2008年03月22日

「イケメン」検証はありがたい

TBSのバラエティ番組「ご起源さん!」(2008.03.21 18:55)を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「イケメン」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。

番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発祥について、ゲイ雑誌「バディ」からとの説があったが、編集部の証言で否定された。最終的には、ギャル雑誌「エッグ」(egg)の元編集者・矢野智子さんが初めて使ったとされ、本人もインタビューで認めた。1999.01の誌面で「ねえ、ひろゆきクン、前回のイケメン見てどう思った?」とある。これは「クリクリ矢ぬの イケてるメンズ」というコーナーの略称。したがって、本来は「いけてる」と「メンズ」の合成語ということになる――

有意義な取材だったと思います。俗語の発祥については、この「イケメン」に限らず諸説ある場合が多いのですが、それを具体的に実証しようとすると、なかなかむずかしいものがあります。この番組のように、突撃取材で関係者のインタビューまで取ってもらえると、(その検証過程が正当であれば)有力な資料になります。

この「イケメン」の語源については、これまでのところ、学術的に最も頼れるのは米川明彦編『日本俗語大辞典』(東京堂)の次の記述です。
いけメン[名](「いけてるメン」の略で、英語 men と「面」をかけたもの)かっこいい男(達)。「イケメン」と表記する。
ただし、この〈men と「面」をかけたもの〉と判断した根拠は示してありません。この記述がなぜ頼れるかというと、編者がきわめて実証的な研究者だからで、いわば編者の信用に基づいているのです。

『大辞林』第3版も、この説を踏襲しています。引用しますと、〔若者語。「いけてる(=かっこいい)」の略に「面」あるいは「メン(men)」をつけたものといわれる〕というふうに、伝聞の「といわれる」をつけています。

『三省堂国語辞典』第6版も、通説を踏襲して、以下のような語釈になりました。
イケ メン(名)〔俗〕外見の かっこいい男。いい男。〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕
辞書の見出しは、和語はひらがなで、外来語はカタカナで表記するので、もし「いけてるmen」なら「いけメン」、「いけてる面」なら「いけめん」となります。しかし、後半が「メン」だか「めん」だか分からないので、全体を一般的表記に従って「イケメン」としてあります。

今回の番組では、非常に助かることに、「イケメン」の発信源とされる雑誌の号数や誌面の様子まで教えてくれています。それで、この情報を元に追加調査をすることができます。この点で、じつにありがたい番組です。

ただし、語源の捉え方としては、やはり〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕のままでよいと考えます。というのも、「イケメン」ということばは、容姿を重視しています。現在では、このことばには「面」の意識はやはり入っているというべきだからです。「menまたは面」を「menおよび面」として、両方を積極的に認める道もあるでしょう。

ところで、番組中の私のインタビューというのは、「いけてる」の古い例についてでした。私は、ドラマで桃井かおりさんが30年も前に使った例(「男たちの旅路」1977年)があると証言したのですが(「いける、いかす、いけてる」参照)、番組でその裏を取ってくれました。ドラマのその場面が流され、また、元の脚本(山田太一)にそのせりふはないことが示されました。結論として、この「いけてる」は「桃井さんのアドリブだった」ということになりました。

さらには、桃井さん本人にインタビューを敢行したのには舌を巻きました。桃井さんいわく、「若者っぽいアドリブをかましたくて、〔性的な俗語の〕「いく」「いかない」〔に基づいて〕なんかちょっとかっこいいものを見たとき、『今いけてます』っていう意味だった」ということでした。
posted by Yeemar at 00:16| Comment(3) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月19日

新しい語法?「可能+ている」

動詞「楽しむ」を可能形にすると「楽しめる」になります。これは当たり前。では、それに進行形「ている」をつけて「楽しめている」と言うことはできるでしょうか。

若い人は、おそらく「できる」と言うのではないかと思います。たとえば、次のように使う例があります。
スカッシュのルールや技について知らないこともたくさんあります。それでも、スカッシュは楽しめています
(早稲田大学学生の文章、2006.08.01)
しかし、これは、私には新奇な感じがします。私が書くならば、可能形だけを使って「十分楽しめます」とするか(くどいので「スカッシュ」は繰り返さない)、または、進行形だけを使って「十分楽しんでいます」のようにするか、どちらかです。可能形も進行形も両方くっつける、という発想は、私にはありません。

この「可能形+進行形」の形(ここでは「進行形」に「完了形」も含めます)は、探してみれば、よく目につきます。いくつか引用します。
〔中学校の男性教師〕〔生徒への対応を〕まあいろいろな角度から考えてはいるんですけれども、まあ解決策というか打開策っていうのがまだ自分の中で見つかりきれてない〔=見つかりきれる+てる+ない〕、そういう中でこう日々過ごしているっていうのが、まあ今の現状です。(NHK「NHKスペシャル・“学校”って何ですか?」2007.03.03.21 19:30)

「彼女はあたしの古い友だちよ。ずっと会っていなかったけど、一番信用できる人」/ タカシに聞かれていることを考え、そうとだけいった。白理は呑みこめていない〔=呑みこめる+ている+ない〕表情で頷いた。〔大沢在昌・魔女の盟約38〕(「週刊文春」2007.04.26 p.115)

〔住人の女性〕私も夕べから全然寝れてなかった〔=寝れる(←寝られる)+てる+ない〕んで、これでやっとゆっくり眠れますけどもね。(NHK「ニュースウォッチ9」2007.05.18 21:00)

小林〔幸子〕 順風満帆じゃなかったことで、私は今までやってこれている〔=これる(←こられる)+ている〕のかもしれない。(「週刊文春」2008.02.07 p.116)
用例からすると、「……ていない」と否定形で結ぶほうが若干多いかもしれません。いわゆる「ら抜き」表現になることも多く、「やってこられている」と言わず「やってこれている」になったりもしています。いずれにしても、私ならば使わない言い方で、それぞれ「見つかっていない(見つかりきっていない)」「(まだ)呑みこめない」「寝られなかった(寝ていなかった)」「こられた」と言いそうなところです。

昔はどうだったかというと、「可能形+進行形」の形はなかったわけではありません。たとえば、「文章がよく書けている」などと言います。「書ける+ている」です。太宰治「ろまん灯籠」(1940-1941)には〈面白い。よく書けていますよ。〉と出てきます。ただ、この「書ける」は、「(紙を)折る」の結果として「(紙が)折れる」と言うのと同じく、「書く」の結果を表す「書ける」であると考えることもできます。

昔の状況については、精査していません。ここでは、「どうも、昔の文章ではあまり「可能形+進行形」は見かけないような気がする」という、私の印象を記すにとどめます。もし、確実な例をご存じでしたらご教示ください。

「楽しめている」のような言い方が、もし新しいと仮定すれば、それはいつごろから広まった言い方でしょうか(仮定の上に立つ推測というのはあやふやですが、まあお見逃しください)。それは、「いけてる」ということばが流行しはじめたころではないかと思います。「いけてる」は「いく(行)」の可能形「いける」に「てる(←ている)」が付いたものです。「いける」は「(酒が)いける口」のように、長らくこの形で使われ、戦後は〈このおねえちゃんはちょっといける〉(石坂洋次郎『陽のあたる坂道』1956-57)のように流行したのですが、それに「てる」がついたのは、私の記憶では1996年ごろからです。

「いける」から「いけてる」を作ったのと同じ仕組みで、「楽しめる」→「楽しめている」などの語法が作られ、広まったのではないかと推測します。

なお、方言では、たとえば徳島県で「行けよー行けよー」(←行けよる行けよる。大丈夫)というふうに、動詞の可能形(行ける)に進行形「よる」をつけることがあるようです(「ふるさと日本のことば語彙索引」の「よる」を参照)。関係があるでしょうか。

関連文章=「いける、いかす、いけてる
posted by Yeemar at 16:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月18日

「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―

前回、常用漢字表の改定に関して、「趣旨はまったく賛成」と書きました。社会生活で目にする漢字が増えている現在、漢字表を拡大するのは当然だと思います。ただし、「理解漢字の表」(読めるだけでよい漢字の表)、「書写漢字の表」(書けるようにする漢字の表)の2つに分けて、新追加漢字はすべて理解漢字とするのがよいと述べました。

理解漢字といっても、だれもが理解するだけで書かなければ、その漢字は消えてなくなってしまいます。ここで言う理解漢字とは、学校教育で書かせなくてよく(書きたい人は書いてもよい)、字体・字形を採点対象にしないということです。パソコンや携帯メールでは当然使ってよいということです。

たとえば、「誰」「頃」という字は、現在の常用漢字表には入っていませんが、社会での使用頻度としては上位に来ています(国立国語研究所の『現代雑誌200万字言語調査』など)。新常用漢字表では、おそらく追加候補になるでしょう。これは「理解漢字」とします。そうすれば、中学校の生徒は、これを読めなければいけないけれど、自分はパソコンで打てれば十分ということになります。実際には、このように高頻度で目に触れる文字は、自然に手でも書けるようになるでしょう。

新常用漢字表では、都道府県名もすべて入りそうな情勢です。これも理解漢字で十分です。書写漢字にしてしまうと、「茨城」の「茨」の「にすい」の上側は「ヽ」か「一」か、などという面倒くさい問題が出てきます。「ヽ」か「一」か、止めるかはねるか、などという問題は、ふつうは教育現場以外では出ない(どちらでもよい)ものです。でも、初等・中等教育の段階では、2つの正解は望ましくないので、問題化するのです。これらが理解漢字ならば、学校のテストで点画までは問われないため、問題がなくなります。

私は、理解漢字・書写漢字を分ける常用漢字表ならば、現状の文字生活を温かく容認するものになると考えます。社会の変化にそっと寄り添うものになり、社会を強引に漢字表に合わせる結果にはならないと信じます。

――以上は前回の補足で、以下は個人的な愚痴を書きます。

秘めた本音のところを言いますと、書写漢字であれ、理解漢字であれ、常用漢字表の字数が増減するのは、私にとっては複雑な思いがあります。現在の常用漢字表は「一般の社会生活」における「漢字使用の目安」を示すものです。目安というのは、100パーセント従わなくてもいいけれど、だいたい従ってください、ということと考えています。文章を書く人間として、常用漢字表をまったく知らないと思われるのは心外なので、私はこの表にかなりの程度従って文章を書いています。その基準が変わるということは、私の文字生活が多少ともぐらぐらすることになります。

たとえば、私は自分の書く文章で「誰」「頃」「揃」「頁」「狙」などの字を漢字で書かないようにしています。これらは、社会では高頻度で使われる字ですが、常用漢字表にはありません。常用漢字表に従おうとする以上、これらの字はなるべく使わないのがいさぎよい態度です。今、私のウェブサイトの字を検索してみると、「誰」「頃」は、引用文を除いては一切使っていませんでした。

それが、新常用漢字表では、「誰」「頃」……などの字もご自由にお使いください、ということになりそうです。そうすると、「私の今までの禁欲的な態度は何だったのか?」という、ばかを見たような気持ちになるのも事実です。規則が変わってからは、「だれ」「ころ」とかな書きにした私の文章は、「旧常用漢字表時代の文章」という印象を与える、古くさいものになります。常用漢字表に律儀に従ってきた結果がこれでは、納得できないではありませんか。

以上のようなことを感じる人は多いのでしょうか。どうも多いとは思われず(つまり、現実には常用漢字表を「目安」と意識して書いている人が多いとは思われず)、私の文章は苦笑を誘うような気もします。ただ、学校現場などでは、プリントの文章などの使用漢字に神経を使っておられるでしょうから、私の気持ちもお分かりいただけるのではないでしょうか。
ラベル:常用漢字表
posted by Yeemar at 14:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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