2008年04月10日

福田首相の「過分な期待」

「Yahoo!みんなの政治」というサイトで、福田康夫首相についての評価を見ていたら、なるほどと思う書き込みがありました。
「過分な期待」って
日本語の使い方が間違っているんじゃないか。/我々が年金問題の解決を期待することは「過分」なのか。/要するに、そんなことを国民が期待するのは/「分不相応」と言いたいのか。単に国語能力の低さを/露呈しただけならともかく、ここには政治家の本音が/ハッキリと見える。実に不快だ。思い上がるな!!(投稿日時:2008年4月8日 9時35分
年金記録問題を2008年3月までに解決するかのような公約を唱えたことについて、福田首相が陳謝したというニュースを受けての書き込みです。『毎日新聞』2008.04.08によれば、その発言は以下の通りです。
 福田康夫首相 昨夏、「(今年)3月までに年金記録問題を全面的に解決する」という誤解を与える表現、説明もあったと思う。誤解を与えた、過分な期待を持たせたという意味でおわびしないといけない。
私は、このニュースを読み流してしまい、「過分な」には引っかかりませんでした。しかし、『三省堂国語辞典』第6版では、「過分」は〈地位・能力・労力に相当した程度を こえること。〔けんそんして、自分には すぎた、という意味で使われることが多い〕「―な おことば・―の謝礼」〉〈〔昔、殿様(トノサマ)などが〕ありがたいと思うときに言った ことば。「―に思うぞ」〉とあります。「過分な期待」は、たしかに、〈そんなことを国民が期待するのは「分不相応」〉というニュアンスが入ってしまいます。この書き込みの主は語感が鋭い、私はぼんやりしていた、と思いました。

報道では、この「過分」を聞きとがめるものはまだ目にしていません。記者が頭の中で「過度の」に訂正したのかもしれません。しかし、たとえ言い誤りにしても、たしかに失礼になるのは事実なので、囲み記事ででも指摘してはどうでしょう。

福田首相の発言といえば、私が気づいたのは、4月9日の党首討論で、国会運営について述べたことばです。
〔福田康夫首相〕〔ねじれ国会の運営を、民主党の〕だれとお話をすればですね、信用できるのか。そのこともですね、ひとつぜひお示し、教えていただきたい。たいへん苦労してるんですよ。かわいそうなくらい苦労してるんですよ。(NHK「ニュース7」2008.04.09)
この「かわいそう」の主体が分かりません。首相自身でしょうか。

ふつう、「かわいそう」は他人について使うことばです。『三省堂国語辞典』からまた引けば、〈気の毒に思って、何かしてやりたくなる・ようす(気持ち)。あわれ。〉ということになります。これを自分自身に使って、「ぼくはかわいそう」などと言うと、なんだか自己陶酔的な、情けない感じがします。首相のことばとも思えません。「自分をかわいそうとは何ごと」などという批判記事が出てもいいところです。

これが、たとえば、国対委員長かだれかを指してでもいるのであれば、「彼ははたで見ていてかわいそうなくらいだ」という意味になり、思いやりのある首相という感じが出ます。でも、そういうわけでもないようです。

首相として毎日いろいろなところで発言していれば、この程度の言い損ないはあって当然なのか。それとも、政権が危険水域(これは『三省堂国語辞典』第6版で載ったことば)に入ったため、発言が荒れているのか。それは私には分かりません。
posted by Yeemar at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月09日

「身につまされる」のあいまいな用例

「身につまされる」という句が、意味があいまいなまま使われることがあるようです。辞書の説明が分かりにくいのも混乱の一因かもしれません。ネット上では、2002.04.29に「Navi」氏が次のように指摘しています。
〔「心身が弱った状態で老人問題特集を見ていると身につまされる」という使い方は正しいかどうか〕先ほど辞書をひいてみた。〔『三省堂国語辞典』では〕「自分にくらべてあわれに感じる」だって? 微妙に自信が無かったとはいえ、これはちょっと納得できない。慌てて『広辞苑』もチェック。〔略。「人ごとでなく感じられて、哀れに思われる」の説明を引き〕おぉ、これだよこれ、「人ごとでなく感じられて」。間違いではなかったか。よかったよかった。(そいとごえす・近況雑談
たしかに、『三省堂』の説明は不十分で、「自分にくらべてあわれに感じる」は舌足らずです。「自分の身に引きくらべて〔=当てはめて〕あわれに感じる」というのを圧縮しすぎて、分かりにくくなっています。次回の改訂では再考すべきです。「自分のことのようで あわれに感じる」としてもいいでしょう。

私にとって、「身につまされる」の典型的な使い方は、たとえばこうです。
或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。(太宰治「如是我聞」)
『斜陽』は没落貴族を描いた小説なので、宮様は、まるで自分のことのようで、登場人物に同情したということでしょう。

さて、「身につまされる」の意味をこのように確認したあとで、実際の用例を検討してみると、どうも分かりにくいものが多くあります。古いほうから挙げます。
私がSF作家になるに至ったのは、実に私が、SFの描くいろんな災難、ウイルスで地球が死滅するとか、放射能でゴキブリが巨大化するとか、そういう話をひとつも、ウソや、といって笑いとばすことができず、全部身につまされたからである。(中島梓『にんげん動物園』角川書店 1981.11.30初版 p.150)
フィクションに描かれた災害が「人ごとでなく」感じられた、ということでしょう。「身につまされる」の意味に一部は重なりますが、「あわれに思う」という意味はここには含まれていません。自分も大災害に遭遇した経験があって、それで、巨大ゴキブリに襲われた登場人物に同情した、というわけでもなさそうです。違和感の残る表現です。
〔アンケートで、「なりたい人物」としてイチローを選んだことについて〕「同級生なので、自分との差が激しいから」(31)
 と身につまされている人もいる。(『週刊文春』2005.11.10 p.48)
この例では、べつにイチローをあわれに思っているわけではありません。イチローが活躍している一方、自分はぱっとしないなあ、と残念に思っているのです。「自分の身を省みてはずかしく思う」ということでしょう。なお、この文では「同級生」の使い方も注意を引きます。

次の例もアンケートに関する文章です。
 現時点でのわが家の位置づけを尋ねると、七七・五%が〈中流〉と答えた。なるほど、まだかろうじて「一億総中流」の神話は残っているようだが、〈下流〉が一八・八%を占めていることが気にかかる。
 十八歳の子どもを持つ親といえば、おそらく四十代半ばから後半にかけて。「親が幸せに生きているように見えますか?」の設問に〈NO〉と答えた子どもが三二・二%にのぼっていることも合わせて、これらの設問への回答は、むしろ親の世代にとって身につまされるだろう。〔重松清〕(『週刊文春』2006.05.18 p.142)
アンケート結果を読んで、だれか他人をあわれに思うというのはへんなので、これも、「人ごとでなく思う」ということでしょう。

『週刊文春』の例ばかりたまたま続きますが、次も同じ雑誌の例です。
「〔事故を起こして〕入院中に先輩たちから愛情を注がれるなかで、今まで笑いの伝え方が不親切だったなと気づかされた。お客さんに対する愛がなかったんじゃないかと身につまされました
 と千原ジュニアさん(33)は語る。(「週刊文春」2008.04.10 p.121)
先輩たちから親切にしてもらったことで、自分を反省したというのです。ここでは、だれかの話を自分自身に引き比べてみたというわけではありません。ここまで来ると、先の太宰治の例とはかなり距離が生まれています。

以上の「身につまされる」のそれぞれの例は、互いに一致する部分としない部分があります。それぞれの例は、散発的なものか、一定の勢力を持っているのか、よく分かりません。また、手元の用例がなぜか『週刊文春』にかたよっているのも不満です。なおしばらく用例を集めてみたいことばです。
posted by Yeemar at 21:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

かなり当てはまらない

名前は管理職なのに時間外手当が出ないなどの「名ばかり管理職」について、NHKが1月、全国200社あまりを対象にアンケートを行いました。その結果が報道されました。
会社の管理職が法律の条件に当てはまるか尋ねたところ、「ほとんど当てはまらない」が9%、「かなり当てはまらない」が18%、「一部当てはまらない」が36%で、(NHK「ニュース7」2008.03.23 19:00)
この「かなり当てはまらない」に注意が向きました。私は使わない言い方です。こういうアンケートの文言は、数値を日常語に翻訳している面もあるので、ふつうの日本語とは違った言い回しになることがあるかもしれません。

『三省堂国語辞典』第6版では、「かなり」は次のように説明しています。
(1)極端(キョクタン)なほどではないが、程度が強いようす。「―大きい」(2)〔俗〕非常に。すごく。「―むかつく」
第5版では〈相当。「―大きい」〉だけだったので、詳しくなっています。これは「かなり+肯定表現」を想定した説明です。「かなり」はふつう否定表現とは結びつかず、「かなり痛くない」「かなり高くない」などとは言いにくいはずだからです。「かなりつまらない」とは言いますが、これは「つまらない」が否定表現ではなく「無味乾燥」の意の形容詞になっているからです。

『三省堂』の上記の説明でも、むりやり「かなり当てはまらない」を解釈できないこともありません。「ほとんど当てはまらない」を「はずれ度A」とした場合、「かなり当てはまらない」は、そこまで極端ではないが、まあ「はずれ度B」ぐらいといった語感でしょうか。

しかし、私の語感では、「かなり+否定表現」が何パーセント程度を指すのか、分かりません。「テストがかなりできた」と言えば、80点か90点かといった点を思い浮かべます(100点ではない)。一方、「テストがかなりできなかった」と言われても、さあ、それは何点ぐらいか、ちょっとイメージしがたいのです。肯定表現の場合を単純に逆転すれば10点か20点だったということになりますが、その場合、私なら「ほとんどできなかった」になります。私の語感に基づいてだいたいのところを示すと、0点は「まったくできなかった」、0〜40点ぐらいは「ほとんどできなかった」、40〜70点ぐらいは「あまり(それほど)できなかった」、70〜80点ぐらいは「ふつう(まあまあ)だった」、80〜90点ぐらいは「かなりできた」、90〜100点は「よく(たいへんよく)できた」であり、「かなりできなかった」の入る余地はありません。

ところが、この「かなり+否定」は、しばしば目にします。用例を引用します。
〔チョコボールのくじの〕金〔=ゴールドの意〕も本当にあるのだが、かなり出ない。仮に「20個に1枚銀」と仮定すると、銀5枚ぶんつまり「100個に1枚金」ぐらいになるのか。〔つぼさがし46・「おもちゃのカンヅメ」のつぼ〕(「週刊朝日」2005.03.04 p.56)

 今連載している雑誌の担当も男性で、男性作家の担当が当然多いのだけれど、この人も〔差し入れ時に〕かなり肉しか買って来ない。〔安野モヨコ・くいいじ8〕(「週刊文春」2006.10.19 p.69)

「そうだよ、雅子ちゃん」山瀬が口をはさんだ。かなり呂律{ろれつ}が回っていない。「この際、犬の名前もヨーから、プーぐらいに変えてさ」〔藤田宜永・喜の行列悲の行列51〕(「サンデー毎日」2007.04.29 p.59)
これらの用法をかりに辞書に載せるとすれば、「〔俗〕〔下に打ち消しのことばが来る〕ほとんど。」と簡潔に説明したいところです。上の例は、「くじの『金』がほとんど出ない」「ほとんど肉しか買って来ない」「ほとんど呂律が回っていない」と解して差し支えないからです。ただ、そうすると、先のアンケートの「ほとんど当てはまらない」と「かなり当てはまらない」の違いが出ません。その点に配慮すれば、
〔俗〕極端(キョクタン)なほどではないが、程度が弱いようす。「条件に―当てはまらない」
このようになるでしょうか。

『三省堂国語辞典』は、新用法はわりあい積極的に載せる辞書ですが、この「かなり」は、用法になお不明な点もあるので、載せるにあたっては迷う語といえます。『三省堂』は第6版が出たばかりなので、次の改訂で載せるとしてもまだ先のことです。この用法をそれよりも先に載せる辞書は、おそらくないでしょう。
posted by Yeemar at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする