません」は誤りで、「とんでもないことでございます」と言うべきだとは、よく指摘されます。ちょうど、「もったいない」を「もったいございません」と言わないのと同じに考えれば、たしかに筋は通っています。

ところが、むしろ「とんでもございません」は使ってよいと考えるべき強力な論拠があります。まず第1点として、わりあい古い用例があるということ。「青空文庫」によれば、昭和初期の例があります。
まあとんでもございません。ちょこちょこと致せば何のこともありは致しません。(宮本百合子「海浜一日」1927年)
とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――(林不忘「丹下左膳・こけ猿の巻」1934年)
80年以上前の用例があるということになると、これは定着した言い方と考えるほうが自然です。

次に、第2点として、「とんでもございません」と「とんでもないことでございます」とは意味が違うということです。これは、多くの人々が素朴に感じていることでもあります。たとえば、前述の本を買った人のブログに、次のような感想がありました。
Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもございません。こちらこそ・・・」/といっているところを/Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもないことでございます。・・・」/となると、なんだか責めてるみたいじゃありません?/うーむ、日本語って難しい。/やっぱり「とんでもございません」を封印できないかも。(「ちいさなくらしに、おおきなしあわせ。」2007.11.08)
これはそのとおりで、謙遜するときに「とんでもございません」を使う人でも、政治家の汚職について感想を求められれば「とんでもないことでございます」と言うでしょう。使い分けているのです。

この「とんでもございません」「とんでもないことでございます」の使い分けを広く知らしめたのは、最近、文化審議会が答申した「敬語の指針」(2007年2月)です(第3章、47ページ。PDFファイル)。この「指針」は、美化語・丁重語という敬語の型を示したことで話題になりましたかが、ほかにも注目すべき点があります。論旨が重複しますが、引用します。
〔上略〕「とんでもございません」は,「とんでもないことでございます」とは表そうとする意味が若干異なるという点に留意する必要がある。〔略。褒められた場面で〕「とんでもないことでございます」と言ったのでは,「あなたの褒めたことはとんでもないことだ」という意味にも受け取られるおそれがあるので,注意する必要がある。/ また,例えば,あの人のしていることはとんでもないことだ,と表現したい場合には,「あの方のなさっていることはとんでもございませんね。」などとは言えないが,「とんでもないことでございますね。」などは普通に用いることができる。
このように、不用意に両者の表現を言い換えて使うと、誤解の元にもなりかねないのです。となると、何世紀も前の時代のことはともかく、現代語としては、「とんでもございません」「とんでもないことでございます」は、それぞれ「正しい」日本語であって、別々の役割を果たしていると考えるのが妥当でしょう。

『三省堂国語辞典』第6版でも、以上のような考え方に立って、「とんでもない」の項に以下のように注記してあります。
〔ていねいな言い方は、@〜B〔注・「思いもかけない」「あってはならない」「とほうもない」の意味〕では「―こと・です(でございます)」だが、C〔相手の発言を否定する〕では「とんでも・ありません(ございません)」が多く使われる〕
「敬語の指針」のお墨付きもあることだし、このように注記する辞書は今後も続くでしょう。「とんでもございません」を「とんでもない誤用」と決めつける本は、今後「トンデモ本」と批判されないともかぎりません。
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2008年03月05日

昭和を騒がせた漢字たち

 円満字二郎著『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館 2007)がベストセラーになっています。すでに的確な書評はいくつも出ていますが、好きな本なので、遅ればせながら、感想めいたものを書いておきます。

 この本は、題名から分かるとおり、昭和(戦後)の歴史と漢字との関わりを、いくつかの具体的な事件を中心にして論じるものです。私自身、ことばや文字が好きなのは当然として、戦後の歴史にもオタク的な興味があり、NHK「THE NEWS」(戦後のニュースハイライトが1年1巻にまとまっている)などというビデオを見ては楽しんでいるので、本書はいわば「ツボにはまった」という感じです。一気に読んでしまいました。

 本書に出て来る「漢字にまつわる事件」は、知らないものが多くありました。たとえば、戦後いったん「郵政省」になった役所を「逓信省」に戻そうという動きがあったこと(その中心人物は田中角栄)。専売公社のたばこ「おおぞら」に「宙」という文字をあしらったところ、「その漢字はそうは読めない」と批判されてデザイン変更になったこと(しかも売れ行き不振で製造休止に)。小学校で「元気で仲よく」という碑を建てたら、漢字の点画がおかしいと裁判沙汰になったこと。どれも当時は話題になったのかもしれませんが、私には初耳で、基本的な知識の部分で勉強になりました。

 知識もさることながら、筆者の視線は、漢字そのものだけでなく、漢字を使う人々、さらにその時代に向いており、それが本書を独特のものにしています。ある漢字について、「Aと書くのが正しいか、Bと書くのが正しいか」と正誤の点で論ずる本は、うんざりするほどあります。気のきいた本になると、「なぜAと考える人がいるのか、Bと考える人がいるのか」と、人間に焦点を当てるものもあります。ところが、本書では、「AとかBとかいう議論が出て来たのは、そもそもその時代がどういう時代だからか」という、さらに一段高い所に上がって見渡しています。漢字の歴史という大河を上から眺めているような、見晴らしのいい感じがあります。

 たとえば、「元気で仲よく」という小学校の碑文の話では、「仲」のにんべんの縦棒が、上に少し突き出ているのは、マルかバツかという議論が戦わされたそうです(1970年代のこと)。もし、専門家がこれに解説するなら、「どちらもバツではありません」とか「あまり目くじらを立てないで」とか言うのがせいぜいだろうと思います。本書の興味深いところは、さらに進んで、こういった点画にこだわる議論が、そのころから激化した受験戦争の必然として起こったと指摘している点です。ということは、この碑がそれより前の時代に建っていれば、批判も起こらなかった可能性があります。

 さらにさかのぼった時代、1950年代には、福井県庁の掲示板に「福丼県」と書いてあったことが、官民を巻きこんで議論になったといいます。今日の目から見ても、「福丼県」はおかしいような気がしますが、「井」を「丼」と書くことは歴史的にもあったのだそうです。ただし、本書はそこでは終わりません。テンがあっていいか、いけないかという議論が起こるのは、戦後の「当用漢字字体表」(1949年)によって、当時の人々に字体の意識が生まれたことと無関係でない点を指摘しています。もし、それ以前ならば、〈「福丼県」を見ても、点が一つ多いな、と思うくらいで、県庁までねじ込もうとは思わなかっただろう〉という筆者の意見には同感です。

 筆者の見方にそってごく乱暴にまとめれば、戦後の人々の漢字意識には、2回の大きな変化が訪れたといえそうです。第1に、戦後すぐ、当用漢字などの制定によって、漢字に「基準」を持ち込む考え方が広まった。たとえば、「福丼県」と書こうものなら批判が殺到し、「郵政省」を「逓信省」に戻そうものなら「漢字制限に逆行する」と大反対された。第2に、高度成長ごろから、それぞれの漢字は「唯一無二」のものであるという考え方が広まった。別字で書き換えたり、使用を制限したりすることへの違和感が強まった。たとえば、水俣病の原告団は「うらみ」を表すために、当用漢字の「恨」ではなく、表外字の「怨」を使った。学生運動の活動家は、漢字の民主化に逆行するはずの略字や造字を多用した――。と、これはごく大づかみな要約ですが、筆者の見方は的を射ていると思います。

 われわれは、「あるべき日本語の表記」「漢字をどういうふうに書けばいいか」などという大きな議論をするとき、百年後も通用するような不変の論拠に立って論じているつもりでいます。でも、本書を読むと、どの時代にも通用すると思って語っていることが、じつは、まさにその時代だからこそ出てくる意見であることに気づきます。遠い将来を見通したつもりで決定した国語政策が、何年か経つともう見直しを迫られるというのも、われわれが(または役所の人々が)時代の制約を離れてことばを見つめることがむずかしいためでしょう。

 最後に、つけ足し。本書に出て来る話題のいくつかは、私が個人的に関心の強いもので、その意味でも興味深く読むことができました。石坂洋次郎『青い山脈』は、これまで2、3回は読み、映画版も2回は見ていますが、これを戦後の言語状況と結びつけて考えることはありませんでした。筆者の観点に脱帽します。また、狭山事件その他の差別事件については、大学生のころ、野間宏『狭山裁判(上・下)』(岩波新書)を読んで以来、関心が持続しています。筆者は、このほか水俣病裁判を取り上げるなど、弱者の視点に立って文字史を眺める姿勢があると思います。
posted by Yeemar at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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