調査には、〈本来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこにも書いてありません。価値判断は持ちこまずに、ことばの変化を調べています。それが、ニュースでは、「正しい言い方をしている人何パーセント」などと表現されます。調査の趣旨が単純化されて、「○×クイズ」になってしまうのです。
調査項目のうち、「間が持てない」「間が持たない」を取り上げましょう。これは、どちらが誤用とも言いがたいものです。報道では、〈慣用句でも「間が持てない」を6割以上が「間が持たない」と誤って理解していることが分かった〉(「MSN産経ニュース」2011.09.15)と説明していますが、さあ、はたして「誤って」なのでしょうか。
まず、歴史的にどうだったかをたどってみます。『日本国語大辞典』には「間が持てない」の用例は出ていないので、いつ頃から使われたことばか、よく分かりません(この辞書では、文献に用例のあることばは、その例を載せています)。私の調べた範囲では、漱石・鴎外も、芥川も、太宰も使っていません。もともと、古くからの慣用句というほどではなさそうな印象を受けます。
ウェブの「青空文庫」では、戦後の例が出てくるだけです。
・三芳 (間が持てないで)君の家でも皆さん元気だそうだ。(三好十郎「猿の図」〔1947年〕)私が検索したところでは、以上の2例が出てきました。
・これは舞台の上でも或る意味で、間を黙つてる人物の「間」がもてないといふことを救ふことにもなるけれども、(岸田國士「対話」〔1949-50年〕)
一方、「間が持たない」は「青空文庫」にはありません。「Googleブックス」で検索すると、中野重治(1902年生まれ)の「中国の旅」(1958年、『中野重治全集 第二十三巻』筑摩書房 p.414)の例が出てきます。
「堀田さん、ちよつときてくださいよ。僕らのところにオーストラリアの御婦人がひとりいるんですよ。何ということもないことはないんですが、どうにも、間がもたないんだ。郭さんは英語ができるらしいんですが、話すとなるとらくに行かぬらしいんですよ。頼みます、掘田さん……」(原典で確認)三好十郎や岸田國士よりも若干遅れますが、まあ、「間が持たない」も、かなり前から使われています。
次に、文法的に考えます。「持てない」の肯定形「持てる」は、『日本国語大辞典』に〈保たれる。維持できる〉と説明されています。『浮世床』(1813-23年)に〈此上に飲ぢゃア身は持(モテ)ねへ〉とある「持ねへ」は、ちょうど「間が持てない」の「持てない」と同じ用法です。
ところが、「身が持てない」は、また「身が持たない」とも言います。ごくふつうの使いかたです。「持つ(保つ)」は、これも『日本国語大辞典』の語釈では〈長くその状態が継続される。維持される。保たれる〉だから、「身が持てない」「身が持たない」いずれも意味は通ります(歴史的な新古はともかく)。
「間が持てない」と「間が持たない」の関係も、これと同じです。「間が持てない」は「間が保たれない、間が維持できない」ということ、「間が持たない」は「間が維持されない、保たれない」ということであって、ニュアンスは違うけれど、両方とも理屈は通ります。世論調査では〈することや話題がなくなって、時間をもて余すこと〉をどう言うかを尋ねていますから、どちらを答えても「誤り」ではありません。
手元の小説の資料を見ると、作家の世代によって差があるのは事実です。戦後に活躍した作家はずっと「間が持てない」を使っていますが、「間が持たない」も徐々に現れます。上記の中野重治の例のほかには、野坂昭如(1930年生まれ)の長編『エロ事師たち』(1963年)にも見え、若い世代の村上春樹(1949年生まれ)、町田康(1962年生まれ)、三浦しをん(1976年生まれ)といった人々の作品にもあります。
世論調査では、さらに若い世代でこの傾向が強まっているという、おもしろい結果が現れています。それを単なる正誤の観点でまとめてしまっては、内容が浅くなります。
国語辞典の記述はどうかというと、私のたずさわる『三省堂国語辞典』を含め、「間が持てない」のみを載せる辞書が大部分です。これは、「間が持たない」を誤用と考えるからではなくて、この語形を見落としたり、軽視したりした結果と言うべきです。こうした中で、『明鏡国語辞典』は、新形の「間が持たない」のほうだけを載せているのは、現代語の辞書としてきわめて妥当です。
『明鏡』がせっかく「間が持たない」を載せても、報道でこれを「誤り」としてしまっては、辞書の利用者は混乱するでしょう。「なぜ『誤用』のほうを載せるんだ?」と『明鏡』の編集部に批判が殺到していないことを祈ります。くどいようですが、報道のしかたのほうが短絡的なのです。
参考文章:「「愛想を振りまく」は使われないか」