2011年09月17日

○×式のことば報道はよくない ――「間が持てない」と「間が持たない」

文化庁の平成22年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されました。この調査については、「いったいどれほどの税金をつぎこんでいるのだろう」という個人的な疑念はありますが、それは置いておきます。ことばの変化や、人々の意識の変化について、有益な情報が含まれていることは確かです。ところが、メディアは、これを単なる「正しいことば遣い調査」ととらえているふしがあります。

調査には、〈本来の言い方〉と、新しい言い方のどちらを使うか、という設問はありますが、「こちらが正しい言い方」とはどこにも書いてありません。価値判断は持ちこまずに、ことばの変化を調べています。それが、ニュースでは、「正しい言い方をしている人何パーセント」などと表現されます。調査の趣旨が単純化されて、「○×クイズ」になってしまうのです。

調査項目のうち、「間が持てない」「間が持たない」を取り上げましょう。これは、どちらが誤用とも言いがたいものです。報道では、〈慣用句でも「間が持てない」を6割以上が「間が持たない」と誤って理解していることが分かった〉(「MSN産経ニュース」2011.09.15)と説明していますが、さあ、はたして「誤って」なのでしょうか。

まず、歴史的にどうだったかをたどってみます。『日本国語大辞典』には「間が持てない」の用例は出ていないので、いつ頃から使われたことばか、よく分かりません(この辞書では、文献に用例のあることばは、その例を載せています)。私の調べた範囲では、漱石・鴎外も、芥川も、太宰も使っていません。もともと、古くからの慣用句というほどではなさそうな印象を受けます。

ウェブの「青空文庫」では、戦後の例が出てくるだけです。
・三芳 (間が持てないで)君の家でも皆さん元気だそうだ。(三好十郎「猿の図」〔1947年〕)
・これは舞台の上でも或る意味で、間を黙つてる人物の「間」がもてないといふことを救ふことにもなるけれども、(岸田國士「対話」〔1949-50年〕)
私が検索したところでは、以上の2例が出てきました。

一方、「間が持たない」は「青空文庫」にはありません。「Googleブックス」で検索すると、中野重治(1902年生まれ)の「中国の旅」(1958年、『中野重治全集 第二十三巻』筑摩書房 p.414)の例が出てきます。
「堀田さん、ちよつときてくださいよ。僕らのところにオーストラリアの御婦人がひとりいるんですよ。何ということもないことはないんですが、どうにも、間がもたないんだ。郭さんは英語ができるらしいんですが、話すとなるとらくに行かぬらしいんですよ。頼みます、掘田さん……」(原典で確認)
三好十郎や岸田國士よりも若干遅れますが、まあ、「間が持たない」も、かなり前から使われています。

次に、文法的に考えます。「持てない」の肯定形「持てる」は、『日本国語大辞典』に〈保たれる。維持できる〉と説明されています。『浮世床』(1813-23年)に〈此上に飲ぢゃア身は持(モテ)ねへ〉とある「持ねへ」は、ちょうど「間が持てない」の「持てない」と同じ用法です。

ところが、「身が持てない」は、また「身が持たない」とも言います。ごくふつうの使いかたです。「持つ(保つ)」は、これも『日本国語大辞典』の語釈では〈長くその状態が継続される。維持される。保たれる〉だから、「身が持てない」「身が持たない」いずれも意味は通ります(歴史的な新古はともかく)。

「間が持てない」と「間が持たない」の関係も、これと同じです。「間が持てない」は「間が保たれない、間が維持できない」ということ、「間が持たない」は「間が維持されない、保たれない」ということであって、ニュアンスは違うけれど、両方とも理屈は通ります。世論調査では〈することや話題がなくなって、時間をもて余すこと〉をどう言うかを尋ねていますから、どちらを答えても「誤り」ではありません。

手元の小説の資料を見ると、作家の世代によって差があるのは事実です。戦後に活躍した作家はずっと「間が持てない」を使っていますが、「間が持たない」も徐々に現れます。上記の中野重治の例のほかには、野坂昭如(1930年生まれ)の長編『エロ事師たち』(1963年)にも見え、若い世代の村上春樹(1949年生まれ)、町田康(1962年生まれ)、三浦しをん(1976年生まれ)といった人々の作品にもあります。

世論調査では、さらに若い世代でこの傾向が強まっているという、おもしろい結果が現れています。それを単なる正誤の観点でまとめてしまっては、内容が浅くなります。

国語辞典の記述はどうかというと、私のたずさわる『三省堂国語辞典』を含め、「間が持てない」のみを載せる辞書が大部分です。これは、「間が持たない」を誤用と考えるからではなくて、この語形を見落としたり、軽視したりした結果と言うべきです。こうした中で、『明鏡国語辞典』は、新形の「間が持たない」のほうだけを載せているのは、現代語の辞書としてきわめて妥当です。

『明鏡』がせっかく「間が持たない」を載せても、報道でこれを「誤り」としてしまっては、辞書の利用者は混乱するでしょう。「なぜ『誤用』のほうを載せるんだ?」と『明鏡』の編集部に批判が殺到していないことを祈ります。くどいようですが、報道のしかたのほうが短絡的なのです。

参考文章:「「愛想を振りまく」は使われないか
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2010年08月10日

昔は「がんばれ」を「しっかり」と言った(か)

再び、NHK「みんなでニホンGO!」についての話です。2010.08.05の放送では、「がんばれ」という励ましのことばが取り上げられました。「がんばれ」と励まされると、プレッシャーを感じて、必ずしもうれしくないというのです。

この回のディレクターの方からも、私はちょっとだけ電話取材を受けました。また、以前書いた「「頑張れ」の支持率」も参考にしていただいたそうです(番組の内容にかなり近いことが書いてあります)。ただ、私の話は、結局番組では取り上げられずに終わりました。残念。

上記の文章に書かなかったことで、私が話したのは、「昔はあまり『がんばれ、がんばれ』とは言わなかった」ということでした。

もちろん、戦前だって、かの「前畑がんばれ、前畑がんばれ」(1936年のベルリンオリンピックの中継放送、河西三省アナウンサー)のアナウンスが知られるとおり、「がんばれ」と応援していました。でも、それは、スポーツなど、闘志を持って行動している人にかけることばだったと思います。

「がんばれ」と言わないとすれば、何と言ったかというと、「しっかり」です。昔は、やわらかい調子で「しっかり!」と励ましていたのが、いつしか、強い調子の「がんばれ!」が広がってきました。結果的に、「しっかり!」と言えばすむところにまで「がんばれ!」を使うことになり、言われてつらい思いをする人も増えたのでしょう。

「しっかり」という励ましは、今ではあまり聞かなくなりましたが、昔は使っていました。たとえば、獅子文六『悦ちゃん』(1937年作品)では、主人公の悦ちゃん(柳悦子)が、近所の教会で童謡を歌う場面で、友だちから「しっかり」「がんばれ」という声援が飛びます。
 悦ちゃんは、ノコノコ、壇へ上って行った。/「しっかりやってえ、柳さアーン!」/「ガンばれえ、悦ちゃアん!」/ キワ子さんとチヨ子さんが、黄色い声を張り上げると、それを合図のように、方々から声がかかった。悦ちゃんを知らない子供が大勢だのに、口真似{くちまね}をして、/ 「悦ちゃアん!」/ 「悦ちゃアん!」と、ものすごい声援である。(角川文庫 p.347-348)
ここでは「しっかり」と「がんばれ」が並んで使われています。

明治から終戦後にかけての小学校の国定読本(第1期〜第6期)を見ていくと、次のような使われ方をしています。「しっかり」がやや優勢です。
 第2期 1910 明治43〜 しっかり1
 第3期 1918 大正 7〜 しっかり2
 第4期 1933 昭和 8〜 しっかり1 がんばる1
 第5期 1941 昭和16〜 しっかり2 がんばる1
 第6期 1947 昭和22〜 しっかり2 がんばる1
国定読本では、スポーツの応援場面でも「しっかり」が使われます。
ボク ハ、一生ケンメイ ニ 走リマシタ。/「シッカリ。」/「早ク、早ク。」/オウヱン ノ コヱ モ、ゴチャゴチャ ニ ナッテ 聞エマス。(4期2-2「四 カケッコ」)

ぼくたちは、コートへでていった。/たかやま先生が、/「しっかりやれ。」/と、元気づけてくださった。/「ピー。」/と、用意のふえが鳴った。(6期4-1「五 作文(ドッジボール大会)」)
一方、「がんばる」はどうかというと、山登りでへばっている友だちに「がんばれ」と言ったり、戦場の塹壕で〈一週間もがんばりつづけましたが〉のように使ったりしています。「しっかり」よりも過酷な感じです。

佐々木邦「わんぱく時代」(1932年作品)では、相撲を取る場面で、「がんばれ」は使われず、「しっかり」が使われます。
「よしよし」/「今度は負けない」/「何だ? このヒョロ/\が」/ と九鬼君も一生懸命だった。/「稲垣君{いながきくん}、しっかり!」/「しっかりしっかり!」/ と王供君{おうともくん}と別所君{べっしょくん}と大西君{おおにしくん}が応援してくれた。/「坊ちゃんさま、坊ちゃんさま、おしっかり」/ と神戸さんは大声を立てた。行司のくせにひいきをする。僕は九鬼君を土俵際へ押しつめた。(『佐々木邦全集』第14巻(講談社)p.170)
今だったら、こんな時に「しっかり」とは絶対言わず、「がんばれ」しかないと思います(なお「おしっかり」はわざとです)。

「しっかり」が似合うのは女性です。小津安二郎監督の映画「麦秋」(1951年松竹)では、「しっかり」の使われる場面が2か所あります(以下の引用、松竹ホームビデオによる)。
間宮康一(笠智衆) とにかく終戦後、女がエチケットを悪用して、ますますずうずうしくなってきつつあることだけは確かだね。
間宮紀子(原節子) そんなことない。これでやっと普通になってきたの。今まで男がずうずうしすぎたのよ。
間宮史子(三宅邦子) しっかりしっかり。ふふふ。
 …………
田村アヤ(淡島千景) 幸福なんて何さ。単なる楽しい予想じゃないの。競馬に行く前の晩みたいなもんよ。あしたはこれとこれとこれ買って、大穴が出たら何買おうなんて、一人でわくわくしてるようなもんよ。
高梨マリ(志賀眞津子) 違う。〔未婚者にはそんなこと言う〕権利なし。
安田高子(井川邦子) 権利なし。
アヤ あんた何さ。
間宮紀子(原節子) 〔アヤに〕しっかりしっかり
こういうときに、当時の女性はあまり「がんばれ」とは言わなかっただろう、「しっかり」がふつうだったろう、というのが私の見方です。

「がんばれ」は命令形なので、「何をがんばればいいのか?」と反発する気持ちも出てきます。一方、「しっかり」は、「土台がゆるがないように」「気をつけて」というような意味なので、反発する気持ちも起こりません。この点は、「しっかり」の長所です。このことばが使われなくなったのは、もったいないことです。

「がんばれ」と言われて傷つく人に対しては、「しっかりね」と言ってはどうでしょう。今の感覚に合うことばとして、推薦しておきます。

関連文章=「「頑張れ」の支持率

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2008年10月19日

「推量する」の意の「積もる」は使うか

『三省堂国語辞典』の「積もる」には、「雪が積もる」と言うときの意味などとともに、〈考える。思いはかる。〉という意味が載っています。初版以来、この記述があり、前身に当たる『明解国語辞典』にも載っているので、えんえん引き継がれてきた語釈と言えます。

でも、私は、「考える」とか「思いはかる」とかいう意味で「積もる」を使いません。もちろん、「○○するつもり」と、名詞形の形では使いますが、動詞形では、自分も使わないし、現代語での例を見たこともありません。

ほかの辞書を引いてみると、『大辞林』第3版や『広辞苑』第6版には江戸時代の例が出ています。『日本国語大辞典』第2版も江戸時代の例(4例)です。どうも、古い使い方ではないかと考えられます。『学研国語大辞典』第2版には、泉鏡花「照葉狂言」(1896年)および樋口一葉「われから」(1896年)の例が引いてありますが、近代の例としてもだいぶ早いものです。「われから」の例を以下に引いておきます。
どういふ様子どのやうな事をいふて行{ゆ}きましたかとも問ひたけれど悋気男{りんきをとこ}と忖度{つも}らるるも口惜{くちを}しく、(新潮文庫『にごりえ・たけくらべ』p.159による)
また、小型辞書を見ると、『明鏡国語辞典』初版が〈「悋気{りんき}男と―・らるるも口惜しく〈一葉〉」〉と、「われから」の例を載せています。典拠を示しているということは、古い使い方であることを示唆しているようです。『旺文社国語辞典』は、以前の版ではこの意味を載せていましたが、最新の第10版にはありません。『新選国語辞典』第8版・『集英社国語辞典』第2版などにもありません。

こう見てくると、現代語として「積もる」を「推量する」の意味で使うことはなくなっているのではないかと思われてきます。

ところが、『学研現代新国語辞典』改訂第4版には、〈おしはかる。〉という意味が記されていて、次のように口語文の例が出ています。
「けちな奴{やつ}と―・られるのもくやしい」
これは、いったいどこから採集した用例でしょうか。もし、現代語としてこのような例があるならば、「積もる」の「推量する」の意味を辞書から削るべきではありません。でも、どうも、これは作例らしく思われます。というのも、上に示した「われから」の一節と酷似しているからです(『学研現代新国語辞典』のもとになった『学研国語大辞典』に「われから」の例が引いてあることからもそう思われます)。

はっきりしたことが分からないため、安易な批評はできませんが、もし『学研現代新国語辞典』の例が作例ならば、誤解を与える不適切な例です。「われから」の文章が分かりにくいため、口語文に差し替えたということかもしれませんが、それが現代語の実例であるような印象を与えかねません。

私は、辞書の例文として実例でなく作例を用いる場合には、よほど慎重にしなければならないと考えます。「○○ということばを使って短文を作りなさい」という問題は、国語の授業でもよく出ます。ごく当たり前の例文を作ったつもりが、あとで考えると、そんな言い方はしない、ということはよくあるものです。実際に確かに用いられた例があり、しかも、簡潔でだれにでも分かりやすい文を選ぶことも、辞書作りに求められることの一つだと考えます。

さて、「推量する」の意味の「積もる」ですが、もろもろの辞書を調査した結果からは、現代語ではあまり使われなさそうだ、という感触が強くなりました。まだ断定したわけではなく、しばらく注意をしてみたいと思います。
ラベル:推量 積もる
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2008年04月13日

「号泣」の「誤用」成立まで

三省堂辞書サイトでの連載に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、
(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。
この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。

「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。

声を上げない「号泣」については、早くは、橋本五郎監修・読売新聞新日本語取材班『乱れているか? テレビの言葉』(中公新書ラクレ 2004)p.26で触れられています(元の新聞記事は2003.10.09 夕刊 p.18)。
ワイドショーなどでは、過剰な表現のタイトルを多用することが多い。「遺族号泣」「アジト潜入」「極秘入籍発覚」――。大げさな言葉で視聴者の目を引こうとする姿勢がのぞいている。
と記し、かつまた、フジテレビの生活情報局では「号泣」「潜入」などの誇大表現を避けるよう指示するようになったとつけ加えています。ここでは、「号泣」は誇大表現という扱いです。

ネット上でも、早くから指摘されています。
 ずっと前から不愉快に思ってたんだけどさ、「号泣」って表現ね。あれ、どうにかしろよ!>テレビ局/〔略〕/ 言葉の意味ぐらいは知ってて使ってるんだろうけど、いくらテレビ欄を見る人の注意をひきたいからといってもさ、視聴率を稼ぎたいからといってもさ、いつもいつもその表現だと、そのうち「涙が出るか出ないかくらいの泣き方」が「号泣」って意味になっちまうよ。(ブログ「雑草譚」2004.07.29〔元は2004.04.11〕)
これも「誇大表現をやめよ」という趣旨ですが、それだけでなく、誤用を誘う可能性も示唆しています。

私は、先の『乱れているか? テレビの言葉』は、刊行されてすぐに読みましたが、単に「誇大表現」の話と受け取り、「号泣」の意味の変化につながるものとは考えませんでした。想像力に欠けるというべきです。

私自身が首をかしげた最初の例は、「ウィキペディア」の文章でした。「NHK紅白歌合戦」(2006.01.02 06:36の版。気づいたのは同年9月)に、次のようにありました。
〔1984年の「紅白」で〕最後には、〔引退する〕都はるみの代表曲「好きになった人」が歌われた(都本人は号泣して殆ど歌えず、他の歌手達が都を囲んで合唱)。
私はこの「紅白」を見ていますが、都はるみは、「さけび泣くだけで、歌にならなかった」わけではなく、涙で声がつまったのです。ここで「号泣」というのは、誇大表現というよりは、話を変えてしまうと思いました。

「号泣」にいっそう注意するようになったのは、週刊誌で次の例を見てからでした。
〔覚醒剤で逮捕されたミュージシャンの裁判で、被告人は〕情状証人として父親が出廷すると、下を向いて泣き始め、弟まで出廷すると大号泣に。(「週刊朝日」2006.12.29 p.42)
これは法廷内のことですから、もし被告が大声を上げて泣きだしたら、裁判の進行はストップです。これは涙をたくさん流したということだろうと思われます。

テレビの例は、ワイドショーをあまり見ないので遅れましたが、ようやく採集しました。
〔字幕〕夕張市取材でみのもんた号泣、善人面する薄っぺらなマスコミ報道(MX東京テレビ「談志・陳平の言いたい放だい」2007.01.21 6:00)
みのもんたさんが、財政再建団体となった夕張市の窮状に同情の涙を流したということと思われます。声を上げて泣いては、放送ができないはずです。

こういった具合で、いくつか例を集めました。とはいえ、どの例も、その部分だけを読めば、単なる「誇大表現」か、それとも「誤用」か、分かりにくいものです。だれが見ても声を上げていないことが明白な文で、「号泣」と言っている例があればいいと思いました。

その例は、新聞連載まんがの西原理恵子「毎日かあさん」にありました。
〔母の私が公園で酔っぱらいと〕だらだら話してたらば 〔そばでブランコをこぐ〕娘にとっては 〔ひとこぎするたび〕ものすごい 怖いおっさんが 10秒に一回 眼前にやってくるわけで/30分後に声を止めて号泣してる娘を発見/〔娘発言〕女の子なんだから あんな怖い人に 近よせないでっ いい人かもしれない けど好きになれ るもんじゃないのっ(「毎日新聞」2007.09.16 p.21)
「声を止めて号泣」とあるので、これは確実に声を上げていない「号泣」の例です。しかも、多数の人の目に触れる新聞に載った例であり、これで「号泣」の誤用は一応証明されました。この例は、画像とともに、上記の三省堂辞書サイトでも紹介しました。画像の掲載許可は、編集部から西原さんに頼んでいただきました。

このほか、いくつかの例をもとに、この用法は、『三省堂国語辞典』第6版に無事(?)載りました。

最後に、最近の例から、明らかに〈大いに なみだを流す〉場合を、もう一つ挙げておきます。
〔千原ジュニア〕〔バイク事故の〕後遺症で、涙腺が狭窄してですね、その涙嚢というまあ涙が溜まるところがつながってないんですよ。たとえばしゃべっていたりその温度なんか変わるとこっちから涙出てくるんですよ。だからうどん食べたらふつうはなが出ますよね。僕、涙、あのうどん食べたら号泣ですよ。(日本テレビ「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2008.02.01 20:00)
「うどんを食べると、はな水の代わりに涙が出る」というのですから、ここは声を上げるかどうかは問題にしていない例です。
ラベル:号泣
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2008年04月12日

辞書に載せるべきか「後期高齢者」

4月から「後期高齢者医療制度」(長寿医療制度)が施行され、「後期高齢者」なる用語がにわかに注目されました。私の理解では、この制度は75歳以上の人が年金から保険料を天引きされるものです(全国平均で月額約6,000円=「朝日新聞」2007.11.27 p.1)。介護保険料とあわせて1万円以上が年金から差し引かれるため、「史上最悪の国家犯罪」(「サンデー毎日」2008.04.20 p.20)などと最大級の表現で批判されています。

制度が決まったころには、それほど批判の論調がなく、今になって批判が高まったことに違和感はあります。ただ、私自身が「後期高齢者」であれば、こういう制度はありがたくないので、賛成か反対か投票せよと言われれば、反対票を入れるでしょう。

「後期高齢者」という呼び名についても、たしかに「人生の終わりが近い」というニュアンスが感じられて、いかにも無神経です。もともとは老人学などの用語でしたが、それを役所がそのまま制度の名前に使ったのはよくありません。また、「長寿医療制度」という「通称」も、実態をごまかすという意見に説得力があります。

NHKニュースを聞いていると、どちらの名称も避けていました。
七十五歳以上の高齢者を対象に、今月から始まった医療制度で、新しい保険証が届いていない人が、六万三千人あまりに上ることが、厚生労働省の調べで分かりました。〔略〕新しい医療制度は、七十五歳以上の高齢者を対象に、今月一日から始まったもので、〔略〕おととい現在で、新しい制度の対象となる千三百万人のうち、〔略〕(NHK「ニュース7」2008.04.11 19:00)
という具合です。新聞では両者併記ですが、朝日・読売・産経・東京・日経が「後期高齢者」を先に、毎日が「長寿」を先にしているようでした(違う場合もあるかもしれません)。

さて、この「後期高齢者」ということばですが、辞書に載せるべきだろうか、と考えます。考えるも何も、すでに『広辞苑』には第5版(1998年)から見出しに立っています。小型の『三省堂国語辞典』でも、第5版(2001年)から、「高齢者」の項目に「前期高齢者・後期高齢者」という言い方を示してあります。ただ、これは老人学などの用語として載せているものです。今、さかんに使われているのは、いわば「役所発」の官製語です。私としては――これは偏見を含みますが――役所発のことばというのは、品がない、実態をごまかす、などの点で、あまり辞書に載ってほしくないものが多いのです。「後期高齢者」「長寿医療制度」などは、さしずめその代表です。

厳密な官製語というのとは違いますが、『三省堂国語辞典』では、第5版に「ロト」「ミニロト」「ナンバーズ」が載っていました。宝くじの名称であり、くじの「胴元」は地方自治体です。宝くじとは役所がかけごとを推奨するものと思っている私は、このネーミングを片腹痛く思っていました。第6版では、結局、「項目としては細かすぎる」という理由で削除されました。第6版には「トト」(サッカーくじ)が残っていますが、これも売り上げが伸びず、存在意義に疑問が投げかけられています。次回の改訂までに制度が消滅してくれればいい、と思っています。

「後期高齢者」も、これらと同じで、そういう制度ができたからといって辞書に載せるのは、役所のお先棒を担ぐようでおもしろくありません。でも、おもしろかろうがなかろうが、ことばが定着してしまえば、それは現代語の一部ですから、中立的に行こうと思えば載せるしかありません。たとえば、こんな感じになるでしょうか。
こう き[後期](名)……――こうれいしゃ[後期高齢者](名)〔行政などで〕七十五歳以上の人を呼ぶ言い方。「―医療(イリョウ)制度〔=年金から一定の保険料をとる、七十五歳以上の人の医療制度。長寿(チョウジュ)医療制度〕」(←→前期高齢者)
ここには、この名称がいかがわしいとか、この制度に批判があるとかいう説明は一切省かれます。それが辞書というものだからです。

辞書に載せなくてよい場合があるとすれば、それは、制度や名称が変更になった場合です。問題点が明らかになり、この制度・名称が変更を迫られることになれば、「後期高齢者」は辞書の見出しに立てる必要がなくなります。私はそのことをひそかに願っています。
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2008年04月10日

福田首相の「過分な期待」

「Yahoo!みんなの政治」というサイトで、福田康夫首相についての評価を見ていたら、なるほどと思う書き込みがありました。
「過分な期待」って
日本語の使い方が間違っているんじゃないか。/我々が年金問題の解決を期待することは「過分」なのか。/要するに、そんなことを国民が期待するのは/「分不相応」と言いたいのか。単に国語能力の低さを/露呈しただけならともかく、ここには政治家の本音が/ハッキリと見える。実に不快だ。思い上がるな!!(投稿日時:2008年4月8日 9時35分
年金記録問題を2008年3月までに解決するかのような公約を唱えたことについて、福田首相が陳謝したというニュースを受けての書き込みです。『毎日新聞』2008.04.08によれば、その発言は以下の通りです。
 福田康夫首相 昨夏、「(今年)3月までに年金記録問題を全面的に解決する」という誤解を与える表現、説明もあったと思う。誤解を与えた、過分な期待を持たせたという意味でおわびしないといけない。
私は、このニュースを読み流してしまい、「過分な」には引っかかりませんでした。しかし、『三省堂国語辞典』第6版では、「過分」は〈地位・能力・労力に相当した程度を こえること。〔けんそんして、自分には すぎた、という意味で使われることが多い〕「―な おことば・―の謝礼」〉〈〔昔、殿様(トノサマ)などが〕ありがたいと思うときに言った ことば。「―に思うぞ」〉とあります。「過分な期待」は、たしかに、〈そんなことを国民が期待するのは「分不相応」〉というニュアンスが入ってしまいます。この書き込みの主は語感が鋭い、私はぼんやりしていた、と思いました。

報道では、この「過分」を聞きとがめるものはまだ目にしていません。記者が頭の中で「過度の」に訂正したのかもしれません。しかし、たとえ言い誤りにしても、たしかに失礼になるのは事実なので、囲み記事ででも指摘してはどうでしょう。

福田首相の発言といえば、私が気づいたのは、4月9日の党首討論で、国会運営について述べたことばです。
〔福田康夫首相〕〔ねじれ国会の運営を、民主党の〕だれとお話をすればですね、信用できるのか。そのこともですね、ひとつぜひお示し、教えていただきたい。たいへん苦労してるんですよ。かわいそうなくらい苦労してるんですよ。(NHK「ニュース7」2008.04.09)
この「かわいそう」の主体が分かりません。首相自身でしょうか。

ふつう、「かわいそう」は他人について使うことばです。『三省堂国語辞典』からまた引けば、〈気の毒に思って、何かしてやりたくなる・ようす(気持ち)。あわれ。〉ということになります。これを自分自身に使って、「ぼくはかわいそう」などと言うと、なんだか自己陶酔的な、情けない感じがします。首相のことばとも思えません。「自分をかわいそうとは何ごと」などという批判記事が出てもいいところです。

これが、たとえば、国対委員長かだれかを指してでもいるのであれば、「彼ははたで見ていてかわいそうなくらいだ」という意味になり、思いやりのある首相という感じが出ます。でも、そういうわけでもないようです。

首相として毎日いろいろなところで発言していれば、この程度の言い損ないはあって当然なのか。それとも、政権が危険水域(これは『三省堂国語辞典』第6版で載ったことば)に入ったため、発言が荒れているのか。それは私には分かりません。
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2008年04月09日

「身につまされる」のあいまいな用例

「身につまされる」という句が、意味があいまいなまま使われることがあるようです。辞書の説明が分かりにくいのも混乱の一因かもしれません。ネット上では、2002.04.29に「Navi」氏が次のように指摘しています。
〔「心身が弱った状態で老人問題特集を見ていると身につまされる」という使い方は正しいかどうか〕先ほど辞書をひいてみた。〔『三省堂国語辞典』では〕「自分にくらべてあわれに感じる」だって? 微妙に自信が無かったとはいえ、これはちょっと納得できない。慌てて『広辞苑』もチェック。〔略。「人ごとでなく感じられて、哀れに思われる」の説明を引き〕おぉ、これだよこれ、「人ごとでなく感じられて」。間違いではなかったか。よかったよかった。(そいとごえす・近況雑談
たしかに、『三省堂』の説明は不十分で、「自分にくらべてあわれに感じる」は舌足らずです。「自分の身に引きくらべて〔=当てはめて〕あわれに感じる」というのを圧縮しすぎて、分かりにくくなっています。次回の改訂では再考すべきです。「自分のことのようで あわれに感じる」としてもいいでしょう。

私にとって、「身につまされる」の典型的な使い方は、たとえばこうです。
或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。(太宰治「如是我聞」)
『斜陽』は没落貴族を描いた小説なので、宮様は、まるで自分のことのようで、登場人物に同情したということでしょう。

さて、「身につまされる」の意味をこのように確認したあとで、実際の用例を検討してみると、どうも分かりにくいものが多くあります。古いほうから挙げます。
私がSF作家になるに至ったのは、実に私が、SFの描くいろんな災難、ウイルスで地球が死滅するとか、放射能でゴキブリが巨大化するとか、そういう話をひとつも、ウソや、といって笑いとばすことができず、全部身につまされたからである。(中島梓『にんげん動物園』角川書店 1981.11.30初版 p.150)
フィクションに描かれた災害が「人ごとでなく」感じられた、ということでしょう。「身につまされる」の意味に一部は重なりますが、「あわれに思う」という意味はここには含まれていません。自分も大災害に遭遇した経験があって、それで、巨大ゴキブリに襲われた登場人物に同情した、というわけでもなさそうです。違和感の残る表現です。
〔アンケートで、「なりたい人物」としてイチローを選んだことについて〕「同級生なので、自分との差が激しいから」(31)
 と身につまされている人もいる。(『週刊文春』2005.11.10 p.48)
この例では、べつにイチローをあわれに思っているわけではありません。イチローが活躍している一方、自分はぱっとしないなあ、と残念に思っているのです。「自分の身を省みてはずかしく思う」ということでしょう。なお、この文では「同級生」の使い方も注意を引きます。

次の例もアンケートに関する文章です。
 現時点でのわが家の位置づけを尋ねると、七七・五%が〈中流〉と答えた。なるほど、まだかろうじて「一億総中流」の神話は残っているようだが、〈下流〉が一八・八%を占めていることが気にかかる。
 十八歳の子どもを持つ親といえば、おそらく四十代半ばから後半にかけて。「親が幸せに生きているように見えますか?」の設問に〈NO〉と答えた子どもが三二・二%にのぼっていることも合わせて、これらの設問への回答は、むしろ親の世代にとって身につまされるだろう。〔重松清〕(『週刊文春』2006.05.18 p.142)
アンケート結果を読んで、だれか他人をあわれに思うというのはへんなので、これも、「人ごとでなく思う」ということでしょう。

『週刊文春』の例ばかりたまたま続きますが、次も同じ雑誌の例です。
「〔事故を起こして〕入院中に先輩たちから愛情を注がれるなかで、今まで笑いの伝え方が不親切だったなと気づかされた。お客さんに対する愛がなかったんじゃないかと身につまされました
 と千原ジュニアさん(33)は語る。(「週刊文春」2008.04.10 p.121)
先輩たちから親切にしてもらったことで、自分を反省したというのです。ここでは、だれかの話を自分自身に引き比べてみたというわけではありません。ここまで来ると、先の太宰治の例とはかなり距離が生まれています。

以上の「身につまされる」のそれぞれの例は、互いに一致する部分としない部分があります。それぞれの例は、散発的なものか、一定の勢力を持っているのか、よく分かりません。また、手元の用例がなぜか『週刊文春』にかたよっているのも不満です。なおしばらく用例を集めてみたいことばです。
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2008年03月22日

「イケメン」検証はありがたい

TBSのバラエティ番組「ご起源さん!」(2008.03.21 18:55)を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「イケメン」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。

番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発祥について、ゲイ雑誌「バディ」からとの説があったが、編集部の証言で否定された。最終的には、ギャル雑誌「エッグ」(egg)の元編集者・矢野智子さんが初めて使ったとされ、本人もインタビューで認めた。1999.01の誌面で「ねえ、ひろゆきクン、前回のイケメン見てどう思った?」とある。これは「クリクリ矢ぬの イケてるメンズ」というコーナーの略称。したがって、本来は「いけてる」と「メンズ」の合成語ということになる――

有意義な取材だったと思います。俗語の発祥については、この「イケメン」に限らず諸説ある場合が多いのですが、それを具体的に実証しようとすると、なかなかむずかしいものがあります。この番組のように、突撃取材で関係者のインタビューまで取ってもらえると、(その検証過程が正当であれば)有力な資料になります。

この「イケメン」の語源については、これまでのところ、学術的に最も頼れるのは米川明彦編『日本俗語大辞典』(東京堂)の次の記述です。
いけメン[名](「いけてるメン」の略で、英語 men と「面」をかけたもの)かっこいい男(達)。「イケメン」と表記する。
ただし、この〈men と「面」をかけたもの〉と判断した根拠は示してありません。この記述がなぜ頼れるかというと、編者がきわめて実証的な研究者だからで、いわば編者の信用に基づいているのです。

『大辞林』第3版も、この説を踏襲しています。引用しますと、〔若者語。「いけてる(=かっこいい)」の略に「面」あるいは「メン(men)」をつけたものといわれる〕というふうに、伝聞の「といわれる」をつけています。

『三省堂国語辞典』第6版も、通説を踏襲して、以下のような語釈になりました。
イケ メン(名)〔俗〕外見の かっこいい男。いい男。〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕
辞書の見出しは、和語はひらがなで、外来語はカタカナで表記するので、もし「いけてるmen」なら「いけメン」、「いけてる面」なら「いけめん」となります。しかし、後半が「メン」だか「めん」だか分からないので、全体を一般的表記に従って「イケメン」としてあります。

今回の番組では、非常に助かることに、「イケメン」の発信源とされる雑誌の号数や誌面の様子まで教えてくれています。それで、この情報を元に追加調査をすることができます。この点で、じつにありがたい番組です。

ただし、語源の捉え方としては、やはり〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕のままでよいと考えます。というのも、「イケメン」ということばは、容姿を重視しています。現在では、このことばには「面」の意識はやはり入っているというべきだからです。「menまたは面」を「menおよび面」として、両方を積極的に認める道もあるでしょう。

ところで、番組中の私のインタビューというのは、「いけてる」の古い例についてでした。私は、ドラマで桃井かおりさんが30年も前に使った例(「男たちの旅路」1977年)があると証言したのですが(「いける、いかす、いけてる」参照)、番組でその裏を取ってくれました。ドラマのその場面が流され、また、元の脚本(山田太一)にそのせりふはないことが示されました。結論として、この「いけてる」は「桃井さんのアドリブだった」ということになりました。

さらには、桃井さん本人にインタビューを敢行したのには舌を巻きました。桃井さんいわく、「若者っぽいアドリブをかましたくて、〔性的な俗語の〕「いく」「いかない」〔に基づいて〕なんかちょっとかっこいいものを見たとき、『今いけてます』っていう意味だった」ということでした。
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2007年09月01日

誤用から?「活気的」

「かっきてき」と発音することばは、漢字で書けば「画期的」しかないように思われます。「一時代を画(かく)する」という意味です。何十年に一度というような発明は「画期的な発明」です。

ところが、もうひとつ「活気的」ということばもあるようです。私がこれを初めて耳にしたのは、1999年のことです。広末涼子さんが早稲田大学に入学したころ、ワイドショーをぼんやり見ていると、出てきました。早稲田の商店街の店員が、次のようにインタビューに答えていました。
店員 ええあの、〔広末さんが大学に〕来たら、お客さん、ファンが多いんで、けっこう大学が盛り上がるかもしれないと思います。
レポーター 早稲田の街に、活性化……。
店員 かっきてきになっていいと思いますよ。
(日本テレビ「THEワイド・広末涼子早大入学式」1999.04.01)
私は、言い損ないかと思っていました。いきなりインタビューされたので、どぎまぎして、「活気が出ていいと思います」という意味で、「活気的」と言ってしまったのではないか。

一応メモはしておきましたが、「まあ個人の言い誤りだろう」と考えて、それほど気に留めないまま、何年も経ちました。

ところが、今年になって、ふたたびこの「活気的」を耳にしました。「昭和62年」を振り返るテレビ番組で、女流棋士の藤田綾さんが、この年はどんな年かを聞かれて「活気的な年」とフリップに書きました。司会の松本和也アナウンサーがちょっと狼狽した様子で言いました。
松本 わざとそれは字は変えてます?
藤田 (何のことか分からない様子で)ああわざと……
松本 活気の、的な年。
藤田 そうです。
松本 おお。と言うと?
藤田 やっぱり、バブルもあって、お金の流通もよくなって、お金の使い方とかも活気的になったり、〔略〕ゲームも活気的になってきてますし、やっぱり高速道路とかもJRとかも出来てきて、いろいろと活気的な年だなと思いました。
松本 なるほどね、あの時代を画す画期じゃなくて、活動の気と書いてるところが非常に面白いと思います。活気的な年。なるほどねえ、いろんな言い方があります。
(NHK-BS2「日めくりタイムトラベル 昭和62年」2007.07.07 20:00)
邪推かもしれませんが、松本アナウンサーは、藤田さんの書いたことばを「本人は知らないで誤用している」と直感して、「それはわざと書いたのですね」と助け船を出したのではないでしょうか。ところが、藤田さんのほうは、「活気的」ということばに違和感を感じていないので、おそらくしまいまで、松本アナウンサーの言っている意味が分からなかったのではないかと思います。「画期的」をもじって「活気的」にしたという様子には見えませんでした。

ここで、「Yahoo!」を検索してみます。「画期的」が「約12,600,000件」と表示されて非常に多いのは言うまでもないとして(実数が1千万もあるかどうかは、1,000件以上の確認ができないため不明)、一方の「活気的」も「約34,200件」であって、十分多いのです(2007.09.01)。藤田さんが意識的にもじって「活気的」と書いたかどうかはともかくとして、このことばは広く使われています。もしかすると、上の2人のやりとりは、「活気的」ということばを使わない世代と、使う世代の行き違いだったのではないかと見ることもできます。

「活気的」は、おそらくは「画期的」を誤解して生まれたことばでしょう。または、「画期的」に類推して、別にもじってやろうという意識もなく、「活気」に「的」をつけたものでしょう。印刷物では、校閲の手が入るために、なかなか出て来にくいと思います。しかし、存在は確認できたといっていいでしょう。

同音語が1つ増えて、ややこしくなったことは確かです。
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2007年08月31日

マーキロかマーキュロか

今ではあまり見かけなくなりましたが、「赤チン」という薬があります。正式には「マーキュロクロム」と言います。略して「マーキュロ」とか「マーキロ」とか言うこともあります。

「Yahoo!」で検索してみると、重複を除いて、「マーキロ」は35件、「マーキュロ」は662件(マーキュロクローム・マーキュロクロムを除く)です(2007.08.31)。「マーキロ」はほとんど使われません。

さて、その少ない「マーキロ」の用例ですが、日本ペンクラブの「電子文藝館」で読める井上ひさし「あくる朝の蝉」の中に出てきます。
「そんなことを言うんなら母さんが店をやるんだな。薬九層倍なんていうけど、この商売、どれだけ儲けが薄いか母さんだって知ってるはずだよ。とくにこんな田舎じゃ売れるのはマーキロか正露丸だ。母さんと二人で喰って行くのがかっつかつだぜ」
このページには、「昭和四十八年(1973)九月「別冊文藝春秋」初出」と書かれていますから、これを底本に本文を入力したのかもしれません。

ところが、手元の『四十一番の少年』(文春文庫、1974.11.25 第1刷、1986.04.15 第21刷)に収録されたこの作品を見ると、当該の部分は
とくにこんな田舎じゃ売れるのはマーキュロか正露丸だ。(p.180)
と「マーキュロ」になっています。この作品はまた、『短編小説傑作選 戦後50年の作家たち』(『文藝春秋』1995.07 臨時増刊)にも入っていますが、ここでも同様に「マーキュロ」になっています。

小字の「ュ」があろうがなかろうが大差ないようですが、じつは大きな差があります。「mercurochrome」が「マーキュロ」となり、さらになまって「マーキロ」となるのは、そのことばが、それだけ庶民に定着していることを示します。ちょうど、「ラディッシュ」(赤かぶ)のことを「ラレシ」と言っているようなもので、日本語として言いやすい形になるように手を加えているのです。

マーキュロクロムは、けがの薬として非常に一般的だったため、昔は「マーキロ」と言う人がかなり多かったはずです。井上ひさし氏のこの小説は、戦後間もない東北の町が舞台だったので、当時の雰囲気そのままに「マーキロ」と記した可能性があります。

それが私の文庫本で「マーキュロ」となっているのは、本になる過程で校閲者が意見をつけたか、筆者が「マーキロでは分からない」と思ったかで、本文を訂正したのではないでしょうか。それとも、「電子文藝館」の入力ミスでしょうか。私は初出の文章を見ていないので何とも言えませんが、もともと「マーキロ」であったのならば、そのままにしておいてもよかったと思います。いつか初出本文を確かめみるつもりです。
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2007年08月11日

「とっぽい」とはどういう意味か

何か月ぶりかの、ひさびさの執筆です。

「とっぽい」という俗語は、意味がはっきり分からない人が多いようで、「Yahoo!知恵袋」とか「教えて!goo」とかいったサイトでも話題になっています。これらのサイトでは、ネット辞書を引用しつつ、一応の答えが示されています。

ネット辞書では、「とっぽい」について、「生意気である。粋(いき)がっている。」「抜け目がない。ずるい。」(大辞泉)、「きざで不良じみているさまを俗にいう語。」(大辞林)のように記されています。書籍の辞書を見ると、このほか、「おっちょこちょい。間が抜けている」(『日本俗語大辞典』東京堂)、「抜けている」(『三省堂国語辞典』第5版)などの意味を加えるものもあります。

見渡してみると、「なんだか、いろいろな意味があるらしい」と、混沌とした結論になってしまいます。もう少し整理できないでしょうか。

「とっぽい」の用例は、俗語ということもあって、新聞・雑誌などにはなかなか出てきません。私の手元の切り抜き帳には1例もありません。私の能力では、今後よほど注意して拾ったとしても、1年に10例とれるかどうかでしょう。

そこで、インターネットのウェブサイトを資料として積極的に活用します。まず、「Google」によって、「とっぽい」とひらがなで書いてあるサイトを検索します。検索結果を上位から見ていって、「文脈の分からないもの」「本人もあやふやに使っているらしいもの」を排除し、その上で、40例を抽出しました。

集まった「とっぽい」の用例を、前後の文脈によって、どのような意味で使われているか判定します。ちょうど、古典に出てくる意味の分からない語句を文脈などから判断していく作業と同じです。

たとえば、次のような文があります。
「理知的でとっぽい」があなたのPI〔=パーソナル・アイデンティティ〕だとすると、BBSのレス(返事、書き込み)では、前半を端的な論理で締めるけど、後半で「ひとり突っ込み」のギャグをかます、というやり方を常にするように心がけます。
(シストラットコーポレーション・人生得する「パーソナル・アイデンティティ」= 1998.12.01)
「理知的でとっぽい」性格をアピールするための方法を説いている文章です。「理知的」に見せるためには「端的な論理で締める」ようにし、「とっぽい」ことを示すためには「ひとり突っ込みのギャグをかます」というのです。

そうすると、ここでの「とっぽい」は、「生意気」とか「ずるい」とかではありえず、また、「おっちょこちょい」「抜けている」でもなさそうです。むしろ「とぼけている」「ユーモラス」に近い意味と考えられます。

同様の例はほかにもあります。
カールおじさんなら、知っている。/明治製菓の菓子「カール」のイメージキャラクターである。/首にタオルを巻き、麦藁帽子をかぶった髭づらのおじさんである。/とっぽい、暖かな雰囲気を持つ好漢であり、販促のための強力なリーダーとなっている。
(「寸胴鍋の秘密」=2006.07.30 11:44)
この文章では、カールおじさんを「暖かな雰囲気を持つ好漢」とほめつつ「とっぽい」と言っています。この「とっぽい」も、「とぼけている」「ユーモラス」というプラスの意味で使われています。

もっとも、「とっぽい」をいわゆる「天然ぼけ」や、本当に「まぬけ」な人に使っている例もあり、「とぼけている」「ユーモラス」との境界は曖昧です。これらは、「とぼけた・(ぬけている)ようすだ」と一括して差し支えないでしょう。

一方で、「とっぽい」は、「不良っぽい」という意味でも使われています。むしろ、こちらのほうが先に広まったとみられます。「とぼけた」とはまったく違う意味で使われており、人々が混乱する原因のひとつになっています。
ちょっとかなりリーゼントなとっぽい、イカしたロケンローラー気味ですが、至って真面目な最先端婦女子ですわよっ(`▽´)
(「ペテカン日記」=2007.08.05)
「リーゼント」「ロケンローラー」というファッションでも「至って真面目」ということは、見た目としては不真面目な感じを与えるファッションということになります。しかも「イカした」とあるからには、その不真面目な感じをプラスに評価しています。

別の例では、矢沢永吉さんの昔のファッションを「とっぽい」と言っています。
とっぽいキャロルです。しかしかなぁーり時代を先取りしていたビック矢沢だなぁと思います。
AOR アダルト・オリエンテッド・ラジオ=2005.03.28 01:01:32)
矢沢ファッションは、カールおじさんとは対極にあるもので、「とぼけた」ではありません。これも好意的な意味で「不良っぽい」と言っていると解釈されます。

「とっぽい」を「不良っぽい」の意味で使う例は多く、しかも、上の例のように否定的ではなく肯定的な語感をこめているものがほとんどです。そのあたりを辞書の記述に示すならば、「不良っぽ・い(くて かっこいい)」とするのがいいでしょう。

40例の意味を解釈した結果、意味別の用例数としては、以下のようになりました。

(1)不良っぽ・い(くて かっこいい)……24例
(2)とぼけた・(まぬけな)ようすだ……9例
(3)その他・疑問例……7例

このうち(3)には、「Yahoo!知恵袋」の
私は関東ですが、〔「とっぽい」を〕抜け目のないという意味で使っています。
などの例が含まれます。中には、一般性があるかどうか疑問のものもあり、あいまいさが残ります。

したがって、今回の調査によれば、現在のところ「とっぽい」は、「不良っぽ・い(くて かっこいい)」または「とぼけた・(まぬけな)ようすだ」の意味で使われることが多いと結論していいでしょう。このほか、個人によって、または地域によって、「抜け目がない」などいくつかの意味でも使われる、ということになるでしょう。
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2006年10月03日

「愛想を振りまく」は使われないか

平成17年度国語に関する世論調査」の調査項目に「愛想を振りまく」・「愛嬌を振りまく」が取り上げられました。どちらの言い方が正統なのか。文化庁のホームページでは
「あいそ(う)を振りまく」と,本来の言い方とされる「あいきょうを振りまく」とが,共に4割台となっている。
とあり、文化庁としては「あいきょうを振りまく」のほうが古いと考えているようです。

報道では、もっとはっきりと、「愛想を振りまく」はバツ、「愛嬌を振りまく」はマルとするものが目立ちます。たとえば、NHK「ニュース7」(2006.07.26)では
間違いの多かった例です。周囲に明るくにこやかな態度を取るという意味の慣用句について、「あいそうを振りまく」と答えた人は48パーセント、「あいきょう」と答えた人が44パーセント。正しくは「あいきょうを振りまく」です。しかし誤った表現を選んだ人の割合が上回りました。
と断定しています。

NIKKEI NET」〔日本経済新聞〕(2006.07.26)でも
周囲に明るくにこやかな態度を示すことを意味する「愛嬌を振りまく」と、正しい表現を選んだ回答は43.9%。「愛想がいい」との混同から「愛想を振りまく」と誤ったのは48.3%だった。
と記しています。

このことに驚いた人のブログもあります。「La vita quotidiana」2006.07.30の「振りまくのはあいそじゃないのか」では、
確かに辞書を調べたら
「愛想」のところにはないし
「愛嬌」のところにはある。
と述べ、「なんとも耳が痛いハナシです」と結んでいます。

私はどうかというと、この報道を聞いたとき、「正解」が分かりませんでした。「愛想」だか「愛嬌」だか、あやふやでした。しかし、NHKニュースの阿部渉アナウンサーが言明するので、「愛嬌を振りまく」が正しいのだと納得しました。

ところが、今、試みに調べてみると「愛想を振りまく」の例は、以前からよく使われています。1960年代からの例を挙げてみます。
特に出張先からは熱心に書き、会社では愛想をふりまき、東西電機の男性ナンバーワンであった。(山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』〔1963年単行本〕新潮文庫 1968.02発行 2003.08第41刷 p.186)

水割りの言葉に愛想を振りまいていれば、大衆化には当面成績をあげるかもしれないが、真の宗教的深化からは遠ざかることになる。(外山滋比古『日本語の個性』中公新書 1976.05初版 p.160)

 当時、二十五歳の私は、好むと好まざるとにかかわらず、人さえ見れば歯をムキ出して愛想を振りまかねばならぬ「人気女優」という立場にいた。(高峰秀子『わたしの渡世日記 下』〔1975-1976発表〕朝日文庫 1980.09第1刷 p.200)

「受付で、パンフレットを渡したり、来客にお茶を出したりする仕事だそうだ。せいぜい愛想を振りまいて、加賀美人を披露して来てくれ」(唯川恵『夜明け前に会いたい』〔1996年刊行〕新潮文庫 2000.06発行 2002.05第9刷 p.140)
このほかにもいくらでも「愛想を振りまく」の例があります(岸田國士・伊藤整・北杜夫・開高健・有吉佐和子・加賀乙彦)。

戦前の例を見ると、たしかに「愛嬌を振りまく」のほうが多いようです。しかし、「愛想」もあります。

『日本国語大辞典』には「愛嬌を振りまく」しか載っておらず、そこには1886年の饗庭篁村「当世商人気質」と、1900-01年の徳冨蘆花「思出の記」の例が出ています。ただ、その徳冨蘆花が、一方では「愛想をふりまく」を使っている例が「謀叛論」(講演草稿、1911年)にあります。これはネットの「青空文庫」および日本ペンクラブの「電子文藝館」で読めます。
御歌所に干渉して朝鮮人に愛想をふりまく悧口者はあるが、何処に陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ給ふ様に希(こひねが)ふ真の忠臣がある乎。(電子文藝館より)
このように見てくると、「愛嬌を振りまく」も「愛想を振りまく」も、初出例としては十何年かの差に過ぎず、「愛嬌」が本来というほどはっきりした違いはないように思われます。少々過激なことを言うならば、辞書では、「愛想を振りまく」を誤用と見なすよりも、むしろ項目として堂々と載せるべきであると思います。
posted by Yeemar at 20:38| Comment(2) | TrackBack(1) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月20日

「月数」は「つきすう」

「日数」は、ごく平凡なことばです。「にっすう」または「ひかず」と読みます。では、「月数」ということばはあるでしょうか。あるとすれば、どう読むでしょうか。

「月数」は、実際に使われていることばです。新聞には
「前髪・横髪・後ろ髪の長さを測り、正規の状態になるまでの月数を記入しておいて適時点検をする。〔天声人語〕(「朝日新聞」1985.04.22 p.1)
のように出てきます。ただ、あまりにも簡単な文字であるため、ふりがなもなく、何と読むのか分かりません。

このことばを載せている辞書は少数派です。『日本国語大辞典』(初版から)、『大辞林』(第2版から)および『新明解国語辞典』(第4版から)には「つきかず」の見出しで載り、『大辞林』には「つきすう。」と言い換えが添えてあります。私自身は、「月数」という文字を見ると「げっすう」と読みたくなります。「にっすう」とくれば、「げっすう」が自然のような気がするからです。

このほかの国語辞書は、調べた範囲では、「月数(つきかず・つきすう・げっすう)」を載せているものは見当たりません。『広辞苑』(「つきかず」に別の意味あり)『大辞泉』『小学館日本語新辞典』『集英社国語辞典』『新潮現代国語辞典』『岩波国語辞典』『新選国語辞典』『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』『デイリーコンサイス国語辞典』(いずれも現行版)にはありませんでした。『新明解日本語アクセント辞典』にもありません。

『講談社類語大辞典』には「月数(つきスウ)」として載っています。類語辞書であるため、「日数」「年数」があれば「月数」も載せなければおかしい、と考えたためでしょうか。「つきかず」と読むかどうかには言及がありません。

さて、こうなると、実際には「月数」をどう読む場合が多いのか、知りたくなります。といっても、「月数」をふりがなつき、またはかな書きにしている文章はそれほど多くありません。ネットで「月数 つきすう」で検索すると、いくらかはそういう例が拾われますが、ちょっと物証としては頼りない気がします。

そこで、国会の例を調べることにします。国会の議論の模様は、過去一定期間のビデオをネット上で視聴することができます。音声を聞くことができるので、「月数」を何と発音しているかが確認できます。

調査対象は衆議院とします。まず、「国会会議録検索システム」で「月数」の使用例を調べます。その後、「衆議院TV」によって音声を確認します。

なかなか面倒な作業ですが、やっと10例を拾い出しました。以下に結果を示します。

(a)「つきすう」と発音する例(7例)
○青柳親房〔社会保険庁〕政府参考人 これらに係ります免除、納付猶予等の対象月数{つきすう}につきましては(第164国会・衆議院決算行政監視委員会 6号 2006.06.08)
○土屋正忠分科員〔自由民主党〕 さらに、かてて加えて、月数{つきすう}が足りなくなっちゃうから(第164国会・衆議院決算行政監視委員会第四分科会 1号 2006.06.05)
○中川泰宏委員〔自由民主党〕 それぞれの場所で、年数、月数{つきすう}が違います。(第164国会・衆議院農林水産委員会 6号 2006.03.23)
○望月晴文〔中小企業庁長官〕政府参考人 残された月数{つきすう}が少なくなりますと、(第164国会・衆議院経済産業委員会 5号 2006.03.17)
○川崎二郎国務大臣〔厚生労働大臣〕 そういう意味では、厚生年金と共済年金、掛金額、月数{つきすう}、掛けていって、(第164国会・衆議院予算委員会 3号 2006.01.27)
○佐藤壮郎〔人事院総裁〕政府特別補佐人 支給月数{つきすう}を〇・〇五月分引き上げることとします。(第163国会・衆議院総務委員会 2号 2005.10.06)
○宇野治分科員〔自由民主党〕〔略〕何か残った月数{つきすう}分戻すというような面倒くさいことをやっていたということであります。(第162国会・衆議院予算委員会第二分科会 1号 2005.02.25)

(b)「げっすう」と発音する例(1例)
○田島一成〔民主党・無所属クラブ〕 診断が確定をしてからはかなりの月数{げっすう}がたってしまうことになります。(第164国会・衆議院環境委員会 1号 2006.01.27)

(c)「げつ(げっ)」と言った後「つきすう」(2例)
○橋本元一〔日本放送協会会長〕参考人 各役職ごとの報酬月額掛ける在任月数{げつすう}、月数{つきすう}ですね、(第162国会・衆議院総務委員会 10号 2005.03.15)
○西博義厚生労働副大臣〔公明党〕 納付率算定の際の分母となる納付対象げっ……月数{つきすう}が減少すると同時に、(第162国会・衆議院厚生労働委員会 2号 2005.02.23)

これらによれば、7人が「つきすう」を使い、ほかの2人も(c)のように言い直して「つきすう」にしています。「つきすう」が圧倒的多数派ということになります。残りの1人は「げっすう」で、これは私の言い方と同じです。この中には「つきかず」はありませんでした。

衆議院での発言者、それも10人10例だけを見ただけですが、統計的サンプルにはなりうる数でしょう。彼らは国民の代表だから、というわけではありませんが、この結果を根拠に「世間では『月数』を『つきすう』と読む人が多いようだ」と判断してもかまわないでしょう。現代語の辞書ならば「つきすう」の形で載せるのがよいと思います。
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2006年06月18日

「安くで」は関西・九州のことば

安くで買う」(安い値段で買う)という言い方を筒井康隆氏が多用していることについては、「執筆再開の筒井作品」で触れました。この言い方について、「めずらしい言い回し」と書いたとおりで、東京ではあまり耳にしません。

まれに、耳にすることはあります。私は大学院時代に、神奈川県出身の大学院生が「安くで」を使ったのを聞いたことがあります。「あなたのことばは、どこの地方のものですか」と聞くと、地元神奈川だということでした(その時周りにいた人は「安くて」かと思って聞いていた、とのことでした)。

しかし、どちらかというと、西のほうのことばでしょう。新聞にはあまり出ませんが、大阪版の紙面に次の例があります。
 傘も最近は安くで手に入るようになりましたが、小さい頃は、傘を一本買ってもらうために、どれほどの手段を使ったことでしょう。〔兼保泰三・おしゃれむしぼしばなし〕(「産経新聞」〔大阪夕刊〕2003.06.03 p.9)
岡島昭浩氏は黒島伝治「電報」(1923〔大正12〕年3月)の次の例などを紹介しています(「日本語の用例あつめ・安くで」、テキストは「青空文庫」のもの
二人の子供の中で、姉は、去年隣村へ嫁(かた)づけた。あとには弟が一人残っているだけだ。幸い、中学へやるくらいの金はあるから、市(まち)で傘屋をしている従弟に世話をして貰って、安くで通学させるつもりだった。
黒島は、私と同じ香川県の出身です。ただし、私は「安くで」を使いません。私は高松市出身ですが、黒島は小豆島出身です。小豆島は、「勉強せんさかい」の「さかい」を使うなど、関西弁の特徴が比較的強いのですが、そのことと関係があるかもしれません。

岡島氏の上記サイトではまた、坂口至氏の『国語国文 古本屋巡りをする人のために』(1998)の一節が紹介され、
結果的に駐車料金ゼロでなくなるわけであるが、普通の駐車場に比べれば安くで済む。
とあります。坂口氏は長崎県出身の研究者です。

さらに、『新方言辞典稿』(これは井上史雄氏の執筆)から鹿児島方言の情報が引用されています。今、これを井上・鑓水氏の『辞典〈新しい日本語〉』(東洋書林)で確認すると、
ヤスクデ 「安く」。鹿児島市で「安くで譲ってください」「高くで買います」など。広告でもみるというから、地方共通語(木部1995)。鹿児島の方言新語(木部1997b)<HP>14.「フォントークがやすくで手に入ったので、そろそろネットワーク共有でも始めようかなあ」
とあります。「木部」とは、木部暢子氏の報告のこと。

こうなると、「西のことば」というより「九州のことば」なのか、という気がしてきます。いったい、どこで使われていることばなのでしょうか。

ここで、インターネットで小調査を行います。方法はこうです。「Google」で「"安くで" "プロフィール"」という語句で検索を行います。これによって何ができるかというと、「安くで」を使った個人のブログが検索されるはずです。というのは、個人のブログには「プロフィール」と書かれたリンク部分があることが多いからです。

実際に、この語句で検索すると、「約56,400件」が出てきます。重複を除いても714件です。これを全部調べることはできないので、上から、サンプルになりうるサイトを30件選びます。

サンプルとして採用する条件は、「安くで」を使っていることはもちろん、筆者の出身地もしくは現在の居住地が分かっているということです。これは、主に「プロフィール」によって確認しますが、プロフィールだけで分からなくても、ブログの記述から、現在のだいたいの居住地が分かれば、よしとします。

出身地・現在の居住地のどちらかが分かっていれば、その地域の人と見なします。成育地が分かっていれば、それを優先します。こういうと大ざっぱなようですが、古い方言を再建しようとするのでなく、現在の地域のことばのありさまを観察しようとするならば、これで十分だと考えます。

さて、その結果は以下のようになりました。

関西圏での使用が多く、19件あります。サンプルのうちの約3分の2です。次は九州・沖縄で、8件あります。埼玉・東京・福井の例もありますが、関西圏や九州・沖縄から移ってきた人かもしれません。

この結果は、これまで文献で分かっていた事実と矛盾しません。そして、このほかの地域で使用されることは少ないということも分かりました。「安くで」は、関西および九州・沖縄で多用されることばだ、と考えてよいでしょう。

調査結果からは、九州・沖縄よりも関西で使う人が多いことになります。これは、関西の人口が多いということの反映で、頻用度を反映しているとは必ずしも言えません。とはいえ、人が多ければ、ことばが多く使われることは間違いないので、「関西でより多く使われる」と言ってもかまわないでしょう。

なお、私の妻は大阪府出身ですが、「安くで」を使います。本人に言わせると「共通語だと思っていた」とのことです。「気づかない方言」のひとつということになるでしょう。


追記
本文中で触れた坂口至氏からご連絡をいただきました。熊本大学の学生に「安くで」を使うかどうかアンケートを実施されたそうです(2006.06.26、対象は2年・3年生、言語形成期をほぼ同一の地域で過ごした者)。その概略を引用します。

「自分が使うことがある」のは、長崎県長崎市(3人)・島原市(1)・長与町(1)・森山町(1)・佐世保市(1)・福岡県北九州市(1)・鹿児島県鹿児島市(1)・隼人町(1)・宮崎県都城市(1)。

「自分は使わないが聞いたことはある」のは、福岡県(3)・長崎県(1)・熊本県(4)・大分県(1)。さらに「知らない」のは、山口県(1)・福岡県(6)・佐賀県(1)・熊本県(8)・大分県(3)。

「長崎県・鹿児島県に集中していることが見てとれます」とのご指摘です。なるほど、その通りで、私が「九州のことば」とだけ言ったのは、大ざっぱでした。私の結果でも、大分県や福岡県などの例は出ていませんでした。

追記2
坂口氏になお伺ったところによれば、べつの授業の学生にもアンケートを実施されたそうです。長崎県長崎市(1)・彼杵町(1)・宮崎県延岡市(1)・宮崎市(1)・鹿児島県鹿児島市(1)のほか、長崎県福江市、宮崎県都城市、鹿児島県名瀬市、鹿児島市を転々とした学生も使うとのことでした。
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2006年04月02日

「逸話」の意味

前回の「述懐」のほかに、私の使いにくいことばとして「逸話」があります。「逸話」の意味も分からないのか、と言われてしまうかもしれませんが、辞書では、私の語感と一致しない語釈を施しているものが少なくありません。

「逸話」は、『新潮現代国語辞典』には「世間に知られていない話。エピソード。」とあります。ほぼ似た語釈を施す辞書としては、『新選国語辞典』『集英社国語辞典』などがあります。

「あまり世の中に知られていない はなし」と言っても、いろいろあります。たとえば、私がきょう、昼ごはんに天ぷらを食べた、というのも、あまり世の中に知られていない話です。だからといって、「私のきょうの昼ごはんが天ぷらだったという逸話がある」と言っては、おかしくなります。

「逸話」について「あまり世の中に知られていない」という説明がなされるのは、「逸」の字に理由がありそうです。「逸」の字は、「逸する」というくらいで、「失われる」という意味があります。『学研漢和大字典』の説明に即して言えば「はしる・のがれる(のがる)するりとぬけさる。ぬけてなくなる。記録からもれている。とりこぼした。」ということです。「逸失・逸書・逸文」などの「逸」は、その意味で使われたと考えていいでしょう。「逸話」も、これらと同様で、「失われた話」と考えれば、よく分かります。

ところが、「逸」は、ほかにも意味があります。「世の中のルールからはずれる。わくをこえる。また、俗な空気からぬけ出て、ひときわすぐれたさま。」という意味です。「逸品・逸材・秀逸」などはこの意味です。

いくつかの国語辞書は、「逸話」に「おもしろい話」という意味を認めています。これは、「逸」の字に「すぐれた」という語義を認めたからでしょう。

たとえば、『岩波国語辞典』では、「逸話」を「世間にあまり知られていない、興味のある話」と説明しています。ただ、これでは、「『ごまかす』ということばは、江戸時代の見かけ倒しのごま菓子から来ている」(新村出の説)などという、隠れたおもしろい話も「逸話」ということになってしまいます。こういう種類の話は、ふつう「逸話」とは言わないのではないでしょうか。

「逸話」は、やはり、人物についての話であるという要素を省くことはできないでしょう。この点、『大辞林』は「その人の隠れた一面を知らせる、世間にあまり知られていない面白い話。「―に富む生涯」」とあって、私の語感に非常に近づいています。

『新明解国語辞典』は、さらにややこしく、「その人の伝記の本筋に直接は関係しないが、その人間味を物語る材料とするに足る裏話。エピソード。〔狭義では、謹厳で評判な偉人のそれを指す〕」とあります。そこまで言っていいのかどうか、私には評価不能です。

ともあれ、「逸話」とは、単に「逸(いっ)せられた話(=知られていない話)」と説明すれば十分なのか、それに「おもしろい話」「人についての話」という要素をつけることが必須であるのか、辞書の間では意見が一致していません。私が、「使いにくいことば」と言うのは、そのためです。

追記
この文章を書いてから間もなく、「人について」でない「逸話」の例を新聞で見つけました。
 とくに大正6年(17年)創業のニコンのフィルムカメラはベトナム戦争時に被弾を受けて貫通せず、人命を救ったというような逸話とともにその優秀さが全世界に知れわたり、フィルムカメラの象徴的地位を築いていただけに撤退の衝撃は大きい。〔藤原新也・時流自論〕(「朝日新聞」2006.04.03 p.9)
この「逸話」は、ニコンの優秀さとともに「全世界に知れわた」っているはずですから、「知られていない」話でもないのです。「人についてではない、有名な、秀逸な話」と考えるべき例です。「人について」という要素は「省くことはできない」と書いた気持ちは、ぐらついてきました。ただ、ここでは「ニコンのカメラ」が、「人命を救った」などと、やや擬人化した形で扱われているようにも見えます。

なお、辞書の語釈の引用のしかたに問題があったので、引用文を別の辞書に差し替えました。文章の主旨は変わりません。(2006.04.04)
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2006年04月01日

「述懐」の意味

使い方に迷うことばが、私にはいくつかあります。「述懐」ということばもその1つです。
〔上略〕終戦直後のちぐはぐな、十人十色の姿は、親達の苦しいふところも想像されて、見ていても可哀そうだったと、爺さんは述懐した。(永井龍男「石版東京図絵」〔1967年発表〕『新潮現代文学 16』p.138)
これは、戦後6年経ったころ、爺さんが終戦直後を思い出して話をする場面です。「述懐」は、このように、昔をしのぶ場合に使われることが多いと思います。

ところが、辞書を見ると、必ずしも「昔を思い出して」という記述がないものもあます。『集英社国語辞典』では、「((文章))心の中の思い・考えを述べること。また、その内容。「往時を―する」」、また、『新潮現代国語辞典』も「心に思うことをのべること。〔用例略〕」とあります。全13巻の『日本国語大辞典』にも、「(1)心中の思いを述べること。意中を述べること。(2)ぐち、不平、不満を洩らすこと。うらみを言うこと。」という2つの意味しか載っていません。

これらは、べつに欠陥辞書というわけではないでしょう。古くは、「述懐」は単に「思いを述べる」という意味で使われたはずです。「唐詩選」の冒頭に挙がっている魏徴の詩はその名も「述懐」で、自分の今の感懐を述べた詩です。短歌でも「新年述懐」などと題して詠まれることがあります。これも、べつに新年を思い出しているわけではなく、歌を詠んでいる現在が新年なのです。

「懐」には、「懐古する」のように、「昔のことをなつかしく思う」という意味があるように思われます。本来はどうだったのでしょうか。『学研漢和大字典』を引いてみると、「懐」の意味として、「いだく・ふところにする」「ふところ」「おもう」「おもい」「なつく・なつける」などが出ていますが、「なつかしい・なつかしみ」の意味には〔国〕という表示がつけてあります。これは、日本での意味で、漢字本来の意味ではないということです。

「懐古」という熟語は「古きを懐かしむ」という意味であるようにも見えます。しかし、これは「古」という字がついているために、文脈上「なつかしむ」という意味になるにすぎないのでしょう。「懐古」は「古きをおもう」と考えるべきです。

そうなると、「述懐」を「昔を懐かしんで述べる」という意味で使うのは新しい、という可能性が出て来ます。新しいといっても、たとえば島崎藤村「破戒」には、もうこの意味の例があります。
「〔上略〕今でこそこうして笑ってお話しするようなものの、どうしてあの時は――全く、残念に思いましたからなあ。」〔略〕大日向は飛んだところで述懐を始めたと心づいて、苦々{にがにが}しそうに笑って、丑松といっしょにそこへ腰掛けた。(岩波文庫 1957年初版 1968年第16刷改版 1981年第28刷 p.335)
辞書にこの意味が記述されるのは、もう少し遅れるのではないかと思います。1943年に出た『明解国語辞典』(三省堂)には「述懐」について「考えをのべること。」と簡単にしか書いてありません。その後の『明解国語辞典』改訂版(1952)でも同様です。1960年の『三省堂国語辞典』初版ではやや詳しくなって「考え・(思い)をのべること。」となっていますが、まだ「昔をしのんで(述べる)」という意味は入っていません。

その後はどうなったか、ちょっと手もとの資料が不足していてよく分からないのですが、1971年の『岩波国語辞典』第2版には「考えている事や思い出を述べること。その述べた内容。」とあり、以後の辞書は、多く「昔をしのんで」の意味を入れるようになっています。どうも、1960年ごろに、この意味が認知されるようになったのではないでしょうか。
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2006年03月31日

サービスです

NHKテレビで、「放送80周年記念」と銘打った「ハルとナツ」(橋田壽賀子脚本)というドラマを見ていました。その中で、終戦後の闇市の場面がありました。主人公の1人であるナツ(仲間由紀恵)が、自分のところで作ったチーズを売っていると、そこに日系アメリカ人の米軍中尉(大森南朋)がやって来ます。
中尉 チーズ5個下さい。
ナツ ありがとうございます。
中尉 あなたたちのチーズ、アメリカのよりおいしいです。
ナツ 本場のチーズ食べてる方から褒めてもらってうれしいです。1個、おまけしときます。
中尉 おまけ?
ナツ サービスです。
中尉 ……それはありがとう。
(「ハルとナツ」〔第4回〕2006.03.30 19:30)
アメリカはチーズの本場であろうか、という疑問はしばらく置きます。それよりも注意されるのは「サービスです」というところです。「おまけ」と言われて分からなかった日系アメリカ人の中尉が、「サービス」と言われて分かるものでしょうか。というのも、英語の「service」に「おまけ」の意味はないはずだからです。

英語でこういう時に何と言うのか、じつは私も知りません。『プログレッシブ和英中辞典』(小学館)を見ると、〈〔さらに付け加えるもの〕an addition, something extra; 〔景品〕a free gift,((米)) a giveaway〉とあります。「ギフトです」と言えばいいような気がしますが、どうでしょうか。

この件については、「単なる庶民であるナツが英語を知らないのは当然」と考えれば、話はすんでしまいます。

しかし、疑問はまだあります。ナツを含めた終戦後の一般庶民は、「おまけ」の意味で「サービス」ということばを使っていたのでしょうか。この点になると、いささか時代考証が必要です。

「おまけ」の意味の戦前の例は、辞書に載っています。『日本国語大辞典』で「サービス」を引くと、永井荷風「〓{シ+墨}東綺譚」(1937)の「皆さん、障子張りかえの時が来ました。サービスに上等の糊を進呈」とあります。

とはいえ、戦前に例があることと、終戦後の庶民がそれを使っていたということとは、話が別です。どうも、そう簡単な話ではないという気もします。今のところ、私に結論はありません。もう少し注意して、調べてみたいと思います。

もう1つ、似たような感想を抱いた例が、過去にあります。

松たか子さんの主演で詩人・金子みすゞの生涯を扱ったドラマを見たとき、みすゞの弟・正祐(三宅健)が「シナリオライター」ということばを使っていました。これが、どうも新しすぎることばのような気がしました。
正祐 内緒だけど、東京へ行くつもりだ。シナリオライターになりたい。
みすゞ ええねえ、坊ちゃんには将来あって。
(TBSテレビ「TBS創立50周年記念番組 明るいほうへ明るいほうへ―童謡詩人 金子みすゞ―」〔脚本・清水曙美、方言指導・岡本信人〕2001.08.27 21:00)
ドラマの設定は、1928年春。舞台は山口県です。『日本国語大辞典』を見ると、「シナリオライター」は、1930年の『アルス新語辞典』に載っています。ということは、ドラマの中でこのことばが出てくるのは、ぎりぎり、つじつまが合っています。

つじつまは合うけれども、「シナリオライター」という響きが、私にはどうももっと新しいものに思われます。この正祐という人は、後の脚本家・上山雅輔であり、シナリオの世界には当然詳しかったと思われます。とはいえ、当時ならば、「脚本家」とかなんとか、別の言い方をしたのではないでしょうか。

これも、私の素朴な印象に過ぎません。古い時代の外来語の使用頻度を、過小評価しているおそれもあります。このへんのことは、正祐もよく読んでいたはずの当時の雑誌「映画時代」などを見てみれば、あっさり分かるかもしれません。
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2006年03月29日

生き残る「ナウい」

以前「流行語の消長」という文章で、「ナウい」ということばについて、「これは間違いなく死語だな」と書きました。1998年のことです。当時、「goo」によって調べてみると、「ナウい」は247件しか出てこなかったので、そう思ったのです。

その後、2000年にあらためて検索してみると、インターネットの普及のせいもあってか、「ナウい」は743件に増えていました。

今は2006年ですが、あらためて「goo」の検索を行ってみました。以前、どのような検索オプションを用いたか、記録がありませんが、今回は「フレーズ検索」(ことばを要素に分けずに検索する)を用いました。その結果、「ナウい」は15,300件という驚異的に大きな数字が出てきました。あきれ果てて、ちょっと落ち着いてから、改めて重複分を除くと、830件となりました。

ちなみに、以前に検索した他のことばについても、また新たに検索してみたところ、「ながら族」797件、「ぶりっこ」3,919件(ぶりっこ795・ブリッコ785・ぶりっ子813・ブリッ子776・ブリっ子750)、「イケてる」1574件(イケてる743・いけてる831)という結果になりました(下のグラフ)。

「いけてる」の急落ぶりがすさまじく、注意を引きます。20世紀末にさかんに使われたことばが、今は流行を過ぎたのでしょう。他のことばとの比較からいって、「いけてる」の急な増減は、単なる検索方式の違いというだけでは説明できません。

さて、話を「ナウい」に戻すと、このことばは、相変わらず細々と使われているようです。「死語」と言ったのは言いすぎで、地味ながら、生き残っていると言ってよい現状です。

米川明彦氏の『日本俗語大辞典』(東京堂)によれば、「ナウい」は1979年の流行語ということです。非常に流行したので、私もその当時よく耳にしました。母音が続いて言いにくく、そこが新鮮でしたが、自分では使いませんでした。流行から1、2年も経つと、早くも「使うのが恥ずかしいことば」になったと思います。しかし、この辞典を見ると、「ナウい」の用例は、1999年まで採られています。

石山茂利夫氏は、『今様こくご辞書』(読売新聞社 1998)の中で、「ナウい」の用例調査をしています。すると、石山氏自身にとって「古臭いと感じてからもう何年もたっている」はずの「ナウい」の用例が、主要新聞に8例見つかったといいます(1995〜6年ごろのこと)。

私も、じつは、まれに目にします。「ナウい」が流行を過ぎたころの小林信彦氏の小説『極東セレナーデ』(1986-87 新聞連載)では、次のように記されています。
 いいとし{2字傍点}をした男が〈ナウい〉と叫ぶのが、利奈は恥ずかしかった。〈ナウ〉とか〈ナウい〉という言葉は、たまらなく恥ずかしい。彼女も「ナウい」と言ったりするけれども、それは、時代遅れのこの言葉に代わるべき表現がないから、仕方なく、「ナウい」という部分だけを小声にしたりするのだが、西園寺は逆に大声を張り上げる。中年男が流行語と信ずるものを覚えると、ろくなことはない。(上巻 新潮文庫 1989年発行 1992年第2刷 p.37)
とあります。1986年の時点で、主人公の利奈は20歳を過ぎたばかりですが、恥ずかしいとはいっても「ナウい」を使うというのです。この小説では、地の文章でも「ナウい」を使っています。
江戸時代の多くは遊里{ゆうり}のあそびの指南書であり、現代のハウツウ物は、麻布十番のディスコやアイスクリームはどれが〈ナウい〉かといったブランド指南書である。(同 p.93)
それからずっと経って、2000年ごろ、大橋巨泉氏がテレビコマーシャルで「ナウい」を使っていたこともありました(これはふざけて)。また、2001年に斎藤美奈子氏が次のように使っていました。
 嫁姑の対立が世代間対立であるにしても、いまのお姑さんたちは世の中が便利になる高度成長期を経験した人たちだ。もっとナウいぞ。お金もあるし、趣味に旅行にとみな元気。(「週刊朝日」2001.03.02 p.125)
斎藤氏の場合も、意識して使っていたのかもしれませんが、いずれにせよ、使っていたのは事実です。

2004年に、齋藤孝氏が新聞の対談で、「ナウい」をあわれむ発言をしています。
この間ある田舎の店に行ったら、「ナウいヤングが集まる店」と書いてあるんですよ。「ナウいヤングが集まる」というのは、もう存在し得ない表現だと思うんです。死語になってしまったんですけど、それが一時期を生きた証拠のようなものが残っていると、生物として言葉の生き死にを見るようで、切ないものがありますね。(「朝日新聞」2004.11.21 p.12)
私も「ナウい」は死語だろうと思っていました。しかし、あわれむのは早いでしょう。まだ、「ナウい」は死んだと決めつけることはできません。新聞・雑誌などにまだ現れることがないかどうか、もう少し注意して見てみたいと思います。
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2006年03月28日

見坊先生はなぜ「来る」を集めたか

『三省堂国語辞典』をほぼ独力で編んだ見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)氏は、辞書作りのために、膨大な用例のカードを作成しました。それは、死去の直前に刊行された第4版の段階で145万枚に達した(「序文」)といいます。

じつに超人的な仕事です。用例採集は生涯で「五十年に及び」(「序文」)ということですから、単純計算で、1年間に2万から3万枚のカードを作成したことになります。3万を365日で割ると80枚以上になります。事務的にカードを作るだけなら比較的やさしいけれども、まずは、カードに書きこむべき、めずらしいことばを探す必要があります。それを1語探し出すのにもずいぶん時間がかかるはずですから、それを毎日80語となると、寝ても覚めても、用例を探していなければなりません。

しかし、ここで不思議なことがあります。見坊氏の作った辞書の収録語数は7万3000語(『三省堂国語辞典』第4版)です。彼が20代で作った『明解国語辞典』以来、何度かの改訂があったことを考えても、そのために145万枚のカードというのは、ちょっと多すぎるような気がします。

145万枚という数字がうそだというのではありません。私は、都内某所の倉庫で、その膨大なカードをじかに見せていただいたことがあります(見坊氏の死後に)。ただ、その多くは、実際には、辞書の記述に反映されなかったのではないでしょうか。

見坊氏が、国立国語研究所の宮島達夫氏のインタービューに答えた談話が残っています(「言語生活」1979.02、『ことば さまざまな出会い』三省堂 1983 所収)。そこで、見坊氏は、膨大な「見坊カード」の中から、動詞の「来る」のめずらしい使い方を紹介しています。今、そのいくつかを抜き出して箇条書きにしてみます。
・芝は手入れを怠るとすぐ枯れが来て……
・壁には染みが来て……
・すっかり胃に来ちゃって……
・母の頭には葬式の費用が第一に来るものらしい。
・イギリスも持っているし、フランスも持っている。中国も持って来た。〔注、核兵器の話か何かでしょうか。「最近、保有国が増えてきた」ということでしょうか。〕
・雨がパラパラッと来て……
・ガスの臭いと強い熱気がバァーと来て……
・近頃は日本ブームと来て……
・アカネシンボリ来ました!〔競馬用語で、1着〕
まだまだありますが、このへんにしましょう。とにかく、「来る」のあらゆる使い方が全部とらえられて、カードに収められているものと推察されます。

ところが、『三省堂国語辞典』(第4版)を見てみると、「来る」の項目は、あっさりと、かんたんに済まされています。どう書かれているか、意味ごとに改行して示します。
くる[来る][一](自カ)
(1)〔歩いて、または乗り物で〕遠くから・こちら(もとになるところ)へ移る。「こっちへ来い」(←→行く)
(2)〔時刻・季節・順番が〕そのときになる。「春が―」
(3)そのことが原因で、ある状態になる。「つかれから―病気」
〔補助動詞の意味は省略〕
このうち(1)の「来る」は、だれでも知っている当たり前の意味です。(2)も、まあ当たり前でしょう。外国語でも「Spring has come」とか「春天来了」とか言うし、特殊とは言えません。(3)のみ、やや特殊かもしれません。

しかし、総じて、この範囲であれば、カードの助けは不要ではないでしょうか。インタビューで紹介されていた「来る」のさまざまな使い方は、この辞書にはほとんど反映されていません。

そうすると、いったい、あの膨大なカードは、何のために採られたのか、分からなくなります。辞書に載せられないことが最初から分かっていながら、いろいろな用例を採ったとしか考えられません。

「辞書とは別に、なにか、『来る』の研究書でも書こうとしていたのではないか」と考える人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。見坊氏の業績は、ほぼ、辞書および辞書のための研究がすべてです。

「来る」1語ですら、このように辞書に反映されないカードがたくさんあります。まして、ほかのことばも合わせると、「辞書に反映されないことが初めから分かっていたはずの用例」は、膨大なものになるはずです。

どうせ辞書にも載せず、ほかの研究に使うわけでもないことばを、見坊氏はなぜ採集したのか。一般的な経済原則から考えれば、とうてい理解できないことです。

しかし、経済原則を離れて考えれば、理解できる部分もあります。おそらく、こういうことではないでしょうか。辞書に必要なことばだけを効率的に集めようとし、必要でないことばには関心をもたない人は、結局、必要なことばを集めることもできないのでしょう。見坊氏は、多くの場合、「これはどうせ載らないな」と思いつつ、それでも、ことばへの尽きない興味に突き動かされて、夢中になって用例を拾っていたのではないでしょうか。

「辞書のために用例を集めています」と言えば、人は納得しますが、実際には、それは半面の事実だったろうと思います。辞書の資料としての用例収集だけでなく、見坊氏は、辞書の編纂者として、ことば全体を見わたす広い視界を得るための用例収集を行っていたのではないかと想像します。
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2006年03月27日

かしこい・がっちり

「かしこい」ということばは、一見、ほめことばのようです。しかし、必ずしもそうではありません。

「あなたはかしこいですね」と言われて、無条件に喜べるでしょうか。べつに喜んでもいいのですが、ちょっと待てよ、と思う部分もあります。他人のことをとやかく評価すること自体が失礼だから、という理由もありますが、それは横に置いておきます。それ以外の理由でも、何となく違和感がつきまといます。

同じく人に評価されるのでも、「あなたはたいへん有能でいらっしゃる」とか「あなたは勤勉でいらっしゃる」とか言われるのならば、素直に受け入れられそうです。しかし、「あなたはかしこくていらっしゃる」とは、あまり言われたくありません。

「かしこい」を『三省堂国語辞典』(第5版)で引くと、「頭のはたらきがいい。りこうだ」という意味のほかに、「ぬけめがない」という意味があります。これは、いい意味ではありません。「かしこい」と言われて、何となく引っ掛かりを感じるのは、「抜け目がない」という意味が頭をよぎるからです。ほかの言語はどうかしりませんが、日本語で「かしこい」と言うと、それは「(ずる)がしこい」に近い意味合いを持つことがあります。

テレビを見ていると、この「かしこい」がコマーシャルに使われていました。
かしこく積立入院保険」は新登場の保険なのです。(TBS 2005.01.27 16:30ごろ)
こういう惹句に接すると、なんだか、「抜け目なく保険に入りましょう」と言われているようで、「いや、入りたくありません」と拒絶したい気持ちになります。

こう書いても、「抜け目のないことがどうしていけないのか」と疑問をもつ人もいるかもしれません。なにしろ、「抜け目がない」が、悪い意味合いをもつと感じない人もいるようなのです。室井滋さんの紹介している例ですが、こういうことがあったといいます。ある家族が、年末年始にホテルに滞在したときのことです。
明日は帰宅という最後のディナーの席、次々と出てくる中華料理を色々と皆に取り分けてくれていた義母に向かって、突如にっこり嫁が笑いながら甘ったる〜い声で言ったのだ。
「この一週間、お義母さまを見ていてつくづく思いました〜。ホント、お義母さまったら、抜け目のない方だな〜って。ウフフ」(「週刊文春」2005.01.13 p.111)
おそらく、「本当に気の利く方」とでも言いたかったのだろうと、このお母さんは想像して、なんとか納得したようです。

「かしこく保険に入りましょう」と言われると、私はこのお母さんと同じ心境になります。

この保険会社は、これにとどまらず、ほかに「がっちり」という名前の商品も販売しています。
「てごろでがっちり入院保険」だと、もしも入院ってときにはまず6万円。1日につき1万円っていう、ますますがっちりなプランもできたしね。もしも手術ってときもがっちりだし。(TBS 2006.01.24 12:10ごろ)
この「がっちり」も、『三省堂国語辞典』によれば「〔俗〕ぬけ目のない・(かんじょう高い)ようす」と出てきます。ここにも「抜け目がない」ということばが含まれています。

さらには――、以前触れた「欲張り」という、従来はけっして褒めことばではなかったはずのことばを使った商品も、この会社にはあります。
〔医療保険人気ランキングとして〕
4位 元気によくばり保険
5位 かしこく積立入院保険
(日本テレビ 2006.03.17 12:29ごろ)
「かしこい」「がっちり」「欲張り」と、抜け目のなさ、欲の深さを表すことばを、これほど並べているのを見ると、いったい、この会社の信用は大丈夫なのだろうか、と心配になります。

この会社は、「かしこい」「がっちり」「よくばり」を美徳と考えている、抜け目のない会社なのではないか。むしろ加入者のほうが、掛け金をかしこく、がっちり、よくばって取られるのではないか。と、こう思われるのは、会社にとっては決していいことではないだろうと思います。商品の命名にも品位が必要でしょう。
posted by Yeemar at 21:44| Comment(3) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする