2011年09月18日

「どうも!にほんご講座です。」の冒険


私で務まるのか?

2011年4月から半年間、NHK Eテレの「どうも!にほんご講座です。」の講師を務めました。外国人学習者のための日本語講座です。本放送が土曜日の午前5時5分から、再放送が翌週金曜日深夜の12時半からという、あまり視聴率の見込めない放送時間帯でした。ただ、それだけに冒険もできました。桜金造さん扮するそば屋の主人とその一家が巻き起こす小事件を扱いながら、日本の古いコントのフレーズや、芸能人の名言などを紹介するという、なんとも変わった番組が誕生しました。放送がもう少しで終わるのを期に、この番組を総括しておきます。

最初、講師の話をいただいたとき、「私で務まるのか」と驚きました。私は、日本語研究者、国語辞典編纂者であって、日本語教育の専門家ではありません。大学で外国人学生対象の日本語クラスを持ってはいますが、それは上級者を対象にしたものです。初級・中級者といった、外国語を学ぶ途上にある人に対する教授法を知りません。私が日本語講座を担当するなんて、魚の缶詰工場の工員が漁に出るとか、SF作家がロケットの乗組員になるとか、そのくらいの違和感があります。日本語教育の専門家が知ったら激怒するのではないか。

でも、テレビで自分のことばで語る機会が得られる、というのは魅力的です。「ともかく、走りながら考えよう」と腹を決めて、話をお受けしました。

話を受けてから、「そうは言っても、知識が不足していてはまずいだろう」と思い、日本語教育関連の本を改めて読みました。教授法のDVDも取り寄せて視聴しました。そうやっていくつかを読んだり見たりしたものの、途中でやめてしまいました。「どうやら、これらの内容は、テレビの語学番組にはあまり関係がない」と考えたからです。

放送講座は対面教育ではない

日本語教育に限らず、世にごまんと出ている外国語教育のための本は、言うまでもなく、対面教育を前提にしています。生徒と向かい合って、動詞の活用を教えたり、発音を指導したりするためのものです。それらを教える際、どういうところに気をつけたらいいかということが、すなわち日本語(外国語)教授法です。

ところが、放送による語学講座(放送講座)では、講師は学習者と対面していません。「ああ、そういう言い方はしませんよ」「その発音では分かりません。もう一度」「すばらしい。最初よりずいぶんよくなりました」などと声をかけることはできません。対面教育のように、フィードバック(軌道修正のための助言)を与えたり、上達度を評価してモチベーション(やる気)を高めたり、ということは不可能です。これは、一般的な語学教育の指導方法が、放送では通用しないことを意味します。

放送講座にはまた、決定的な制約があります。それは放送時間です。NHKの語学テキストのうちどれでもいいので、巻末か巻頭に載っている「語学講座放送時刻表」を見てください。放送時間が一番長い番組でも、テレビなら週1回25分、ラジオなら週4回15分です。想像してほしいのですが、あなたが語学学校に通うとして、週イチで25分間教室に座っているだけで、外国語が上達すると思うでしょうか。ほとんど絶望的です。今回の番組の場合、なんと週イチで15分間の放送です。一般的な日本語教授法によるかぎり、どんなに優秀な教師だって、これだけの時間で学習者のレベルを大きく上げることは困難です。

放送講座で必要なこと

では、立場を変えて、自分が放送講座で学ぶとしたら、番組に何を求めるかを考えてみましょう。私はこれまで、NHKラジオの語学講座にはたいへんお世話になりました。中学の時の「基礎英語」から始まって、「中国語講座」「ハングル講座」「ロシア語講座」あたりまで手を出しました。ドイツ語やフランス語もちょっとはやってみました。放送講座で最もありがたかったのは、「ネイティブのゆっくりした発音が聴ける」ということでした。講師の人には悪いのですが、あまりに細かい文法説明などはどうでもよかったのです。「いいスキット(短いドラマや会話)の提供」。私が放送講座に求めるものはこれでした。

ラジオでの私の学習法は、ざっと以下のようです。第1、「スキットのゆっくりした発音を聞く」。第2、「そのとおりに自分も繰り返す」。第3、「日本語訳を参照しながら意味を取る」。第4、「スキットを暗記する」……これだけ。要するに、「聴いて、覚える」の繰り返しです。だから、放送時間は20分(昔は今よりちょっと長かった)でも、繰り返し聴いて覚えるためには、何時間もかかりました。

放送講座では、学習者自身が先生役を務めなければなりません。スキットが覚えられなければ「もう少しがんばろう」と自ら励ましたり、スキットがやや長いと思う日は「この部分だけ覚えればいいことにしよう」とハードルを下げたりします。分からないことがあれば、人に質問もできないので、自分なりに「こうだろう」と納得できるまで調べるしかありません。「独習」というのは、そういうことです。語学の独習は、基本的に、苦難の道のりなのです。

放送講座の講師が生徒と対面できない以上は、やるべきことの第一番は、いい素材の提供です。「この文章を覚えてみたい」「こういうことばを使ってみたい」と学習者が思うような魅力的な素材が提供できれば、その講座は、責任のかなりの部分を果たしたと言えるでしょう。

余談になりますが、魅力的な素材ということであれば、必ずしも放送講座や語学CDのスキットに限ることはありません。外国の映画やドラマ、音楽を繰り返し聴いて覚えるのも、語学力の向上のためにはたいへん有効です。などと言ってしまっては、NHKには悪いのですが……。

学習の原動力を提供

さて、「どうも!にほんご講座です。」をどうするか。週イチ15分では、一般的な日本語教授法が通用しないことは、すでに述べました。初回に「私、○○と申します」を教え、それから1週間も経って「これは何ですか」を教えるといった調子では、学習者のやる気は下がりまくりです。また、対面教育なら、何人かが15分間「私、○○と申します」と自己紹介しあうだけでも間が持ちますが、放送では、延々それだけを流すわけにもいきません。

ここは、「セサミストリート」方式で行こうと考えました。「セサミ」は、かつてNHK教育テレビで放送されたアメリカの子ども番組です。せりふはふつうの英語で、吹き替えなし(後には副音声がついた)。日本の子どもには、話の内容はほとんど分からないはずですが、大人気の番組でした。私もよく見ており、「なんだか分からないが、英語はおもしろそうだ」ということは分かったのです。

「どうも!にほんご」も、「日本語はおもしろそうだ」と感じてもらうことに徹しよう。スタッフとの話し合いでは、この点を強調し、賛同を得ました。スキットの日本語をやさしくするという配慮はするけれども、出演者の自由会話は、別に語彙を制限したりせず、ふつうに話してもらうことにしました。初級学習者で、日本語がよく分からなくても、「なんだかおもしろそう」と興味を感じさえすれば、それが学習を続けるための原動力になります。番組は、その原動力を提供しようと考えました。

自分がおもしろいと思うことをやる

では、どういう方法をとれば、おもしろさを感じてもらえるのでしょうか。これは、正直なところ、分かりません。おもしろさの感覚は人によります。千差万別の学習者が、一致しておもしろがるような内容にすることは不可能です。「こうすればウケるのではないか」などと、実感もないまま、学習者の好みを想像しながら番組を作ることはできません。

となれば、方法はひとつです。自分がおもしろいと思うことをやるしかありません。

私が提案したのは、「日本語のおもしろフレーズを紹介しましょう」ということでした。日本には昔から、「アーノネオッサン、ワシャカナワンヨ」(高勢實乗)だの、「地球の上に朝が来る」(川田義雄)だのといった、変なフレーズ(ギャグフレーズとも言う)がたくさんあります。以上は戦前のものですが、戦後になると、「こりゃまた失礼いたしました」(植木等)とか、「飛びます、飛びます」(坂上二郎)とか、「次行ってみよう、次」(いかりや長介)とか、有名なフレーズが次々に生まれました。おもしろフレーズに限らなくとも、「ふつうの女の子に戻りたい」(キャンディーズ)、「ぼくは死にません」(武田鉄矢)、「同情するなら金をくれ」(安達祐実)など、メディアから生まれた名ぜりふは無数にあります。これらを織りこんだスキットを作るというのはどう?

「なぜ、そんなフレーズを?」――それは、私自身が好きだから、としか言いようがありません。私自身が、クレージーキャッツのコントが好きで、ドリフターズの番組をよく見ていて、キャンディーズのファンだから、というのが理由です。流行したフレーズは、いずれも、日本語の音のおもしろさや表現のおもしろさを備えていて、ついついまねして使いたくなります。いや、そうした実用性を離れても、「ことばというものはおもしろい」ということを表現する材料として、私がまず取り上げたいのは、こうしたフレーズなのです。日本の詩歌や小説の一節を紹介してもいいわけですが、それは別番組の「にほんごであそぼ」に任せます。私は、私のおもしろいと思うことをやる。いかがでしょう。

放送開始

放送は、4月2日から24回の予定で始まりました。内容は、大きく分けて、5つのコーナーからなります。

まず、桜金造さんのそば屋一家のスキット。短いコメディーで、毎回、往年の名フレーズのひとつが物語のポイントになります。たとえば、「こりゃまた失礼いたしました」の回では、金造さんが、植木等の「お呼びでない」のギャグを再現します。

次に、2人のアニメキャラが登場し、語法の解説をします。「失礼」ということばにはどういう使いかたがあるか、といった具合です。

3番目に、和服姿の私が畳の部屋に座り、名フレーズの流行した当時の背景について語ります。私の要望で、このコーナーにも要所にギャグを入れてもらいました。

4番目に、「にほんご紙芝居」のコーナー。外国人の解答者を前に、私が、こんどは紙芝居屋の格好をして、日本語に関するクイズを出します。素材には、主に、私が街の中で撮影してきた写真を使います。アシスタントは、タレントのもりまいさん(森下まいさん)です。

最後に、VTR映像で、日本で働いている外国人に「仕事で出合った日本語」について語ってもらいます。

これで15分。短い時間に、盛りだくさんな内容です。私としては、昔の「ウゴウゴルーガ」の雰囲気もちょっとあるのではないかと思います。

ツイッターやブログの反応は

心配なのは、視聴者の反応です。外国人学習者がブログやツイッターを使って、「日本語で」番組の感想を書くことはむずかしいため、今のところ、彼らの反応を知ることはできません(NHKには声が寄せられているかもしれません)。私に分かるのは、(本来の対象ではない)日本人視聴者の反応です。これらを見るかぎり、私のねらいは、まあまあ成功したと考えています。

反応は大きく2つに分かれました。ひとつは、「学び初めの外国人にはむずかしい内容ではないか」ということです。これは覚悟していました。「セサミストリート」のように、内容の理解よりも、まず言語のシャワーを浴びせることを目的としているのですから、少々むずかしくてもやむをえません。

もうひとつは、「日本語講座とは思えないフレーズを教えている」。それはそうです。何しろ、コントなどのフレーズを教えるのですから。このことについては、「非常識で、よくない」という反応はごく少なく、「意外で、おもしろい」という反応が多いようです。週の番組のタイトル(フレーズが載っている)に興味を引かれて番組を見た人も少なくないようでした。

「ふつうの女の子に戻りたい」の回では、ツイッターに「こんな特殊なフレーズ、使っている人は3人しか見たことがない」という趣旨の意見が出ました。つまり、キャンディーズの3人だけ、というわけ。そのとおりですが、この回では「〜たい」の言い方を学習しています。キャンディーズの名ぜりふをきっかけに、希望表現のいろいろを覚えてもらおうという、なかなか手のこんだことをやっているつもりです。

問題提起は果たした

私の見た範囲は、あくまでブログやツイッターに限られますが、「不まじめだ」とか「つまらない」という反応はまずなく、むしろ強い興味を示してくれたものが多かったことは幸いでした。

語学の独習は苦難の道のりだと述べました。その苦しさを乗り越えさせるのは、「この言語はおもしろい」と感じる学習者の気持ちです。放送講座では、何よりもまず、その気持ちを持ってもらうことが肝心です。おもしろい素材にもいろいろありますが、私の「好み」から言えば、それはコントなどのフレーズだったということです。

日本語教育の方法論から言えば、邪道のそしりもあるかもしれません。でも、「自分が学習者だったら何を望むか」を突きつめて考えた結果として、放送講座のひとつのありかたを示したつもりです。問題提起の役割は果たすことができたでしょう。

この番組は、今年度下半期も同じくEテレで再放送されることが決まっています。放送時間は上半期と同じで、土曜日の午前5時5分からと、翌週金曜日深夜の12時半から。再放送のほうが視聴しやすいと思います。関心のおありのかたは、どうか、ぜひご覧ください。
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2006年02月22日

子どもの生まれる予定を聞く

夏目漱石「行人」(1912-1913発表)の中に、思わず「およしなさいよ」と言いたくなる場面が出て来ます。主人公の「自分」が、お兼さんという人と話をしています。このお兼さんは、「自分」の母方の遠縁に当る岡田という男の奥さんです。

「自分」は、雑談のついでに「奥さん、子供が欲しかありませんか」と尋ねます。お兼さんは「そうでも御座いませんわ」と否定し、「窓の外の方を眺め」たりして、あまりこの話題が楽しくはなさそうです。ところが、「自分」はなおもその話題を続けます。
自分は何{なん}にも気が付かなかった。それで又「奥さんは何故{なぜ}子供が出来ないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心易{こころやす}だてで云ったことが、甚{はなは}だ面白くない結果を引き起したのを後悔した。(新潮文庫 1952年発行 2005年95刷 p.17)
この「行人」という作品の主題は、無理にひとことで言えば、「他人の心は分かろうとしても結局分からない」ということです。また、この「自分」は、兄から「軽薄児」と呼ばれるほどの男として描かれています。だからといって、この察しのなさは常識はずれです。

岡田とお兼さんは、結婚してから「かれこれもう五六年近く」経ちます。岡田は先に、「どうも子供が出来ないんでね、どういうものか」と「自分」にもらしています。「自分」のせりふは、それを踏まえてのものです。しかし、当事者が分からないものを、「なぜ子どもができないんでしょう」と聞いたって、分かりっこない理屈です。今日の目から見れば、立ち入りすぎた質問ですが、「自分」のように繊細さに欠ける人は、当時は多かったのでしょうか。

「当時は」と書きましたが、「行人」のせりふほど直接的でないにせよ、似たような質問は今日でも聞かれます。「朝日新聞」2004.10.06 p.27に載った、主婦の友社「赤ちゃんが欲しい 特大号 No.21」広告には次のようにありました。
赤ちゃんはまだなの?
「子どもがいないと、遊んでいられていいね」
ちょっとした挨拶程度のつもりでも、決して悪気はなくても、傷ついている女性やカップルが数多くいることを知ってください。
子どものない夫婦が、周囲の無理解なことばに胸を痛めることがあるのは、「行人」のお兼さんのころと同様でしょう。ただ、「子どもの生まれる予定を無遠慮に聞くものではない」という考え方は、昔より今のほうが、より広く浸透しているのではないかと思います。上に引用した広告の文章も、この考え方を広めるのに一役買っているはずです。

子どもの生まれる予定を聞くことをよいと考えるか、悪いと考えるかは、国民性によっても異なるかもしれません。アガサ・クリスティーの小説「春にして君を離れ」に興味深い場面があります。主人公のイギリス夫人は、旅の途中、あるロシア女性と一緒になります。その女性は主人公に対し、「ロシア人にはごく自然に思われる質問も、〔イギリス人には〕出過ぎているとお思いになるんでしょうね」と話しかけます。
「〔略〕新婚怱々のイギリス人の奥さまに、『赤ちゃんはいつ?』と伺うことすら、以てのほかなんですもの。つまり、昼食会なんかで、食卓の向い側の人に気軽に訊くわけにはいかないってことですの。訊きたければ人目のない所で、そっと訊く、そうするほかありませんのね。でもいったん赤ちゃんが生れて揺りかごにおさまっていれば、『赤ちゃんはお元気?』って訊いても、いっこう差し支えありませんのにね」(アガサ・クリスリティー・中村妙子訳『春にして君を離れ』ハヤカワ文庫 1973.03.31発行 1995.12.15 32刷 p.239)
ロシア人にとって「赤ちゃんはいつ?」と聞くことは、人前ですら自然なのに、イギリス人にとっては抵抗がある、というのです。イギリス人、ロシア人といってもさまざまな人がいるのは当然ですが、少なくとも、執筆当時、クリスティーの頭の中では、そのように図式化されていたのでしょう。

現代の日本では、「人の気持ちを傷つけないように、話は慎重にすべきだ」という考えに立った意見が、多く聞かれます。たとえば、「「頑張れ」ということばは、かえって相手をつらくすることもあるので、乱発することは避けるべきだ」という主張がよくなされます(このことは「「頑張れ」の支持率」で触れました)。「子どもはまだか、と聞かれた側のつらさ」について訴える文章も、あちこちで目にします(残念ながら、まだ手元の例は多くありませんが)。「行人」の「自分」が、もし現代に生まれていたら、はたしてあのような質問をしたでしょうか。
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2006年01月09日

話を始めるには手間がかかる2

話を始めるには手間がかかる」の続きです。

すでに触れたように、夏目漱石の「それから」では、弟が兄に借金を申し込むまでに、面倒な手順を踏んでいました。「いつ話をするかを決める」「うなぎ屋に入る」「お銚子を2、3本空にする」という前置きが必要でした。これよりもずっとややこしい手順を踏む例が、やはり漱石の「行人」にありました。

「行人」の第4章にあたる「塵労」では、ある土曜日の午後、主人公の「自分」の所に、父から電話がかかってきます。
「明日の朝一寸行くが好いかい」
「へえ」
「差支があるかい」
「いえ別に……」
「じゃ待ってて呉れ、好いだろうね。さようなら」(新潮文庫 1993年81刷改版、2005年95刷 p.285)
父は電話でこれしか言わず、「自分」にはいったい何の用事かさえ分かりません。仕方なく、自宅で早起きして待っていると、父はなかなか来ず、ようやく10時ごろに羽織袴でやって来ます。

それからすぐ用談が始まるのかというと、そうは行きません。父は主人公を上野に連れ出します。2人は表慶館(美術館)に入ります。父は展示品に関するさまざまな講釈を聞かせてばかりいて、ほかの話をしません。

それから洋食屋に入ります。その席でいよいよ話が始まるのかと思ったら、父はなおも世間話を続けるだけです。〈用談らしい改まったものは、珈琲{コーヒー}を飲むまで遂{つい}に彼の口に上{のぼ}らなかった〉のです。

ついに帰り道となり、「自分」の家へ行く道と実家へ行く道との分岐点に来ました。ここで父は〈まあ好いから宅{うち}まで御出{おいで}〉と「自分」を誘います。それならば、わざわざ上野まで連れ出したりせずに、昨日の電話で「家に来なさい」と呼びつければいいようなものです。しかし、父は直接的に命令することを避けた、または「自分」に拒まれることをおそれたのでしょう。

さて、「自分」を連れて実家に戻り、そこでようやく父は何か話を始めるのかというと、いっこうにその気配がありません。「自分」は父や母、兄嫁、それに妹とともに雑談をするしかありません。

ところが、その後、主人公が妹の部屋に寄り、ふたたび座敷に戻ってくると、父と母とが差し向かいで何か話をしています。よくよく尋ねてみると、主人公の兄の精神状態が悪く、陰鬱な性格がどんどんひどくなっていくというのです。主人公はしばらくその話を聞き、
自分は父や母と相談の揚句、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼等〔=父母〕が自分達の手際{てぎわ}では到底{とても}駄目{だめ}だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好{よ}かろうと発議{ほつぎ}して二人の賛成を得た。然しその頼み役には是非とも自分が立たなければ済まなかった。(p.299)
と、問題解決のために一肌脱ぐ事になります。このあたりで、時間は夕方5時近くになっています。

要するに、父の希望は何かというと、「兄の機嫌をよくするため、弟である主人公に協力してほしい」ということでした。そのことを、昨日の電話でも言わず、美術館でも、昼食の席でも言わず、実家に連れて帰ってからも、とうとう直接的には頼み事をせず、主人公自身に解決策を提案させるように導いたのです。

べつに父が小細工を弄した、とはいえないでしょう。むしろ、父は主人公との間に角を立てないように、立てないように考えて行動したのだろうと思います。あるいは、直接的に頼み事をする度胸がなかったため、自然に以上のような手順を踏むことになったのだろうと思います。これは日本人ならではの頼み方と言ってもよいでしょうか、どうでしょうか。
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2006年01月08日

「さようなら」の意味

NHK教育テレビの「わくわく授業・わたしの教え方特別編・恋心を三十一文字に」(2006.01.06 19:00放送、本放送は2005.04.24)を見ました。島根県松江市立第一中学校の国語教諭・桔梗亜紀さんの授業を取り上げた番組です(番組ホームページ)。

桔梗さんは、生徒に匿名で恋を詠んだ短歌を書かせ、他の生徒に、それに対する返歌を書かせるという授業を行っています。つまり、相聞歌を贈り合う授業です。

冒頭で、以前の生徒が作った作品が紹介されていました。
帰り道あなたに言われたさようなら明日も会うのになぜか切ない
という歌に対して、
「さようなら」やっと言えたよこの言葉明日の学校とても楽しみ
という返歌が寄せられたそうです(ホームページ「2001年十二月 万葉・古今・新古今発展」)。

私は、この2首の歌は、発言の意味が人によっていろいろに解釈されることを示す分かりやすい例だと思いました。

歌の意味は明らかです。ある女の子が、日ごろ気になっている男の子から「さようなら」と言われ、切ない気持ちになった。しかし、男の子のほうとしては、じつは彼女にことばがかけたくて、やっとの思いで「さようなら」と言ったのです。つまり、女の子にとっては、「さようなら」は相手が離れていくときのことばだったのですが、男の子にとっては、相手に近づこうとする意図をこめたことばでした。

「さようなら」というたった一言について、男の子と女の子がまったく反対の感じを抱いているところにおもしろさを感じます。われわれが互いにことばを交わすときは、たった一言のあいさつをめぐってさえ、双方が別々の感じを抱くことがよく分かります。まして、2人がデートに行って1日を過ごし、さまざまな会話を交わすとき、そこには、誤解だとすぐ分かるもの以外に、意識されない無数の誤解が起こっているに違いありません。

もともと、恋歌は、1つのことばの意味を二様に変えてやりとりするところに妙味があります。大げさに言えば、コミュニケーション・ギャップを巧みに取り入れた詩歌だと言うこともできます。ただ、古代の相聞歌の多くは、答えるほうが贈り手のことばをわざとねじまげて返すことがしばしばです。技巧に傾きすぎるきらいがあります。

番組で紹介された中学生の作品は、そのような技巧的なものではありません。「さようなら」の返歌を詠んだ男の子の場合、相手と自分との間に生まれた意味の違いに気づいて、「ああ、そういうつもりではなかったんだよ」と素朴に答えている感じがあります。本来なら誤解に気づかずに終わったかもしれないのに、授業で相聞歌を作ったことで、運良く誤解が解けたのではないでしょうか。
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2006年01月07日

「人は見た目」についての誤解

『人は見た目が9割』(竹内一郎著、新潮新書)という本が評判になっていると聞きます。この本の実際の内容はともかく、書名が一人歩きしているのではないかと、私は危惧を感じています。

実を言うと、私はまだこの本を読んでおらず、書評を行う資格はありません。ただ、タイトルが衝撃的であるため、内容のいかんにかかわらず、「そうか、人は見た目が9割であって、ことばの重要度は1割にしかすぎないのか」と誤解する人が多いだろうということについては、一言しておいていいのではないかと思います。

そう誤解する人がいる証拠はあるのか、と問われれば、「四国新聞」2006.01.06 p.1の「一日一言」欄を挙げましょう。ここにはこうあります。
見た目は重要だ。米国の心理学者アルバート・マレービアンの実験によると、人が他人から受け取る情報のうち、顔の表情が55%、声質や大きさなどが38%をそれぞれ占めるのに、話す言葉の内容は7%にすぎないらしい▲この結果を紹介した「人は見た目が九割〔ママ〕」(竹内一郎、新潮社)には、「ついついコミュニケーションの『主役』は言葉だと思われがちだが、それは大間違い」とまである。確かにそのようだ
新聞記者なら、もう少し裏を取って書くべきです。マレービアン(メラビアンとも、Albert Mehrabian)の調査は、ここに書かれているような主張を導くものではありません。

マレービアン・西田司他共訳『非言語コミュニケーション』(聖文社 1986)で示されているデータは、「表情と言葉が矛盾する場合」に、人は何から最もインパクトを受けるか、という調査の結果です。たとえば、以下は私が作った例ですが(※注)、こういうようなことです。あるとき、恋人がいかにも気のなさそうな声と表情で「愛しているよ」とあなたに言ったとします。これが、「表情と言葉が矛盾する」メッセージということです。こういうときであれば、だれだってことばより表情を信用するでしょう。

マレービアンらの調査は、訳書ではこうまとめられています。
  好意の総計=言葉による好意表現(7%)+声による好意表現(38%)+顔による好意表現(55%)
つまり、顔の表情のインパクトが最大で、次が声の調子(音声表現)、最後が言葉となっている。(『非言語コミュニケーション』p.96)
注意していただきたいのは、「他人から受け取る情報のうち、顔の表情が55%」とは決して書いていないということです。ここでは、あくまで、「好意を示すメッセージに矛盾がある場合」についてしか述べていません。

マレービアンは、この「好意の総計」をさらに一般化して「感情の総計」も「言葉」7%、「声」38%、「顔」55%と置き換えています。これはたとえば、仕事を探している人がどれだけ熱心であるかについて、採用者は、ことばよりも声の調子や表情から判断することが多いということです。

ところが、これを「人は見た目が9割」とまとめてしまうと、いろいろな間違いを引き起こします。「今度大勢の前でプレゼンテーションをすることになった。内容はほとんど準備ができていないが、堂々とした表情・口調で話せばごまかせるだろう」、または、「おれはじつは卑怯な性格なのだが、さいわい好男子に生まれついている。人は見た目が9割だから、うまく世の中を渡ってゆけるだろう」――これらは、真実かどうかは私には判定できませんが、少なくとも、マレービアンらはこういうことについては言及していません。

永江朗氏も、「朝日新聞」2005.12.04「ベストセラー解読」でこの新書を取り上げ、次のように注意を喚起しています。
 ところで、大前提になっている「7・38・55」は、「メラビアンの法則」として知られる。矛盾した情報に接したとき、言語・聴覚・視覚のうち何を優先するかを調べた実験だが、博士自身がこれは限られた場面についてだけのもの、とクギを刺していたはず
永江氏は、新書の著者に失礼にならないようにごく軽く触れているだけですが、マレービアンの「クギの差し方」は、次のようにはっきりしています。
 ところで、ここで注意すべきことが一つある。言葉によらないキューは、言葉と比べて、不釣合なほど大きな力を持っていると述べてきたが、それは感情(快感、覚醒、支配)と好意‐嫌悪とに限られていることである。言葉によらない表現の方が、常に言葉より重要であるとは言えないことは明らかである。事実、言葉の示す指示物を伝えることにおいては、言葉によらない表現手段はほとんど役に立たないのである(例えば、「明日の午後二時に会いましょう。」、「昨日は、ベロアの新しい背広を着ていました。」、「X+Y=Z」)。(訳書 p.101)
とすれば、内容のないプレゼンテーションをいくら自信たっぷりの表情で行っても、成功の保証はない、ということになります。ことばを軽んじるならば、きっとことばに逆襲されることになるでしょう。

※注(2015.05.09追記)
 原典には、短く要約できる適切な例がなかったので、ここでは私が原典の趣旨を酌んだ作例を出しています。ちなみに、原典から一例を引くと、こんな具合です。
〈 社交の場で、飲み物やコーヒーをこぼしたり、花瓶や電気スタンドを倒すなどの、失敗をしたことのある人は多いであろう。そのような場合に、連れの者や女主人{ホステス}が示す反応にはさまざまなものがあり得よう。親しい友人間では、時として、「ぶきっちょ」、「ぼけ」、「どじ」というような呼び声が、反応として、発せられることがある。しかしその場合、顔には笑みが浮かび、口調は怒っているようだが、親愛の情がこもっている。その言葉によるメッセージ、つまり悪態は、話者の嘆息と狼狽を表しているが、微笑と声の調子から、決して愛想をつかしたのではないことがわかる。そのような複雑なメッセージを言葉だけで伝えることは不可能ではないにしても、大変難しいことであろう。敢えて言えぱ、次のようになるであろう。「本当に困ったことをしてくれたものだ。お陰で気分が壊れてしまった。でもまあ嫌いになったわけじゃあないが……。」そんなことを言葉で表しても、せいぜい、白々しく響くだけであろうし、また、それを実行する人は少ないであろう。しかし、そのようなメッセージこそ健全なコミュニケーションの方法である、と主張する精神療法士{サイコセラピスト}もいないわけではない。〉(『非言語コミュニケーション』p.93)
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2006年01月01日

話を始めるには手間がかかる

「ちょっと話があるんですが、よろしいですか」「なんですか」「じつは……」と話が始まれば、ものごとは簡単に片が付きます。しかし、実際には、そう何でも簡単に行かないのが世の中というものです。

夏目漱石「それから」の中で、主人公代助が兄に借金を頼む場面があります。代助は、友人の妻である三千代が金に困っていることを知り、助けてやろうとしたのです。といっても、「兄さん、金を貸してください」「そうか」というようには話は進みません。

代助は、園遊会で会った兄に次のように話しかけます。
「兄さん、貴方{あなた}に少し話があるんだが。何時{いつ}か暇はありませんか」
「暇」と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑って見せた。
「明日{あした}の朝はどうです」
「明日の朝は浜まで行って来なくっちゃならない」(新潮文庫 1980.05.15 65刷 p.66)
としばらく問答があって、結局今晩にしようじゃないかと相談がまとまります。話の内容に入る以前に、まず「話をいつするか」が問題になります。

さて、兄弟はうなぎ屋に入って酒を飲み出します。
兄は飲んで、食って、世間話をすればその外に用はないと云う態度であった。代助も、うっかりすると、肝心の事件を忘れそうな勢であった。が下女が三本目の銚子を置いて行った時に、初めて用談に取り掛かった。(p.67)
このように、用談に取りかかるまでにはお銚子を2本は空にしなければなりません。うなぎ屋に入ってすぐ話に入るわけでもないのです。

留学生から、日本人は率直にものを言わない、言わずに相手に察してもらおうとする、という意見をもらったことがあります。むろん、人によりけりでしょうが、国民性としてそういう傾きはあるのかもしれません。そして、いざ率直にものを言おうとしても、そこに至る手続きに時間がかかります。まず特別な席を設けて、そこでしばらく雑談をしてから、用件に入るのです〔追記参照〕。

もっと極端な場合もあります。人に話をしたいとき、「話があります」とは言わず、たとえば「ゴルフに行きませんか」などと誘うことがあります。そして、思いっきりゴルフで汗をかいた後、「きょうは疲れましたな。どうです、そのへんで一杯」と酒の席に誘い、さんざん関係のない話をした挙げ句に、ころ合いを見て「じつは」と始める……。話を始めるまでに、ほぼ1日を費やすわけですが、めずらしいことではないでしょう。

このように説明すると、留学生は驚いていましたが、外国ではこのような話の切り出し方はまったくないのでしょうか。結婚の申し込みをするとき、まず映画に誘って1日を過ごしてから、帰りの喫茶店でおずおずと切り出す、ということは、日本人だけに限らないような気がしますが……

相手に相談があることをにおわせてから、実際に話を始めるまで、むやみに時間がかかるという小説は、ほかにどういうものがあるか、これについても興味があります。話を始める手間の最長記録を有するのは、どういう小説でしょうか。

(※「話を始めるには手間がかかる2」に続きます。)

追記
後に留学生に聞いてみると、頼み事の内容にもよるが、自分たちの国でも特別な席を設けることはあるとのこと。まあ、これくらいは、どこでも当たり前のことなのかもしれません。「日本人」に話を限らないほうがよさそうです。ただ、この文章の続編のような事例は、さすがに留学生の目から見ても異様のようです。(2006.01.31)
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2005年12月29日

大村崑さんの身振り手振り

NHKのBS2で「特集・あの日・昭和20年の記憶・集中アンコール」(2005.12.29 13:00放送)を見ました。多くの著名人が終戦時の体験を語る番組です。

この中で、終戦時に13歳だった俳優の大村崑さんの話し方には感心しました。地元神戸の進駐軍キャンプで米兵からパンや缶詰などをもらった体験を語ったのですが、身振り手振りがじつに真に迫っていて、その時の様子が手に取るように伝わってくるのです。

ことばだけを引用してもしかたがないのですが、まずは話の内容を読んでください。
大村 それから僕は最もうれしかったのは、僕だけに「お前ら、ほかの人間取るなよ」って(進駐軍の)兵隊さんが「お前だけだぞ」って言って、(交換品の)掛け軸を渡した僕に、(フェンスを)上からよじ登ってこんな缶詰落としてくれたんですよ。こんな大きな缶詰。国防色のにおいして……色の。ほんと、軍隊が使うやつ。英語がいっぱい書いてあって。それ持って帰って。おふくろが「それは毒入ってる」って言うんだけどね、「大丈夫だ」って言って、開けたら何が入ってたと思います? ソーセージが入ってた。このぐらい(親指大)の太いソーセージがこのぐらいの入れ物にぎっしり入って、オイルが上に載ってんですよ。で、ホークで、こう突いて、ぎゅーっと真ん中をすぽーっと出したら、六角形か七角形ぐらいな形、もうソーセージが両脇から押さえられた(それが)すこーんと抜けるんですよ。それをこう、かーっと口へ持ってきて、鼻に感じた時のにおいがね、いまだに鮮明に覚えてる。食べた時に、「なんて、なんてこんなおいしいものがあるんだろう」って……。
こうして文章で紹介すると、話術の魅力はほとんど抜け落ちてしまいます。実際に崑さんが話す様子は、文章の何倍もおもしろく、少年の彼がもらったソーセージがいかにもうまそうに感じられました。

話をおもしろくしていたのは、彼の身振り手振りです。米兵が「ほかの人間は缶詰を取るなよ」と子どもたちに注意する場面では、彼は米兵になりきって目の前の子どもたちに人差し指を向けました。米兵がフェンスをよじ登る場面では、少年の自分に戻って高いところを見上げました。また、「こんな缶詰」と言う時には両手で赤ん坊の頭くらいの大きさを示し、さらに、ソーセージの缶詰を食べる場面では、缶を開ける手つき、フォークを突き刺す手つき、ぎゅうぎゅう詰めのソーセージを引き抜く手つき、そして口の所に持って来てかぶりつくしぐさをして見せました。これらの動きが、聞く側を話に引き込むのです。

もちろん、崑さんはことばによって、缶詰の大きさがどうであったか、色はどうかといったことから、中のソーセージの形状や油の様子まで、細かく描写しています。これだけでも大した話術であり、聞き手はかなりはっきりとしたイメージを受け取ることができます。

しかし、ことばには限界があります。崑少年のその時の様子を映画のように写し取ることは簡単ではありません。ある種の小説のように、ある瞬間を何ページにもわたって描写すれば、映画の精密に多少は近づくかもしれませんが、それでも表現できない部分は多いでしょう。

身振りや手振り、そして声の調子や顔つきなどが、こういうことばの欠点を補います。崑さんは、こういった言語外のさまざまな表現手段を総動員することで、聞き手を60年前のソーセージの缶詰の前に拉し去ってしまいました。
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