2011年09月17日

○×式のことば報道はよくない ――「間が持てない」と「間が持たない」

文化庁の平成22年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されました。この調査については、「いったいどれほどの税金をつぎこんでいるのだろう」という個人的な疑念はありますが、それは置いておきます。ことばの変化や、人々の意識の変化について、有益な情報が含まれていることは確かです。ところが、メディアは、これを単なる「正しいことば遣い調査」ととらえているふしがあります。

調査には、〈本来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこにも書いてありません。価値判断は持ちこまずに、ことばの変化を調べています。それが、ニュースでは、「正しい言い方をしている人何パーセント」などと表現されます。調査の趣旨が単純化されて、「○×クイズ」になってしまうのです。

調査項目のうち、「間が持てない」「間が持たない」を取り上げましょう。これは、どちらが誤用とも言いがたいものです。報道では、〈慣用句でも「間が持てない」を6割以上が「間が持たない」と誤って理解していることが分かった〉(「MSN産経ニュース」2011.09.15)と説明していますが、さあ、はたして「誤って」なのでしょうか。

まず、歴史的にどうだったかをたどってみます。『日本国語大辞典』には「間が持てない」の用例は出ていないので、いつ頃から使われたことばか、よく分かりません(この辞書では、文献に用例のあることばは、その例を載せています)。私の調べた範囲では、漱石・鴎外も、芥川も、太宰も使っていません。もともと、古くからの慣用句というほどではなさそうな印象を受けます。

ウェブの「青空文庫」では、戦後の例が出てくるだけです。
・三芳 (間が持てないで)君の家でも皆さん元気だそうだ。(三好十郎「猿の図」〔1947年〕)
・これは舞台の上でも或る意味で、間を黙つてる人物の「間」がもてないといふことを救ふことにもなるけれども、(岸田國士「対話」〔1949-50年〕)
私が検索したところでは、以上の2例が出てきました。

一方、「間が持たない」は「青空文庫」にはありません。「Googleブックス」で検索すると、中野重治(1902年生まれ)の「中国の旅」(1958年、『中野重治全集 第二十三巻』筑摩書房 p.414)の例が出てきます。
「堀田さん、ちよつときてくださいよ。僕らのところにオーストラリアの御婦人がひとりいるんですよ。何ということもないことはないんですが、どうにも、間がもたないんだ。郭さんは英語ができるらしいんですが、話すとなるとらくに行かぬらしいんですよ。頼みます、掘田さん……」(原典で確認)
三好十郎や岸田國士よりも若干遅れますが、まあ、「間が持たない」も、かなり前から使われています。

次に、文法的に考えます。「持てない」の肯定形「持てる」は、『日本国語大辞典』に〈保たれる。維持できる〉と説明されています。『浮世床』(1813-23年)に〈此上に飲ぢゃア身は持(モテ)ねへ〉とある「持ねへ」は、ちょうど「間が持てない」の「持てない」と同じ用法です。

ところが、「身が持てない」は、また「身が持たない」とも言います。ごくふつうの使いかたです。「持つ(保つ)」は、これも『日本国語大辞典』の語釈では〈長くその状態が継続される。維持される。保たれる〉だから、「身が持てない」「身が持たない」いずれも意味は通ります(歴史的な新古はともかく)。

「間が持てない」と「間が持たない」の関係も、これと同じです。「間が持てない」は「間が保たれない、間が維持できない」ということ、「間が持たない」は「間が維持されない、保たれない」ということであって、ニュアンスは違うけれど、両方とも理屈は通ります。世論調査では〈することや話題がなくなって、時間をもて余すこと〉をどう言うかを尋ねていますから、どちらを答えても「誤り」ではありません。

手元の小説の資料を見ると、作家の世代によって差があるのは事実です。戦後に活躍した作家はずっと「間が持てない」を使っていますが、「間が持たない」も徐々に現れます。上記の中野重治の例のほかには、野坂昭如(1930年生まれ)の長編『エロ事師たち』(1963年)にも見え、若い世代の村上春樹(1949年生まれ)、町田康(1962年生まれ)、三浦しをん(1976年生まれ)といった人々の作品にもあります。

世論調査では、さらに若い世代でこの傾向が強まっているという、おもしろい結果が現れています。それを単なる正誤の観点でまとめてしまっては、内容が浅くなります。

国語辞典の記述はどうかというと、私のたずさわる『三省堂国語辞典』を含め、「間が持てない」のみを載せる辞書が大部分です。これは、「間が持たない」を誤用と考えるからではなくて、この語形を見落としたり、軽視したりした結果と言うべきです。こうした中で、『明鏡国語辞典』は、新形の「間が持たない」のほうだけを載せているのは、現代語の辞書としてきわめて妥当です。

『明鏡』がせっかく「間が持たない」を載せても、報道でこれを「誤り」としてしまっては、辞書の利用者は混乱するでしょう。「なぜ『誤用』のほうを載せるんだ?」と『明鏡』の編集部に批判が殺到していないことを祈ります。くどいようですが、報道のしかたのほうが短絡的なのです。

参考文章:「「愛想を振りまく」は使われないか
posted by Yeemar at 08:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

文章の書き方

今回は宣伝めいた文章です。

「文章の書き方」の本を、これまでに2冊出しました。1冊は2年前、もう1冊は今月の刊行です。
A 『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー)
B 『伝わる文章の書き方教室』(ちくまプリマー新書)
いっぱしの文章家気取りか、と言われると心苦しい限りです。私は格別、文章家でも名文家でもありません。ただ、「こう書けば論理の通った文章になる」「こう書けば分かりやすい文章になる」ということを、筋道を立てて説明する自信はあります。簡単な原理を守って書きさえすれば、誰にでも、最低限の論理性と明快さを備えた文章が書けます。そのことを説明しました。

それにしても、「簡単な原理」を説明するために、2冊も本を書く必要があるのだろうか、という疑問は、当然生まれます。簡単な説明なら、1冊ですむはずです。

ただ、この2冊が扱う文章は、それぞれちょっと違います。テーマが微妙に違うので、やはり、別々の本で論じる必要があります。

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Aの『非論理的な……』では、論理的な文章を書くための方法を説明しています。この本を書くに当たって、私が特に念頭に置いたのは、大学生のレポートや論文です。

私自身、大学生の頃、レポートを書くのには苦労していました。「レポート・論文の書き方」といった本は読んだし、文章構成をどうするか、資料をどう集めるか、参考文献をどう示すか、などということは分かりました。それでも、レポート・論文と呼ばれる文章の本質については、まだよく理解できませんでした。「あっ、要するにこういうことか」と分かったのは、大学卒業後、ずいぶん経ってからのことでした。「こういうことか」と気づいた文章の根本原理を、できるだけていねいに、単純明快に説明しようとしたのが、Aの本です。

Aの本は、幸いにも、予想外の好評をいただきました。高校や大学などで文章指導に当たっている方々、あるいは、文筆にたずさわる方々などから、激賞とも言えるご評価をいただいたことは、著者冥利に尽きました。自分の考え方が間違っていないと認めてもらえることほど、うれしいことはありません。中には、「当たり前のことしか書いていないじゃないか」という批判もありましたが、これも、ある意味ではほめことばです。何しろ、「あとがき」で断ってあるように、私はそもそも「当たり前」のことを書こうとしたのですから。「当たり前」のことが分からないからこそ、(学生時代の私を含め)みんな困っているのです。

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Bの『伝わる文章の書き方教室』は、論理的な文章にとどまらず、およそ文章を書くときに必要な、「伝える」という目的を達する方法を説明しています。文章を書く目的は何かというと、これはほぼ例外なく、ものごとを読み手に伝えることです。ところが、肝心の「伝える」という機能が果たされていない文章が少なくありません。そのような文章をどう書き換えれば伝わるようになるか、というところに話をしぼって書きました。

などと言うと、実に大まじめな感じです。でも、私はむしろ、読者に楽しんでほしいと思って書きました。

この本は、ゲームふうの「例題」の連続で進んでいます。例題を解きながら、文章のコツを会得してもらおうとしています。

例題とは、たとえばこういうものです。ある小説の一節を、「い」の音を使わずに書き換えてみる。あるいは、漢語(漢字を音読みすることば)を一切使わない文章に書き換えてみる、などなど。ほかにも、ことば遊びふうの例題を多く用意しています。

「ことば遊びなんかやりたくないよ、それがどうして『伝わる文章』の話につながるのだ?」と言われそうです。でも、ちゃんとつながりますから、心配しないでください。本書は、「ゲーム感覚で楽しみながら、伝わる文章が書けるようになる」ことをねらって書いています。さっそくお寄せいただいた感想の中には、「実用書であるとともに実に楽しい読み物となっている」というおほめのことばもあって、まさしくそのつもりで書いた私としては、ありがたいことでした。

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レポート・論文に追われる学生諸君はAの本を、楽しみながら、達意の文章が書けるようになりたいと思う方はBの本を、どうぞご覧ください。


posted by Yeemar at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月10日

昔は「がんばれ」を「しっかり」と言った(か)

再び、NHK「みんなでニホンGO!」についての話です。2010.08.05の放送では、「がんばれ」という励ましのことばが取り上げられました。「がんばれ」と励まされると、プレッシャーを感じて、必ずしもうれしくないというのです。

この回のディレクターの方からも、私はちょっとだけ電話取材を受けました。また、以前書いた「「頑張れ」の支持率」も参考にしていただいたそうです(番組の内容にかなり近いことが書いてあります)。ただ、私の話は、結局番組では取り上げられずに終わりました。残念。

上記の文章に書かなかったことで、私が話したのは、「昔はあまり『がんばれ、がんばれ』とは言わなかった」ということでした。

もちろん、戦前だって、かの「前畑がんばれ、前畑がんばれ」(1936年のベルリンオリンピックの中継放送、河西三省アナウンサー)のアナウンスが知られるとおり、「がんばれ」と応援していました。でも、それは、スポーツなど、闘志を持って行動している人にかけることばだったと思います。

「がんばれ」と言わないとすれば、何と言ったかというと、「しっかり」です。昔は、やわらかい調子で「しっかり!」と励ましていたのが、いつしか、強い調子の「がんばれ!」が広がってきました。結果的に、「しっかり!」と言えばすむところにまで「がんばれ!」を使うことになり、言われてつらい思いをする人も増えたのでしょう。

「しっかり」という励ましは、今ではあまり聞かなくなりましたが、昔は使っていました。たとえば、獅子文六『悦ちゃん』(1937年作品)では、主人公の悦ちゃん(柳悦子)が、近所の教会で童謡を歌う場面で、友だちから「しっかり」「がんばれ」という声援が飛びます。
 悦ちゃんは、ノコノコ、壇へ上って行った。/「しっかりやってえ、柳さアーン!」/「ガンばれえ、悦ちゃアん!」/ キワ子さんとチヨ子さんが、黄色い声を張り上げると、それを合図のように、方々から声がかかった。悦ちゃんを知らない子供が大勢だのに、口真似{くちまね}をして、/ 「悦ちゃアん!」/ 「悦ちゃアん!」と、ものすごい声援である。(角川文庫 p.347-348)
ここでは「しっかり」と「がんばれ」が並んで使われています。

明治から終戦後にかけての小学校の国定読本(第1期〜第6期)を見ていくと、次のような使われ方をしています。「しっかり」がやや優勢です。
 第2期 1910 明治43〜 しっかり1
 第3期 1918 大正 7〜 しっかり2
 第4期 1933 昭和 8〜 しっかり1 がんばる1
 第5期 1941 昭和16〜 しっかり2 がんばる1
 第6期 1947 昭和22〜 しっかり2 がんばる1
国定読本では、スポーツの応援場面でも「しっかり」が使われます。
ボク ハ、一生ケンメイ ニ 走リマシタ。/「シッカリ。」/「早ク、早ク。」/オウヱン ノ コヱ モ、ゴチャゴチャ ニ ナッテ 聞エマス。(4期2-2「四 カケッコ」)

ぼくたちは、コートへでていった。/たかやま先生が、/「しっかりやれ。」/と、元気づけてくださった。/「ピー。」/と、用意のふえが鳴った。(6期4-1「五 作文(ドッジボール大会)」)
一方、「がんばる」はどうかというと、山登りでへばっている友だちに「がんばれ」と言ったり、戦場の塹壕で〈一週間もがんばりつづけましたが〉のように使ったりしています。「しっかり」よりも過酷な感じです。

佐々木邦「わんぱく時代」(1932年作品)では、相撲を取る場面で、「がんばれ」は使われず、「しっかり」が使われます。
「よしよし」/「今度は負けない」/「何だ? このヒョロ/\が」/ と九鬼君も一生懸命だった。/「稲垣君{いながきくん}、しっかり!」/「しっかりしっかり!」/ と王供君{おうともくん}と別所君{べっしょくん}と大西君{おおにしくん}が応援してくれた。/「坊ちゃんさま、坊ちゃんさま、おしっかり」/ と神戸さんは大声を立てた。行司のくせにひいきをする。僕は九鬼君を土俵際へ押しつめた。(『佐々木邦全集』第14巻(講談社)p.170)
今だったら、こんな時に「しっかり」とは絶対言わず、「がんばれ」しかないと思います(なお「おしっかり」はわざとです)。

「しっかり」が似合うのは女性です。小津安二郎監督の映画「麦秋」(1951年松竹)では、「しっかり」の使われる場面が2か所あります(以下の引用、松竹ホームビデオによる)。
間宮康一(笠智衆) とにかく終戦後、女がエチケットを悪用して、ますますずうずうしくなってきつつあることだけは確かだね。
間宮紀子(原節子) そんなことない。これでやっと普通になってきたの。今まで男がずうずうしすぎたのよ。
間宮史子(三宅邦子) しっかりしっかり。ふふふ。
 …………
田村アヤ(淡島千景) 幸福なんて何さ。単なる楽しい予想じゃないの。競馬に行く前の晩みたいなもんよ。あしたはこれとこれとこれ買って、大穴が出たら何買おうなんて、一人でわくわくしてるようなもんよ。
高梨マリ(志賀眞津子) 違う。〔未婚者にはそんなこと言う〕権利なし。
安田高子(井川邦子) 権利なし。
アヤ あんた何さ。
間宮紀子(原節子) 〔アヤに〕しっかりしっかり
こういうときに、当時の女性はあまり「がんばれ」とは言わなかっただろう、「しっかり」がふつうだったろう、というのが私の見方です。

「がんばれ」は命令形なので、「何をがんばればいいのか?」と反発する気持ちも出てきます。一方、「しっかり」は、「土台がゆるがないように」「気をつけて」というような意味なので、反発する気持ちも起こりません。この点は、「しっかり」の長所です。このことばが使われなくなったのは、もったいないことです。

「がんばれ」と言われて傷つく人に対しては、「しっかりね」と言ってはどうでしょう。今の感覚に合うことばとして、推薦しておきます。

関連文章=「「頑張れ」の支持率

posted by Yeemar at 18:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする