2008年05月24日

笹原宏之『訓読みのはなし』を読む

漢字には何千年の歴史がありますが、時代によって、また地域によって変転をきわめてきました。けっして、使われ方の固定した、万古不易の文字ではありませんでした。日本では、漢字は日本語の一部として用いられ、中国とはまったく異なった展開を見せました。これは、笹原宏之氏が一貫して追究し、かつ証明してきたところです。

今のコンピュータ時代にあっても、日本の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます(「文字のスナップ」参照)。とはいえ、以前に比べれば、私たちはペンを持つことが少なくなり、書いた文字を人に見せる機会も減りました。まして、新しい漢字や漢字字体を生み出して流通させることもむずかしくなりました。私たちの書写生活の大部分は、規格化されたコンピュータ文字に支配され、画一化に向かっているとみることもできます。少なくとも、私はそうだろうと思っていました。

ところが、それは一面的な理解に過ぎなかったことを、笹原氏の近著『訓読みのはなし』(光文社新書)で気づかされました。なるほど、漢字の字体はコンピュータによって堅固な枠がはめられました(堅固というのは私が言っているだけで、異論が出るかもしれません)。でも、漢字には、字体の要素以外に、「よみ」という要素があります。漢字に日本語をあててよむ「訓読み」の多様さ、自由さは、今日でもなお衰えていません。コンピュータによる制約を受けることなく、新しい訓が生まれ、古い訓が滅んで、新陳代謝を続けています。本書はそのことを豊富な実例で教えてくれます。

印象的な一例を挙げれば、最近では、「おなかがぺこぺこ」というときに、「お腹凹凹」と書く人がいるのだそうです(p.139)。「凹」という文字自体は、常用漢字にもあるし、特にめずらしい漢字ではありません。しかし、それを「ぺこぺこ」ということばと結びつけたところが大発明です。「ぺこぺこ」ということばを書きあらわす漢字がなかったところへ、忽然とその漢字が現れたという点では、新しい漢字が発明されたのと同じぐらいの価値があります。「ぺこぺこ」の「ぺこ」は「へこむ」と関係があるでしょうから、「凹む」の「凹」が使われるのは理にかなってもいます。

昨日整理していた週刊誌で、たまたま「猿公」という文字を目にしました。「えてこう」とルビが振ってあります。
野鳥とふれあうこころの安らぎを求めて、山里の湖沼にバードウォッチングに来てみたが、神出鬼没の猿公{えてこう}のわるさ連発でストレス倍増! そんな光景のイラストが7枚にクラッシュ! でも、よ〜く見ると6枚はどこかが違っています。間違いのない1枚は、A〜Gのうち、どれでしょう?(『週刊朝日』2008.05.16 p.77)
「えてこう」を表記する漢字として「猿公」を示している辞書もありますが、たとえば『三省堂国語辞典』では示していません(そもそも、「えて」の項目しかありません)。「猿公」に「えてこう」とあてる訓は戦前からあるようで、それが定着し、今日まで存続しているとすれば、新しい訓(ことばの側から見れば、新しい用字)として辞書に載せることは考えていいことです。

あるいは、別の週刊誌に「奏べ」という表記がありました。「しらべ」と読むようです。
 時空を超えて繋がるフレーズ、胸に響く熱き奏べ。仲間とともに歌った母校の「校歌」は、青春の想い出であり、人生を支える心の糧でもある。(『週刊実話』2008.01.31 p.111)
古くからある用字かもしれませんが、それこそ調べが及んでいません。『新潮日本語漢字辞典』にはありませんでした。でも、インターネットではまま見受けられる用字です。「調査する」意と区別するため、あえて「奏」の字を使ったものでしょうか。

『訓読みのはなし』には、「紅白歌合戦」で、演歌の歌詞に「巨(でか)い」とあった例が紹介されていました。おそらく1999年の鳥羽一郎「足摺岬」だと思われます。歌詞の表記はたしかに注目すべきで、「奏{ひ}いて」「理由{わけ}」「希望{のぞみ}」「真実{ほんと}」「幸福{しあわせ}」「生命{いのち}」など、私たちにも納得できる用字が多くあります。そのいくつかは、辞書に載せてもよさそうです。『新潮日本語漢字辞典』だけは、このような用字もたんねんに拾っていて脱帽するのですが、漢字辞典・国語辞典を問わず、この方面の手当ては十分でないというべきでしょう。

「お腹凹凹」「巨い」など、常用漢字音訓表にない訓でよまれる字は、一般にあて字とされ、辞書では無視されがちですが、中には広く定着したと見られるものもあります。私自身は、『三省堂国語辞典』の編集に関わり、たとえば「おとこ」の用字に「漢」の字を加えるなど、多少の配慮をしたつもりです。とはいえ、それぞれのことばにどのような漢字をあてるかという視点は、なお十分でなかったと反省しています。「わけ」の項目に「理由」という漢字を示していいかどうかなど、もっと深く考えるべきです。『訓読みのはなし』を読了して、意識改革が起こりました。



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2008年04月13日

「号泣」の「誤用」成立まで

三省堂辞書サイトでの連載に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、
(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。
この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。

「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。

声を上げない「号泣」については、早くは、橋本五郎監修・読売新聞新日本語取材班『乱れているか? テレビの言葉』(中公新書ラクレ 2004)p.26で触れられています(元の新聞記事は2003.10.09 夕刊 p.18)。
ワイドショーなどでは、過剰な表現のタイトルを多用することが多い。「遺族号泣」「アジト潜入」「極秘入籍発覚」――。大げさな言葉で視聴者の目を引こうとする姿勢がのぞいている。
と記し、かつまた、フジテレビの生活情報局では「号泣」「潜入」などの誇大表現を避けるよう指示するようになったとつけ加えています。ここでは、「号泣」は誇大表現という扱いです。

ネット上でも、早くから指摘されています。
 ずっと前から不愉快に思ってたんだけどさ、「号泣」って表現ね。あれ、どうにかしろよ!>テレビ局/〔略〕/ 言葉の意味ぐらいは知ってて使ってるんだろうけど、いくらテレビ欄を見る人の注意をひきたいからといってもさ、視聴率を稼ぎたいからといってもさ、いつもいつもその表現だと、そのうち「涙が出るか出ないかくらいの泣き方」が「号泣」って意味になっちまうよ。(ブログ「雑草譚」2004.07.29〔元は2004.04.11〕)
これも「誇大表現をやめよ」という趣旨ですが、それだけでなく、誤用を誘う可能性も示唆しています。

私は、先の『乱れているか? テレビの言葉』は、刊行されてすぐに読みましたが、単に「誇大表現」の話と受け取り、「号泣」の意味の変化につながるものとは考えませんでした。想像力に欠けるというべきです。

私自身が首をかしげた最初の例は、「ウィキペディア」の文章でした。「NHK紅白歌合戦」(2006.01.02 06:36の版。気づいたのは同年9月)に、次のようにありました。
〔1984年の「紅白」で〕最後には、〔引退する〕都はるみの代表曲「好きになった人」が歌われた(都本人は号泣して殆ど歌えず、他の歌手達が都を囲んで合唱)。
私はこの「紅白」を見ていますが、都はるみは、「さけび泣くだけで、歌にならなかった」わけではなく、涙で声がつまったのです。ここで「号泣」というのは、誇大表現というよりは、話を変えてしまうと思いました。

「号泣」にいっそう注意するようになったのは、週刊誌で次の例を見てからでした。
〔覚醒剤で逮捕されたミュージシャンの裁判で、被告人は〕情状証人として父親が出廷すると、下を向いて泣き始め、弟まで出廷すると大号泣に。(「週刊朝日」2006.12.29 p.42)
これは法廷内のことですから、もし被告が大声を上げて泣きだしたら、裁判の進行はストップです。これは涙をたくさん流したということだろうと思われます。

テレビの例は、ワイドショーをあまり見ないので遅れましたが、ようやく採集しました。
〔字幕〕夕張市取材でみのもんた号泣、善人面する薄っぺらなマスコミ報道(MX東京テレビ「談志・陳平の言いたい放だい」2007.01.21 6:00)
みのもんたさんが、財政再建団体となった夕張市の窮状に同情の涙を流したということと思われます。声を上げて泣いては、放送ができないはずです。

こういった具合で、いくつか例を集めました。とはいえ、どの例も、その部分だけを読めば、単なる「誇大表現」か、それとも「誤用」か、分かりにくいものです。だれが見ても声を上げていないことが明白な文で、「号泣」と言っている例があればいいと思いました。

その例は、新聞連載まんがの西原理恵子「毎日かあさん」にありました。
〔母の私が公園で酔っぱらいと〕だらだら話してたらば 〔そばでブランコをこぐ〕娘にとっては 〔ひとこぎするたび〕ものすごい 怖いおっさんが 10秒に一回 眼前にやってくるわけで/30分後に声を止めて号泣してる娘を発見/〔娘発言〕女の子なんだから あんな怖い人に 近よせないでっ いい人かもしれない けど好きになれ るもんじゃないのっ(「毎日新聞」2007.09.16 p.21)
「声を止めて号泣」とあるので、これは確実に声を上げていない「号泣」の例です。しかも、多数の人の目に触れる新聞に載った例であり、これで「号泣」の誤用は一応証明されました。この例は、画像とともに、上記の三省堂辞書サイトでも紹介しました。画像の掲載許可は、編集部から西原さんに頼んでいただきました。

このほか、いくつかの例をもとに、この用法は、『三省堂国語辞典』第6版に無事(?)載りました。

最後に、最近の例から、明らかに〈大いに なみだを流す〉場合を、もう一つ挙げておきます。
〔千原ジュニア〕〔バイク事故の〕後遺症で、涙腺が狭窄してですね、その涙嚢というまあ涙が溜まるところがつながってないんですよ。たとえばしゃべっていたりその温度なんか変わるとこっちから涙出てくるんですよ。だからうどん食べたらふつうはなが出ますよね。僕、涙、あのうどん食べたら号泣ですよ。(日本テレビ「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2008.02.01 20:00)
「うどんを食べると、はな水の代わりに涙が出る」というのですから、ここは声を上げるかどうかは問題にしていない例です。
ラベル:号泣
posted by Yeemar at 07:50| Comment(11) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月12日

辞書に載せるべきか「後期高齢者」

4月から「後期高齢者医療制度」(長寿医療制度)が施行され、「後期高齢者」なる用語がにわかに注目されました。私の理解では、この制度は75歳以上の人が年金から保険料を天引きされるものです(全国平均で月額約6,000円=「朝日新聞」2007.11.27 p.1)。介護保険料とあわせて1万円以上が年金から差し引かれるため、「史上最悪の国家犯罪」(「サンデー毎日」2008.04.20 p.20)などと最大級の表現で批判されています。

制度が決まったころには、それほど批判の論調がなく、今になって批判が高まったことに違和感はあります。ただ、私自身が「後期高齢者」であれば、こういう制度はありがたくないので、賛成か反対か投票せよと言われれば、反対票を入れるでしょう。

「後期高齢者」という呼び名についても、たしかに「人生の終わりが近い」というニュアンスが感じられて、いかにも無神経です。もともとは老人学などの用語でしたが、それを役所がそのまま制度の名前に使ったのはよくありません。また、「長寿医療制度」という「通称」も、実態をごまかすという意見に説得力があります。

NHKニュースを聞いていると、どちらの名称も避けていました。
七十五歳以上の高齢者を対象に、今月から始まった医療制度で、新しい保険証が届いていない人が、六万三千人あまりに上ることが、厚生労働省の調べで分かりました。〔略〕新しい医療制度は、七十五歳以上の高齢者を対象に、今月一日から始まったもので、〔略〕おととい現在で、新しい制度の対象となる千三百万人のうち、〔略〕(NHK「ニュース7」2008.04.11 19:00)
という具合です。新聞では両者併記ですが、朝日・読売・産経・東京・日経が「後期高齢者」を先に、毎日が「長寿」を先にしているようでした(違う場合もあるかもしれません)。

さて、この「後期高齢者」ということばですが、辞書に載せるべきだろうか、と考えます。考えるも何も、すでに『広辞苑』には第5版(1998年)から見出しに立っています。小型の『三省堂国語辞典』でも、第5版(2001年)から、「高齢者」の項目に「前期高齢者・後期高齢者」という言い方を示してあります。ただ、これは老人学などの用語として載せているものです。今、さかんに使われているのは、いわば「役所発」の官製語です。私としては――これは偏見を含みますが――役所発のことばというのは、品がない、実態をごまかす、などの点で、あまり辞書に載ってほしくないものが多いのです。「後期高齢者」「長寿医療制度」などは、さしずめその代表です。

厳密な官製語というのとは違いますが、『三省堂国語辞典』では、第5版に「ロト」「ミニロト」「ナンバーズ」が載っていました。宝くじの名称であり、くじの「胴元」は地方自治体です。宝くじとは役所がかけごとを推奨するものと思っている私は、このネーミングを片腹痛く思っていました。第6版では、結局、「項目としては細かすぎる」という理由で削除されました。第6版には「トト」(サッカーくじ)が残っていますが、これも売り上げが伸びず、存在意義に疑問が投げかけられています。次回の改訂までに制度が消滅してくれればいい、と思っています。

「後期高齢者」も、これらと同じで、そういう制度ができたからといって辞書に載せるのは、役所のお先棒を担ぐようでおもしろくありません。でも、おもしろかろうがなかろうが、ことばが定着してしまえば、それは現代語の一部ですから、中立的に行こうと思えば載せるしかありません。たとえば、こんな感じになるでしょうか。
こう き[後期](名)……――こうれいしゃ[後期高齢者](名)〔行政などで〕七十五歳以上の人を呼ぶ言い方。「―医療(イリョウ)制度〔=年金から一定の保険料をとる、七十五歳以上の人の医療制度。長寿(チョウジュ)医療制度〕」(←→前期高齢者)
ここには、この名称がいかがわしいとか、この制度に批判があるとかいう説明は一切省かれます。それが辞書というものだからです。

辞書に載せなくてよい場合があるとすれば、それは、制度や名称が変更になった場合です。問題点が明らかになり、この制度・名称が変更を迫られることになれば、「後期高齢者」は辞書の見出しに立てる必要がなくなります。私はそのことをひそかに願っています。
posted by Yeemar at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする