2021年11月02日

「汚名挽回」への違和感に答える

■はじめに

2021年10月31日にクサナギさんが「note」で「汚名挽回は正しい説再考」という文章を書いています。その中で、「汚名挽回」という表現を誤用ではないとする説明の〈論理的整合性〉と〈科学的妥当性〉が論じられています。

議論の中心となっているのは、私(飯間)が『文藝春秋』2021年11月号に書いた「日本語探偵」第63回の「汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」という文章です。クサナギさんはこの〈扇動的なタイトルに正直仰け反った〉と述べ、私のタイトルのつけ方に問題があったことを指摘しています。さらに〈Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない〉と繰り返しており、このタイトルが批判的に見られたことがよく分かりました。

私のタイトルのつけ方が「扇動的」という批判に関しては、率直に反省したいと思います。断定調で立場を鮮明にしようという気持ちがなかったとは言えません。学問的にものごとが「解明済み」になることは、実はないのかもしれません。解明されたと思っても、また新たな論点が出てくることはいくらでもあります。私の表現はたしかに粗雑でした。言わんとする真意はこういうことです。「『汚名挽回』には誤用説があるが、それに対して、なぜこの言い方が成り立つかという十分に論理的な説明がある。その説明に対しては、今のところ見るべき反駁がない」。タイトルとしては長すぎますが、このように表現すれば、いくぶん穏当だったでしょうか。

クサナギさんはツイッターで礼儀正しく〈この記事は飯間さん批判ではない〉と断ってくださっていますが、批判として受け止めるべきところは、謙虚に受け止めたいと思います。

その上で、改めて私の考えを整理し、センセーショナルにではなく記しておくべき必要を感じます。

■国語辞典は旧版を踏襲するものも

クサナギさんの文章のタイトルは「汚名挽回は正しい説再考」となっています。ここは厳密を要するところです。私は常々、「誤用の客観的な基準はない」と述べています(たとえばこちら)。ことばを客観的に「誤り」「正しい」と断定はできないということです。したがって、「汚名挽回」は「誤用ではない」「おかしくはない」と否定形で言うことはできても、「絶対正しい」と言うこともできません。私が目指すのは、「誤用である」との批判に対して、別の寛容な見方を示すことです。「誤用と決めつけることはできない、この言い方が成立する理由は、論理的に説明できる」と、その考え方を示すことです。「汚名挽回」の場合、従来の「誤用説」に対しては、研究者を含む複数の人々によって、すでに十分筋の通る説明がなされていると考えます。

「汚名挽回」はそもそもなぜ誤用と批判されたのか、今さらながら振り返ってみましょう。クサナギさんは『現代国語例解辞典』『学研現代新国語辞典』が「誤用」と明記していること、「デジタル大辞泉」が誤用説・非誤用説を併記していること、『明鏡国語辞典』には迷いが見られることを述べています。これは〈2021年10月現在〉とのことですが、これらの辞書には、「『汚名挽回』非誤用説」が知られるようになる以前から「誤用」の説明が載っています。

  • 「汚名(を)挽回」「汚名(を)回復」は「名誉挽回」「名誉回復」の混同で、不適切な言い方。「汚名(を)返上(する)」が適切な言い方。(『現代国語例解辞典』第3版・2003年)

  • 「汚名挽回 ばんかい」は誤り。(『学研現代新国語辞典』第4版・2008年)

  • 「汚名挽回 ばんかい」「汚名を挽回する」は誤用。「汚名返上」「汚名を返上する」「名誉挽回」「名誉を挽回する」が正しい使い方。文化庁が発表した平成16〔2004〕年度「国語に関する世論調査」では、「前回失敗したので今度は―しようと誓った」という場合に、本来の言い方である「汚名返上」を使う人が38.3パーセント、間違った言い方「汚名挽回」を使う人が44.1パーセントという逆転した結果が出ている。(『大辞泉』第2版・2012年)

現行版である『現代国語例解辞典』第5版、『学研現代新国語辞典』第6版も同様の記述です。つまり、これらの現行版が「汚名挽回」を誤用としているのは、「『汚名挽回』非誤用説」を検討した結果というよりは、単に旧版の記述を踏襲したものと考えられます。一方、「デジタル大辞泉」では誤用説・非誤用説を併記しているので、上記の『大辞泉』第2版よりも中立的になっていることは注目すべきです。

■「汚名挽回」のどこを弁護すれば十分か

さて、これらの辞書で「汚名挽回」を誤用とする理由は、
(1)「名誉挽回」との混同(『現代国語例解辞典』)
(2)「本来の言い方」は「汚名返上」(『大辞泉』)
ということです。さらに、日本語の誤用を扱った一般書籍では、
(3)「汚名挽回」は「失った汚名を取り戻す」ということになり、これでは意味不明。(清水義範『日本語がもっと面白くなるパズルの本』光文社 1997年)
との理由を示すものもあります(清水氏の著書は一例で、同様の主張多数)。

「汚名挽回」が誤用であるという主張は、大きく以上の3点にまとめられます。したがって、この3点について、それぞれの主張が当たらないことを示せば、従来の「汚名挽回」誤用説に対する説明としては十分です。

まず、(1)と(2)に関して。「汚名挽回」が「名誉挽回」との混同から生まれたと言うためには、「汚名挽回」よりも「名誉挽回」のほうが先に成立している必要があります。また、「汚名返上」が「本来の言い方」と言うためには、「汚名挽回」よりも古い実例を示す必要があります。ところが、これらの説明はいずれも実例の裏づけがなく、あくまで「汚名挽回」は新しい言い方だろうという前提に立って推測したものにすぎません。実際には、「汚名(を)挽回」は19世紀以来の例が報告されていることは『文藝春秋』の文章で紹介したとおりです。「名誉挽回」「汚名返上」のさらに古い例が見つからないかぎり、(1)(2)の観点から「汚名挽回」を誤用とすることはできません。

(1)(2)よりもいっそう重要な論点は(3)です。「汚名挽回」が「意味不明」ではなく、理屈にあった言い方であることを示せば、「汚名挽回」も存在していい理由が生まれます。この点について詳しく考察しているのが、クサナギさんも引用する複数の先行文献です。

それを改めて私のことばで(特に私が大事だと考える点について)まとめれば、こうなります。

――「挽回」を「取り戻す」と考えると、たしかに意味が通らない。だが、「挽回」には「元の良き状態に戻す」の意味がある。したがって、「○○挽回」の「○○」に、「名誉」のようなプラスの意味のことばだけでなく、「汚名」のようなマイナスの意味のことばが来ることは自然である。「名誉挽回=名誉を元の状態に戻す」「汚名挽回=汚名を元の状態に戻す」「劣勢挽回=劣勢を元の状態に戻す」「遅れを挽回=遅れを元の状態に戻す」……などとなり、いずれもおかしくない。――

私は『文藝春秋』で以上のような考え方を紹介した後、次のように文章を締めくくっています。
ここまでの議論を理解しているはずの人でも、「汚名を挽回したら汚名の重ね着になる」という気がする人もいるようです。さんざん批判されてきた表現なので、無理もない。ただ、自分が使うかどうかはともかく、他人が使うことはとがめにくい状況になりました。
つまり、「どうしても違和感があって使いたくない」という人に「違和感を持たないでください」と押しつけることはできないし、個人個人が違和感を持つのはしかたがない。ただし、他人がこの表現を使っている場面に出合っても、「誤用だ」ととがめないでほしい、と願うのがこの文章の趣旨です。

■「汚名挽回」に対する違和感について

「汚名挽回」非誤用説を唱えつつも、この言い方に違和感を持つ人がいるというのは、クサナギさんの指摘のとおりです。クサナギさん自身も「汚名挽回」を素直に受け入れられないと言い、その理由について考察しています。その考察には説得力があり、大いに参考になります。

その考察を私のことばでまとめてみます。

――「汚名挽回」を誤用でないとする説は、「汚名」を状態と捉えている。「劣勢挽回」「遅れを挽回」ならば、たしかに「劣勢の状態を元に戻す」「遅れた状態を元に戻す」と解釈でき、違和感はない。しかし、「汚名」は状態というより、ある人物に貼られた「標識」(レッテル)と考えるほうが妥当だ。標識・レッテルを「挽回する」、つまり元に戻すというのは不自然であり、そこに違和感が生まれる。――

私のことばに直しすぎて、ご本人の主張と違うと言われることを恐れますが、「汚名」を「状態」と捉えるか「標識」と捉えるかによって違和感の有無が分かれる、ということと解釈しました。

なぜ自分がこの言い方に違和感を持つかについて、客観的に検討した文章であり、すっきりと理解できました。一方で、クサナギさんは「汚名」を状態と捉える立場もあることは否定していません。「汚名挽回」非誤用説と矛盾するものではない、と受け取りました。

クサナギさんの説に対しては疑問もあります。「汚名挽回」の「汚名」が標識だとすると、同様に「名誉」も標識とは言えないでしょうか。「名誉を傷つける」「名誉を守る」「名誉を重んじる」……などは、「名誉という状態を傷つける」などと解するよりは「名誉という標識を傷つける」などに近い意味だと思われます。それなのに「名誉挽回」と言えてしまうのはどうしてでしょうか。こうした疑問は、私の読み取り不足によるものかもしれないので、メモするにとどめておきます。

ともあれ、「汚名挽回」に違和感を持つ人がいて、そういう違和感を持つのはなぜか、と探究することは、私も興味深く思います。こうした問題については「解決済み」だとはまったく考えません。ただ、クサナギさん自身、「汚名」が標識だからといって、〈「汚名挽回は誤用である」と主張することを目的としてはいない〉と述べています。したがって、この問題は、従来の「汚名挽回」誤用説に対して十分な説明がなされているか、というテーマとは一応分けるべきものと考えます。「従来、この表現を誤用として批判した説に対しては、ひととおり説明が用意されている。それ以外のところで違和感があるとすれば、その正体は何だろう」ということです。

■まとめ

クサナギさんの問題提起の全体を振り返ると、だいたい次のようになるでしょうか。

――「汚名挽回」と言える理由について「学問的にほぼ解明済み」とするタイトルは扇動的だ。現に、自分は「汚名挽回」に違和感を持つが、その違和感を打ち消すだけの説明はまだない。そこで考察してみると、「汚名」は状態ではなく標識と捉えられる。標識を表す語に「挽回する」(元に戻す)という動詞が接続するところに違和感が生まれるのだろう。――

私としては、「なるほど、そういうこともありうる」と納得しました。人がことばになぜ違和感を持つかという探究は必要です。一方で、「そのことばに違和感を持つ人がいる」イコール「誤用」ではないことも確かです。

現時点でのいわゆる「汚名挽回」誤用説に対し、それが当たらないという主張は十分成立していると考えます。「汚名挽回」に関する「被疑事実」については、ひととおり弁護がなされており、このことばを使う人をとがめることはできなくなったと言うべきです。それとは別に、雑誌に発表した私の文章のタイトルが穏当を欠いたということは、改めて反省の意を表します。

posted by Yeemar at 12:24| Comment(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

「私って〜じゃないですか」なんて言う人はいるのか

長く放っておいたブログを、突然更新します。三省堂辞書サイト「国語辞典入門」など、他の文章を書くのに時間を割かれて、自分のブログの文章を書く余裕がありません。でも、他の媒体で当面書かないと思われる話題は、できるだけここに書きつけておきます。)

NHK「みんなでニホンGO!」の今週の放送(2010.07.15 22:00)は、語尾の「じゃん」および「私って〜じゃないですか」を取り上げました。後者では、特に、「私って、うそのつけない人じゃないですか」のように、相手の知るはずもない、自分のことについて言う用法(仮に「自己言及用法」と言っておきます)に焦点を当てました。「こういう言い方に違和感はあるか」とスタジオの人々に聞いていました。

私は、この回にはアイデア段階で協力させていただいたので、途中のいきさつも、多少は知っています。スタッフのみなさんは、完成までにきっと苦労されただろうと思います。というのも、「私って〜じゃないですか」という言い方は、話題になっているにもかかわらず、実例がさっぱり見つからないからです。

『三省堂国語辞典』では、「じゃないですか」を連語として立てています(今回の第6版から)。そこには、「この本はあなたのじゃないですか」(質問)、「名刺ってかさばるじゃないですか」(同意要求)とあわせて、「私ってうそのつけない人じゃないですか」(自己言及)の用法を入れてあります。番組では、この3つの例文がいずれも紹介されました。ところが、最後の例文は、実は、作例を辞書に載せたもので、実例ではないのです。

スタッフは、「私って〜じゃないですか」と言っている映像・音声を探し求めていました。ところが、私の手元には、この用法の「じゃないですか」の用例はひとつもありませんでした。

私には、それ以上の協力はほとんどできませんでした(ほかに、いろいろアイデアは提供しましたが、今回の内容には結実しませんでした)。その後どうなったか、興味津々で放送を待ちました。

番組を見て知ったのですが、スタッフは、「私って〜じゃないですか」の実例の大がかりな捜索を行ったようです。

まず、〈取材班はある1日のテレビ番組をチェック。東京にあるテレビ局のバラエティー番組すべてをウオッチ。「じゃないですか」を丹念に数え上げた〉。のべ28時間15分に及ぶ放送をチェックした結果、たとえば、「ギャル、イコール、マルキューの店員じゃないですか」(TBS)「今の話じゃ無理じゃないですか」(テレビ東京)など、「じゃないですか」が、実に155例採集されたと言います。ところが、「私って〜じゃないですか」に類する自己言及用法は、ついに1例もなかったようです。もしあれば、必ず番組内で紹介されたはずです。

あるいは、「トーク番組の収録」と称して若者を集め、アナウンサーの司会で自由会話をさせました。これも、「じゃないですか」の実例を採集するためです。すると、たしかに「じゃないですか」そのものは何度も出てきました。でも、自己言及用法はやはり1度も出てこなかったようです。

番組では、結局、自己言及用法には必ずしもこだわらず、「じゃないですか」一般に話を広げることで、なんとかまとめていました。とはいえ、「じゃないですか」自体は昔からあった表現です。夏目漱石の小説にも、「〔迷亭君が〕その辺の消息を説明したものとすれば、中々味があるじゃないですか」(吾輩は猫である)とあります(ここでは、同意を求める用法)。肝心の自己言及用法の実例が紹介できなかったのは残念でしたが、スタッフは最大限努力したと思います。

さて、そうすると、「私ってうそのつけない人じゃないですか」なんて言い方が、そもそもあるのか、という話になります。騒がれているだけで実体のない、いわば「幽霊用法」ではないのでしょうか。

「幽霊語」とか「幽霊用法」とかいうものは、たまにあります。たとえば、以前、若い人が使っていると話題になった「チョベリバ」は、実際にはほとんど使う人がなかったようです。実体のないことばを指弾して、「ことばが乱れている」と言うことは、ありうることです。

もし「じゃないですか」の自己言及用法が幽霊用法であれば、『三省堂国語辞典』はフライングをしたことになります。この辞書は、新聞・雑誌・テレビなどの用例に基づいて語釈や例文を書くことを基本にしていますが、「じゃないですか」に関しては、自己言及用法があると言われていることだけを根拠にして、実例の吟味を怠ったことになります。

ただ、まったく用例がないかというと、実はあるのです。それは、木村拓哉さんの例と、松岡充さん(SOPHIAのボーカル)の例です。彼らがテレビやラジオに出演してしゃべった内容を、ファンが忠実に再現したホームページがあります。その中から3例見つけました。

●〔木村〕居ますよね、家に来る〔ファンの〕人。夜テレビとか見てるじゃないですか。そうすると、窓の外でピカーッと〔カメラが〕光るんですよ。まさか雷はって思って、ファーッとカーテン、ビヤッと〔開けて〕やると、あのー女の子が3人とか2人とかで。
フジテレビ「HEY! HEY! HEY!」1996.07.29放送
http://www.geocities.jp/smap_angel/tv/tv96.html

●〔木村〕僕、正直「ハウルの動く城」をやらせてもらったとき、「俺、すげーだろ」と思ったんですよ。あの、俺に対して、僕も、スタジオジブリ大好きなんで、今までの作品とか全部見てるじゃないですか。そこに自分が身をおいてやらせていただいて、ね、自分の声なんだけど、ハウルの声としてやらせてもらったときに、すっげーだろ!て自分に対して思ったんですよ。
文化放送「STOP THE SMAP」2006.05.26放送〔?〕
http://www.mypress.jp/v2_writers/seinanao/story/?story_id=1416451

●〔松岡充〕たまたま曲作りしてるスタジオが〔うどん屋の〕近くで,出前とったらすごくうまくて.例えば日本全国にツアーとかで行って,例えば徳島とか本場で食べてるじゃないですか,僕なんて.
〔堂本光一〕ツアーでいろんなとこ行ってね.
フジテレビ「堂本兄弟」2002.02.24
http://www.fujitv.co.jp/DOMOTO/talk/042.html

放送を直接聞いたわけではありませんが、おそらくこのとおりに発言していたのでしょう。これらは、自分のことについて「じゃないですか」と言っています。やはり「じゃないですか」の自己言及用法はあるわけです。

これらの例については、NHKのスタッフにも知らせました。でも、「ジャニーズの例は、差し障りがあって使えません」とのことでした。まあ、しかたがないでしょう。

今回の番組のための準備や、また、放送された内容によって、「じゃないですか」の自己言及用法が、言われるほどには多くない、むしろ少ないことが分かりました。何しろ、スタッフが「じゃないですか」を155例採集して、その中に自己言及用法がないのです。話題になっていることばを取り上げたはずが、皮肉な結果になりました。

木村拓哉さんらがこの使い方をするのは、納得できます。木村さんぐらいになると、みんなが自分のことを知っていて当然であり、そこで、「僕も、〔ジブリの作品を〕全部見てるじゃないですか」と言えるのです。若い人が誰でも使うことばではなく、テレビなどで限られた人が例外的に使って、それがインパクトを与えているのではないでしょうか。

私はバラエティー番組などからことばの用例を採ることはあまりありません。でも、「じゃないですか」の自己言及用法を採集するためには、そういった番組も見なければならないかなあ、と思います。「タレントの誰が自己言及用法をよく使っている」ということをご存じの方があれば、ぜひお教えください。

関連文章=「「じゃないですか」の先祖
posted by Yeemar at 22:01| Comment(6) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

かなり当てはまらない

名前は管理職なのに時間外手当が出ないなどの「名ばかり管理職」について、NHKが1月、全国200社あまりを対象にアンケートを行いました。その結果が報道されました。
会社の管理職が法律の条件に当てはまるか尋ねたところ、「ほとんど当てはまらない」が9%、「かなり当てはまらない」が18%、「一部当てはまらない」が36%で、(NHK「ニュース7」2008.03.23 19:00)
この「かなり当てはまらない」に注意が向きました。私は使わない言い方です。こういうアンケートの文言は、数値を日常語に翻訳している面もあるので、ふつうの日本語とは違った言い回しになることがあるかもしれません。

『三省堂国語辞典』第6版では、「かなり」は次のように説明しています。
(1)極端(キョクタン)なほどではないが、程度が強いようす。「―大きい」(2)〔俗〕非常に。すごく。「―むかつく」
第5版では〈相当。「―大きい」〉だけだったので、詳しくなっています。これは「かなり+肯定表現」を想定した説明です。「かなり」はふつう否定表現とは結びつかず、「かなり痛くない」「かなり高くない」などとは言いにくいはずだからです。「かなりつまらない」とは言いますが、これは「つまらない」が否定表現ではなく「無味乾燥」の意の形容詞になっているからです。

『三省堂』の上記の説明でも、むりやり「かなり当てはまらない」を解釈できないこともありません。「ほとんど当てはまらない」を「はずれ度A」とした場合、「かなり当てはまらない」は、そこまで極端ではないが、まあ「はずれ度B」ぐらいといった語感でしょうか。

しかし、私の語感では、「かなり+否定表現」が何パーセント程度を指すのか、分かりません。「テストがかなりできた」と言えば、80点か90点かといった点を思い浮かべます(100点ではない)。一方、「テストがかなりできなかった」と言われても、さあ、それは何点ぐらいか、ちょっとイメージしがたいのです。肯定表現の場合を単純に逆転すれば10点か20点だったということになりますが、その場合、私なら「ほとんどできなかった」になります。私の語感に基づいてだいたいのところを示すと、0点は「まったくできなかった」、0〜40点ぐらいは「ほとんどできなかった」、40〜70点ぐらいは「あまり(それほど)できなかった」、70〜80点ぐらいは「ふつう(まあまあ)だった」、80〜90点ぐらいは「かなりできた」、90〜100点は「よく(たいへんよく)できた」であり、「かなりできなかった」の入る余地はありません。

ところが、この「かなり+否定」は、しばしば目にします。用例を引用します。
〔チョコボールのくじの〕金〔=ゴールドの意〕も本当にあるのだが、かなり出ない。仮に「20個に1枚銀」と仮定すると、銀5枚ぶんつまり「100個に1枚金」ぐらいになるのか。〔つぼさがし46・「おもちゃのカンヅメ」のつぼ〕(「週刊朝日」2005.03.04 p.56)

 今連載している雑誌の担当も男性で、男性作家の担当が当然多いのだけれど、この人も〔差し入れ時に〕かなり肉しか買って来ない。〔安野モヨコ・くいいじ8〕(「週刊文春」2006.10.19 p.69)

「そうだよ、雅子ちゃん」山瀬が口をはさんだ。かなり呂律{ろれつ}が回っていない。「この際、犬の名前もヨーから、プーぐらいに変えてさ」〔藤田宜永・喜の行列悲の行列51〕(「サンデー毎日」2007.04.29 p.59)
これらの用法をかりに辞書に載せるとすれば、「〔俗〕〔下に打ち消しのことばが来る〕ほとんど。」と簡潔に説明したいところです。上の例は、「くじの『金』がほとんど出ない」「ほとんど肉しか買って来ない」「ほとんど呂律が回っていない」と解して差し支えないからです。ただ、そうすると、先のアンケートの「ほとんど当てはまらない」と「かなり当てはまらない」の違いが出ません。その点に配慮すれば、
〔俗〕極端(キョクタン)なほどではないが、程度が弱いようす。「条件に―当てはまらない」
このようになるでしょうか。

『三省堂国語辞典』は、新用法はわりあい積極的に載せる辞書ですが、この「かなり」は、用法になお不明な点もあるので、載せるにあたっては迷う語といえます。『三省堂』は第6版が出たばかりなので、次の改訂で載せるとしてもまだ先のことです。この用法をそれよりも先に載せる辞書は、おそらくないでしょう。
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2008年03月19日

新しい語法?「可能+ている」

動詞「楽しむ」を可能形にすると「楽しめる」になります。これは当たり前。では、それに進行形「ている」をつけて「楽しめている」と言うことはできるでしょうか。

若い人は、おそらく「できる」と言うのではないかと思います。たとえば、次のように使う例があります。
スカッシュのルールや技について知らないこともたくさんあります。それでも、スカッシュは楽しめています
(早稲田大学学生の文章、2006.08.01)
しかし、これは、私には新奇な感じがします。私が書くならば、可能形だけを使って「十分楽しめます」とするか(くどいので「スカッシュ」は繰り返さない)、または、進行形だけを使って「十分楽しんでいます」のようにするか、どちらかです。可能形も進行形も両方くっつける、という発想は、私にはありません。

この「可能形+進行形」の形(ここでは「進行形」に「完了形」も含めます)は、探してみれば、よく目につきます。いくつか引用します。
〔中学校の男性教師〕〔生徒への対応を〕まあいろいろな角度から考えてはいるんですけれども、まあ解決策というか打開策っていうのがまだ自分の中で見つかりきれてない〔=見つかりきれる+てる+ない〕、そういう中でこう日々過ごしているっていうのが、まあ今の現状です。(NHK「NHKスペシャル・“学校”って何ですか?」2007.03.03.21 19:30)

「彼女はあたしの古い友だちよ。ずっと会っていなかったけど、一番信用できる人」/ タカシに聞かれていることを考え、そうとだけいった。白理は呑みこめていない〔=呑みこめる+ている+ない〕表情で頷いた。〔大沢在昌・魔女の盟約38〕(「週刊文春」2007.04.26 p.115)

〔住人の女性〕私も夕べから全然寝れてなかった〔=寝れる(←寝られる)+てる+ない〕んで、これでやっとゆっくり眠れますけどもね。(NHK「ニュースウォッチ9」2007.05.18 21:00)

小林〔幸子〕 順風満帆じゃなかったことで、私は今までやってこれている〔=これる(←こられる)+ている〕のかもしれない。(「週刊文春」2008.02.07 p.116)
用例からすると、「……ていない」と否定形で結ぶほうが若干多いかもしれません。いわゆる「ら抜き」表現になることも多く、「やってこられている」と言わず「やってこれている」になったりもしています。いずれにしても、私ならば使わない言い方で、それぞれ「見つかっていない(見つかりきっていない)」「(まだ)呑みこめない」「寝られなかった(寝ていなかった)」「こられた」と言いそうなところです。

昔はどうだったかというと、「可能形+進行形」の形はなかったわけではありません。たとえば、「文章がよく書けている」などと言います。「書ける+ている」です。太宰治「ろまん灯籠」(1940-1941)には〈面白い。よく書けていますよ。〉と出てきます。ただ、この「書ける」は、「(紙を)折る」の結果として「(紙が)折れる」と言うのと同じく、「書く」の結果を表す「書ける」であると考えることもできます。

昔の状況については、精査していません。ここでは、「どうも、昔の文章ではあまり「可能形+進行形」は見かけないような気がする」という、私の印象を記すにとどめます。もし、確実な例をご存じでしたらご教示ください。

「楽しめている」のような言い方が、もし新しいと仮定すれば、それはいつごろから広まった言い方でしょうか(仮定の上に立つ推測というのはあやふやですが、まあお見逃しください)。それは、「いけてる」ということばが流行しはじめたころではないかと思います。「いけてる」は「いく(行)」の可能形「いける」に「てる(←ている)」が付いたものです。「いける」は「(酒が)いける口」のように、長らくこの形で使われ、戦後は〈このおねえちゃんはちょっといける〉(石坂洋次郎『陽のあたる坂道』1956-57)のように流行したのですが、それに「てる」がついたのは、私の記憶では1996年ごろからです。

「いける」から「いけてる」を作ったのと同じ仕組みで、「楽しめる」→「楽しめている」などの語法が作られ、広まったのではないかと推測します。

なお、方言では、たとえば徳島県で「行けよー行けよー」(←行けよる行けよる。大丈夫)というふうに、動詞の可能形(行ける)に進行形「よる」をつけることがあるようです(「ふるさと日本のことば語彙索引」の「よる」を参照)。関係があるでしょうか。

関連文章=「いける、いかす、いけてる
posted by Yeemar at 16:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月04日

「あきれもしねえ」その他

前回に続き、肯定形と否定形とが同じ意味になる例を挙げます。

明治の始め、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』に「あきれもしねえ」という言い方が出てきます。
ひき「うまくいゝましたツケ。ヘヽン、あきれもしねへ。サア、モウ、いゝかげんに、ごぜんにしよう。(三編下〔1872年刊〕岩波文庫 1967年 p.104)
これは、年配の女性が、相手の若い女性の冗談に対して言ったせりふです。「あきれもしない」は、「あきれた」とほとんど同じです。現にこの年配女性は、直前に「あきれるヨ」とも言っています。ただ、「あきれもしない」は「ばかばかしくて、あきれる所まで行かない」というふうに考えれば、この「ない」にも意味があるかもしれません。

「ない」があってもなくても同じ意味になる例は、「東海道中膝栗毛」に非常に多く出て来ます。列挙してみましょう。
気の知れた
北八「〔略〕惣体{そうてへ}上方ものはあたじけねへ〔=欲深い〕。気のしれたべらぼうどもだ
(八編下〔1809 文化6年〕岩波文庫 下巻 p.350-351)
「気の知れた人」というと、「考え方のよく分かった心安い人」ということになります。でも、ここでは、上方者は何を考えているか分からない、と言いたいのでしょうから、否定形の「気の知れない」の意味で使っていると考えられます。
御如才
十吉「イヤわたしはアノ内の女に、すこしはなし合がありやす ト此内やどの女きたりて「これは御如才でございます。サア〔膳を〕おかへなさいませ。
(二編上〔1803 享和3年〕岩波文庫 上巻 p.131)
三島の宿での会話です。十吉という男(実はごまのはい)が、弥次・喜多に「女郎を呼んで遊ぼう」と誘われ、「いえ、私はこの宿の女中に、少し話し合いがありますので」と断ったところ、宿の女が「御如才でございます」と言ったのです。これは、「ない」のついた「如才ない=機転が利く」の意味で使ったのだろうと思います。「ここに来る女郎はあまり上等でないので、よい判断です」という気持ちではないでしょうか。
大切ない
〔丹波の人〕よふまあ大切{たいせつ}ない仏{ほとけ}を、なんぜくひよつた。
(八編上〔1809 文化6年〕岩波文庫 下巻 p.298)
「大切ない」は「大切な」。「大切な仏(=遺骨)を、なぜ食ったのか」という意味。この「ない」は、否定の意味を持たない接尾語でしょう。
他愛(たわい)
京〔の人〕〔上略〕コリヤどふじやいな、丁銀ほつたら網がやぶ{破}りよかとおもふたに、ねからたわいじや。どしてあみに、とまりくさつたしらんといふたりや、
(五編追加〔1806 文化3年〕岩波文庫 下巻 p.121)
網で小銭を受けようとするこじきの出てくる場面です。京の人が、こじきの網を破ってやろうとして、重量のある丁銀をほうったところ、やっぱり破れずに、むだなことになった、というのです。「たわいない」のことを「たわい」と言っています。
近ごろ
弥二「イヤそれは先おめでたい。しかし御ちそうになつては、ちかごろきのどくだ てい「ナニサ御遠慮{えんりよ}なふ。今におすいものもできます
(初編〔1802 享和2年〕岩波文庫 上巻 p.87)
亭主に、「ご馳走になってはたいそう気の毒だ」と言っています。「近ごろ気の毒」というのは、「近ごろにないほど気の毒」ということで、やはり否定の「ない」を省略しています。
ないもせぬ/益体
上方「ハヽヽヽヽ、そりや松輪{まつわ}屋じやわいな。大木やにそんなおやまはないもせぬもの。コリヤおまい、とんとやくたいじや/\
(三編下〔1804 文化元年〕岩波文庫 上巻 p.231)
この部分には、「ない」の有無に関係する例が2つ出ています。「ないもせぬ」は、本来なら「有りもせぬ(=ない)」と言うべきですが、なぜか「ないもせぬ」になっています。また、「とんだやくたい(益体)」は、「益体もない」の意。「つまらない」ということですが、「ない」を取っても、やはり「つまらない」の意味を表しています。
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2006年04月03日

肯定形・否定形が同じ意味

なにげない」という意味で「なにげに」ということばが使われはじめてからずいぶん経ちます。『岩波国語辞典』では、「1985年ごろから」と年代を明記していますから、もう20年は経ったわけです。

「なにげない」の「ない」が落ちてしまっては、意味が反対になるはずではないか、というのはもっともな理屈です。しかし、現実には、否定の意味を表す「ない」は、しばしばないがしろにされることがあります。

その例がだいぶ集まったので、このへんでまとめておきます。

まずは誤用というべき例ですが、「当店は責任を一切負いかねません」と看板を出す店があります(長崎県、1999年。「まぐまぐVOW」Kouzzyさん報告)。むろん、「負いかねます(=負うことができない)」の意味であり、この場合、「かねる」もしくは「ない」のどちらかの意味が機能していません。私の学生にも、「(ジェットコースターから荷物が)落下された場合において責任はおいかねます」を「責任は負います」の意味だと受け取った人がいました。

感に堪えない」という意味で「感に堪えたような表情」と言うことがあります。例を集めてみると、「堪えない」よりも「堪えた」のほうが多く目につきます。しかし、「ない」のついたほうが本来の言い方です。「堪えることができない」ということですから、「ない」が消えるのは不思議です。

せわしない」と「せわしい」、「とんでもない人物」と「とんだ人物」も同じ意味ですが、この場合の「ない」は、ふつうは、否定ではなく、接尾語の「ない」だと説明されます。このあたりは、以前「日本語力測定試験」という文章で触れました。

この仲間らしいものとして、幸田文『流れる』(1955)には「ざっぱくない」という言い方が出てきます。
いえ、わたくし、今ひょいっとこう、……いつもあんまり自分がざっぱくない起きかた〔=(ふとんからの)起き上がりかた〕をしているように思ったもんですから、羞{はずか}しい気がして、……(新潮文庫 1999.04.25 57刷改版 p.192)
これは『日本国語大辞典』や『広辞苑』、『大辞林』などを見ても載っていないことばで、不審です。古い東京語に「ざっかけない」(荒々しく粗野)という言い方がありますが、それと関係があるでしょうか。今のところ、私は「雑駁(ざっぱく)」に接尾語の「ない」がついたもの、つまり、意味は「雑駁な」と同じだと考えていますが……

長谷川如是閑の文章には「すてきもない」ということばが出て来ます。
で僕等はそちらへ行つたが素敵もなく脊の高い兵隊が僕等にくつついて来て、後ろに立番をしてゐるのには驚いたね。(長谷川如是閑「北京再遊問答」『現代日本文学全集41 長谷川如是閑集・内田魯庵集・武林無想庵集』改造社 1930 p.288)
「素敵」で「ない」のなら、不格好な人なのかと思いますが、そういうわけではありません(「じつに、非常に」ということ)。この「ない」も否定の意味のない接尾語であるようです。

辞書によれば、「満遍なく」とは別に、昔は「満遍に」という言い方があったそうです。考えてみれば、「満遍」は、字から見ても「満ちて・遍(あまね)く」ですから、それだけで「残るところなく」という意味です。それに「ない」がついてしまっては、「残るところがある」になってしまうではありませんか。

今は使われなくなった言い方も含めると、この手の言い方はまだまだいくらでもあります。続きは改めて。
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2006年03月20日

食べすぎそう

NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の「風のハルカ」(2006.03.14 12:45)を見ていたら、次のような場面がありました。ヒロインのお父さんが開いているレストランで、客がこう言うのです。
客A おいしい。
客B また食べすぎそう。うふふ。
この客は、お父さんの料理がおいしいのだ、ということを見る人に分からせるためだけに出てきた人物です。その「食べすぎそう」という部分に耳が止まりました。

これは、私は使わない語法です。私ならば、「食べすぎてしまいそう」と言うか、「食べすぎちゃいそう」と言うか、いずれにせよ、いったん完了形にしてから「そう(だ)」をつけます。

どっちでも同じではないかという気もしますが、私は「食べすぎそう」と言わないことはほぼ確実です。そこには、何か規則の力がはたらいているように思われました。

「Google」でネットを検索してみると、「"食べ過ぎ(すぎ)てしまいそう"」が674件(重複除く、以下同じ)、「"食べ過ぎ(すぎ)そう"」が404件です。また、「"飲み過ぎ(すぎ)てしまいそう"」が559件、「"飲み過ぎ(すぎ)そう"」が412件です(2006.03.20)。どちらも、「てしまう」をつけるほうが若干多いのですが、つけない場合と比べて、それほど極端な差はありません。「てしまう」をつけると、多少言いやすくなる、といったところでしょうか。

私が「食べすぎそう」に注意を引かれた理由をいろいろと考えてみました。「すぎる」という補助動詞の性質に関係があるようです。

金田一春彦の分類によれば、「すぎる」というのは状態動詞というグループに入ります。このグループの語は、動詞の形は取っているけれども、動きを表すのではなく、状態を表すことばです。たとえば「ある」とか「できる」(可能の意)とか「(注目に)値する」とかいう単語が、この仲間です。

状態動詞は、意味の中に、時間的な要素が含まれていません。したがって、「そうだ」という、「直前」を表す語はくっつかないのです。「何かわけがありそうだ」と言えるではないかと思われるかもしれませんが、この場合の「そうだ」は「推測」を表すので、話が違います。「欠点がある」を、「×そろそろ欠点がありそうだ」とか、「彼は英語ができる」を「×そろそろ彼は英語ができそうだ」とか言うことはできません。

「○○しすぎる」もこれと同じで、動きというよりは状態を表しています。それで、形容詞(これもものごとの状態を表す)にくっついて「この服はちょっと大きすぎる」とか「この部屋は寒すぎる」とか言うことができます。

「大きすぎる」に「そうだ」をくっつけて、「このままでは、この服は大きすぎそうだ」と言うことは難しいでしょう。同様に、「このままでは、この料理を食べすぎそうだ」と言うことも(私には)難しいのだ、と考えれば、納得ができます。

ただ、「すぎる」は状態動詞であることは間違いないのですが、時間の推移を表す「てしまう」をつけて「食べすぎてしまう」と言えるところは特殊です。同じ状態動詞でも「×(欠点が)あってしまう」とは言えないのに、「すぎてしまう」は言えるのです。この違いは、「一口に状態動詞といっても、多少性格が違うものが含まれているのだ」とでも言って、今のところはごまかしておくしかありません。
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2006年03月17日

けっこう最高ですよ

「けっこう」の副詞用法を『三省堂国語辞典』第5版で引くと、
(予想に反して)じゅうぶん。うまく。「―やっている」
とあります。私の言語感覚もこれに一致します。「けっこう」は、プラスの語感をもつことばと結びつきます。

ところが、場合によっては、マイナスの語感をもつことばとも結びつきます。わりあい古いところでは、北杜夫『どくとるマンボウ小辞典』(1962-63発表)で、ヤシの実の危険さを記すくだりに、こうあります。
ホノルル市では車を出して、落ちそうな実をあらかじめ取っているし、タヒチでは、〔実が落ちて〕けっこう死傷者を出していると聞いた。(中公文庫1974年初版 1979年13版 p.69)
これは、「予想に反して」という部分に重点を置いた例でしょう。とはいえ、ニュースで「けっこう死傷者が出ています」とやると、喜んでいるようで、苦情が来るでしょう。やはり特殊な使い方です。

マイナスの文脈で「けっこう」をよく使うようになったのは、もう少し最近でしょう。以前のラジオ番組「谷山浩子のオールナイトニッポン」(ニッポン放送 1982.10.15)で、谷山浩子・堀ちえみ両人の次のような会話があります。
谷山 ああ、周りのスタッフの人なんか、話けっこう合わないんじゃない。そんなことない?
堀 いえ、あの、スタッフのかたはまた別ですけれども、あの自分がその恋愛の対象にするかたとかはね。
「話がけっこう合う」ならふつうの言い方ですが、その逆の「話がけっこう合わない」は標準的ではないはずです。思うに、発言者の谷山さんは、無意識に「べつに話が合わなくても、まあけっこうなのだけれど」という、相手を思いやる気持ちを表そうとしていたのかもしれません。

最近の「けっこう」には、この例のように、「そうであっても、べつに悪くないのですが」という気持ちが含まれていることが多いと感じます。

「けっこう」の、標準とは異なる使い方を取り上げている文章は、私の知るところでは佐竹秀雄『サタケさんの日本語教室』(2000 角川文庫)p.16が早いほうです(これより早いものはあるのでしょうか)。佐竹氏は、「私って、けっこう明るいんです」という言い方を「断定を避ける」表現と指摘しています。ただし、どういう点が標準と離れているのかについては、具体的な指摘がありません。私が補足するなら、自分自身のことであるにもかかわらず、「けっこう明るい」と、「予想に反して」いるように言っているところが独特なのです。

さて、最近、「けっこう」のさらに極端な使い方を耳にしました。例を2つ挙げます。

中継番組で、アナウンサーと、蒸気機関車の若い機関士とが、次のような問答をしていました。
別井敬之アナウンサー 運転席って、やっぱり気分いいんでしょうね。
機関士 けっこう最高ですよ。
(NHK「生中継ふるさと一番!・守り継ぐSLの雄姿・静岡県島田市」 2006.03.14 12:20)
「けっこう」ということばは、予想に反しているだけでなく、「思ったよりも度合いが高い」という場合に使います。ところが、「最高」は、度合いを比較できません。「思ったよりも最高」とか「思ったほど最高ではない」とか言うことはできません。つまり、「最高」は、ふつうは「けっこう」とは結びつかないはずなのですが、ここでは結びついています。

また、つい今日のこと、ワールドベースボールクラシックで準決勝に進出した日本チームについて、若者が次のようにインタビューに答えていました。
男性(東京 新宿) なんか、けっこうダメかなーと思ってたので、はい、とてもうれしかったですね。(NHK「ニュース7」2006.03.17 19:00)
日本チームが準決勝に進出できるかどうかは、「可能」か「不可能」かの二者択一であって、両者は程度の差ではありません。「ダメ」というのは、「出場できない」ということですが、「けっこうダメ」とはどういうことでしょうか。従来の「けっこう」の語釈では説明できない用法です。

「けっこう」は、「あのー」「えーと」といった、間を持たせるための意味のないことば(フィラー)として使っている場合もあると考えられます。
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2006年03月09日

「くらい」の清濁

あなたは「宿題くらい自分でやりなさい」と言うでしょうか。それとも、「宿題ぐらい自分でやりなさい」と言うでしょうか。つまり、「くらい」と清(す)むか、「ぐらい」と濁るかという問題です。少々、立ち止まって考えてください。

今の問題の答えをよく考えた上で、さらに、次の2つの場合を考えてください。「そのくらい自分でやりなさい」と言うか、「そのぐらい自分でやりなさい」と言うか。それから、「宿題をするくらいなら、家の手伝いをしたほうがまし」と言うか、「宿題をするぐらいなら、家の手伝いをしたほうがまし」と言うか。

じつは、この3つの場合には、本来、清濁の区別があります。自省してみて、「なるほど、自分ははっきり区別している」と気がつく人は、分析力にたけた人でしょう(どこかで教わったのでなければ)。どういう区別だかは、あとで記します。私はというと、このうちのどの場合も、清むか濁るか、考え出すと分からなくなります。

昔の私はどうだったのか、学生時代の日記からある期間を抽出して、「くらい」「ぐらい」の数を数えてみました。内訳は、「くらい」を使うことが多く、全体の7割以上です。「ぐらい」はあまり使ってません。

清濁の使い分けについては、それほど強い規則性は感じられません。「二千円ぐらいしかない」と書いたり、「一万くらいしかない」と書いたりしています。「三十分くらい話して」とも「一時間ぐらい話すが」とも書いています。

何年か前、「自分の言い方が、こう不統一ではよくない」と思ったことがありました。どのように使い分ければいいのか、手近の辞書で調べてみました。たしか、たまたまその辞書では区別について言及していなかったと記憶します。「まあ、どちらでもいいらしい」と判断し、自分のこれまでの使用状況や、愛読する作家の使用状況を勘案して、清音の「くらい」を主に使うようにしよう、という方針を立てました。最近の私の文章では、根拠もあいまいなまま、「くらい」が使われるようになりました。

ところが、このように、ことばの使い方を意識的にルール化するのはいけませんね。「くらい」「ぐらい」には、実は微妙な使い分けがあるようなのです。『NHKことばのハンドブック 第2版』の「〜くらい・〜ぐらい」を見ると、「以前は次のような使い分けが行われていた」とあって、
(1)体言には「ぐらい」が付く。
(2)「この・その・あの・どの」には「くらい」が付く。
(3)用言や助動詞には、普通は「ぐらい」が付くが,「くらい」が付くこともある。
と記されています(初版も同様)。おやおや、この「以前」とは、いったいいつだ、と思って『日本国語大辞典』を見ました。「くらい」の語誌欄に、
江戸時代には、名詞に付くばあいには濁音、コ・ソ・ア・ドに付くばあいは清音、活用語に付くばあいは清濁両形をとる傾向がある。
と書かれています。NHKの『ハンドブック』と似ていますが、最後の「活用語(=用言・助動詞)に付くばあい」の説明のしかたがちょっと違います。活用語につく場合、清濁いずれになるのがふつうなのか、明示されていません。

ともあれ、これは「江戸時代」の区別だったようです。「江戸時代」とくれば、この説の出もとは湯沢幸吉郎『増訂江戸言葉の研究』(明治書院)だろうと思って見てみると、やはりそうです。江戸時代後期の文学作品から用例を示し、
〔上略〕以上の諸例を通観するに、体言には「ぐらい」、「この」「その」等には「くらい」が付き、用言・助動詞には「ぐらい」の付くのが普通であり、「くらい」の付くこともあるということになる。けれどもまた、
 ○一粒拾六文位{くらい}な涙を落シたり‥‥(八笑人、初二)
のように体言に「くらい」の付いた例も見える。(p.640)
と説明しています。NHK『ハンドブック』の説明と非常に似ています。そして、『日本国語大辞典』は、湯沢幸吉郎の説明を不正確に引用しているらしいことも推測されます。

江戸時代の区別は、現代には必ずしも妥当しません。改めて『三省堂国語辞典』を見ると、第3版までは「くらい」と「ぐらい」と、それぞれの見出しの下に、両語に使い分けがあるように語釈をほどこしていましたが、第4版以降は区別をやめています。「ぐらい」の項目に、「体言につくときは、もともとは「ぐらい」と言った」と説明するのみで、「くらい」の項目を見るように指示してあります。もっとも、この「もともと」というのはいつの時代か、よく分かりません。

東京生まれの作家、幸田文(1904-1990)の作品から「流れる」「みそっかす」を取り上げて、「くらい」「ぐらい」の使用状況を調べてみると、なるほど『三省堂国語辞典』の言うとおり、「ぐらい」は体言にしか使われていません。ほかは、すべて「くらい」です。もっと細かく言うと、幸田文の場合は、
  1. 体言(名詞)に続く場合は「ぐらい」「くらい」が混用される。
  2. 「この」「どの」に続く場合は「くらい」。
  3. 動詞など、活用語に続く場合は「くらい」。
このように、江戸時代よりは「くらい」の勢力が広まっています。NHKの『ハンドブック』も、江戸時代の使い方に言及するよりは、こちらの使い方を参考にしたほうがよいでしょう。

私の過去の使い方をもう一度見てみると、たしかに、「くらい」「ぐらい」を混用してはいます。でも、よりくわしく見ると、動詞などの活用語は、ほぼ清音の「くらい」を使っています。大まかにいえば、幸田文の使い方と矛盾するものではないようです。

しかし、今や、私はこの「くらい」「ぐらい」を無意識に使い分けることはできなくなってしまいました。いろいろ考えすぎたために、ネイティブ・スピーカー(母語話者)としての言語感覚が失われてしまったのです。おそらく、この先は、自分で意識的に決めたとおり、原則としては清音の「くらい」を使うでしょう。そして、たまに濁音の「ぐらい」を使いたくなったときも、その直前が体言であるのか(それなら使う)、体言でないのか(それなら使わない)、あとから覚えた知識に照らして、いちいち確かめるでしょう。ことばにこだわりすぎると、このように不幸なことになります。

なお、私は「そのくらい(そのぐらい)」とはほとんど言わず、以前から、「それくらい(それぐらい)」を使っていました。「それ――」のほうが、歴史的には新しいようです。
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2006年03月05日

「だろうが」は怖い

脚本家の内館牧子さんが、少し前に、横綱審議委員として、優秀な力士が三賞に入らなかったことについて批判していました。
 これ〔雅山・白鵬・朝赤龍などが三賞に入らなかったこと〕に関しては、七月十九日の朝日新聞で、選考委員の記者も触れており、「殊勲、敢闘、技能の順に決めていった際に、選考の思惑がぶつかり、“三すくみ”状態に。」と、部外者には理解不能の、妙ちくりんな文章を載せている。
 しかし、これこそ本末転倒だ。思惑だの「三すくみ」だのは、力士と何の関係もない。十五日間を懸命に戦った力士を、きちんと絶対値で選ぶ姿勢は、選考委員の必須条件だろうが。〔内館牧子・暖簾にひじ鉄177〕(「週刊朝日」2004.08.06 p.64)
内館さんのこの文章は、特に最後のところは、ずいぶん怖い感じがします。なぜ怖いのか。その鍵は「だろうが」にあります。

助詞「が」の使い方のひとつに、「だろうが」「でしょうが」などの形で文末につき、「念をおして相手をなっとくさせようとする気持ちをあらわす」(『三省堂国語辞典』)場合があります。「どうです、大したものでしょうが」(同)のように。辞書によっては、必ずしも載っていない用法です。しかし、たしかにこういう使い方はあります。

この用法の「が」は、おもに会話で出て来ます。
「この黄色いドレスの切れつぱしが、あなたの目から出た以上はですな」と酔つぱらひが云つた。「あなたは過去において、黄色いドレスの婦人の胸に、顔を押しつけたことがあつたでせうが。どうです、図星でせうが。」(井伏鱒二「晩春の旅」〔1952年発表〕『短編小説傑作選 戦後50年の作家たち』文藝春秋 p.134)
「顔を押しつけたことがあったでしょう。違いますか?」「図星でしょう。違いますか?」と念を押しているのですね。

文章の中で使う場合も、やはり会話的な感じがします。最近のことば遣いがいやだという女性が、新聞に次のように書いていました。
「AはBより全然強い」「あの娘(こ)全然可愛い」とか聞くけど、それを言うなら「断然強い」「すごく可愛い」でしょーが。〔浦和市・今は無職 28〕(「朝日新聞」1996.07.20 埼玉2面)
「しょー」と長音符号を使って引っ張っているせいもあるけれど、耳で聞いても、会話体という感じがするはずです。

これを男が言うと「だろうが」になります。
 茶の間から家庭内暴力を演じているらしい中学生時代の息子が出てきて怒鳴る。
「おれのせいにすることねえだろうが。どうせ出かけるつもりだったんじゃねえか。どこへでも行きやがれ。浮気してこい」(筒井康隆『家族場面』〔1993年発表〕1995 新潮社 p.132)
文脈にもよりますが、「でしょうが」が「だろうが」になると、とたんに粗雑な感じになります。そのわけは、「だ」がもともと男が使うことばであるのに加えて、相手の反論を封じるように念を押すところが、圧力を感じさせるからでしょう。

この、会話の感じの強い「だろうが」を、「でしょうが」と同じつもりで、ふつう体(だ・である体)の文章の中で使うことがあります。冒頭の内館牧子さんの例はそれです。

おそらく、内館さんは、ふだんの会話でなら「こういうことは、委員の必須条件でしょうが!」と「でしょうが」を使って言うのでしょう。でも、ふつう体では「です・ます」を使わないので、「でしょうが」を自動的に「だろうが」に変換したのでしょう。そこで、もともと男が会話で使うことの多い「だろうが」と形が一致してしまいました。

文章中で、このような「だろうが」に出会うと、なんだか、内館さんが極道の妻か何かの格好をして、啖呵を切っているような、怖い感じがします。女性に限らず、男性も文章の中で「でしょうが」と同じつもりで「だろうが」を使うことがありますが、やはり怖い感じになります。「でしょうが」と「だろうが」とは、語感が非常に違うのです。
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2006年02月28日

「続きまして」「したがいまして」はだめか

「ふつう体」(だ・である体)と「ていねい体」(です・ます体)の話です。文部科学省が「常体」「敬体」と言っているものですが、私は好きではありません。ここでは「ふつう体」「ていねい体」と言うことにします。

NHK放送文化研究所編『NHK ことばのハンドブック 第2版』(NHK出版)p.43-44で、「かかわりませんで」という言い方について触れています。
 「あいにくの雨にもかかわりませんで」という表現はおかしい。「〜にもかかわらず」は,一種の慣用句であるから,「雨にもかかわらず」とするか,「雨でしたが」などとする。
 「続いて」「したがって」を「続きまして」「したがいまして」と言うのも同様におかしい。
なるほど、「かかわりませんで」という言い方は、私にも標準的ではないと思われます。無意識に言うことがあるかもしれませんが、積極的には使わないでしょう。

ただ、「慣用句だから」、1つの言い方しかない、という説明はへんです。「続いて」を「続きまして」、「したがって」を「したがいまして」と言っても悪くはないはずです。

「です」「ます」を使いにくい場合というのは、たしかにあります。たとえば、叙述(ひとまとまりの出来事を述べること)の途中にはあまり使いません。「電車の中で立って本を読んでいた」をていねい体に直すと、「電車の中で立って本を読んでいました」と、最後はていねい形になりますが、一方、前の部分は「電車の中で立ちまして本を読んでいました」のようには言いにくい感じです。もし言うと、それは「電車の中で立ち上がるという動作をした、そして、本を読んでいた」と、2つのことを叙述しているように受け取られます。

「続いて」「したがって」をていねい体にしにくいのも、それが慣用句だからというよりは、叙述の途中に使われることばだからです。

しかし、「『です』『ます』は叙述の最後にしかつけない」というのは、絶対的なルールではありません。非常にていねいに言おうとすれば、途中に来ることばにも「です」「ます」を使うこともあります。

『三省堂国語辞典』は、「続いて」のように下に続くことばにも、積極的にていねい形を認める日本語辞書です。この辞書では、たとえば、
つづい て[続いて](接)〔略〕〔「続きまして」は、ていねいな言い方〕

したがっ て[(従って)](接)〔略〕〔「したがいまして」は、ていねいな言い方〕
と、わざわざ注記を添えています(第5版による。以下同じ)。「もって(以て)」の項目にも、「「これをもちまして」は、ていねいな言い方」と書いています。

なかでも特徴的なのは、「おいて(於いて)」のていねい形です。この辞書では
おきまし て[(×於きまして)](連語)「おいて」の ていねいな言い方。〔後略〕

おき ます(る)[(×於きます(る))](連語)「おける」の ていねいな言い方。
と、見出しにまで立てています。

私は、この辞書の方針を支持します。つまり、日本語には「ふつう体」と「ていねい体」という2つの文体があり、それぞれの文体によって、使われる「慣用句」は違うのです。「続いて」は、ふつう体での慣用句ではありますが、ていねい体では「続いて」と「続きまして」の2つの慣用句を使うということです。

なお、「かかわりませんで」に違和感があるのは、「ていねい体」「ふつう体」とは別のところに原因があります。これは「んで」ということばがいけないのです。もし、「ます」を取らずに、「お知らせいただいたにもかかわりませず、失念をいたしておりまして……」と言っても、日本語として不自然ではありません。ばかていねいではありますが、不自然さとは別問題です。「かかわりませんで」の場合、「ます」そのものが問題なのではなく、「ます」に「んで」が続いていることが、違和感の原因です。

『三省堂国語辞典』には、「かかわらず」の項目に「「かかわりませず」は、ていねいな言い方」と、目配りよろしく、ちゃんと書いてありました。


関連文章=「「始めまして」か「初めまして」か
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2006年02月15日

「膝栗毛」程度を表すことば

以前書いた「おそろしい光る」などに関係する話です。

「すごく面白い」でなく「すごい面白い」、「おそろしく光る」でなく「おそろしい光る」というように、ふつうなら「〜く」の形で程度を表すところを「〜い」で表す語法があります。「すごい面白い」はことばの乱れだ、と言われますが、この語法は、少なくとも江戸時代からあって、「えらい」とか「きつい」とかいうことばにこの用法が見られます。

「東海道中膝栗毛」にも、このような用法をもつことばが出てきます。
上方「わしも毎年{まいとし}くだるものじやが、おゑどはきよとい{気疎}はんじやうなとこじやわいの。(三編下〔1804 文化元年〕岩波文庫 p.230)
これは袋井の宿(遠江国)で道連れになった上方者のせりふです。「私も毎年江戸に行くが、お江戸は非常に繁華なところですね」というのです。ここに「きよとい」ということばが出て来ます。

「きよとい」はもともと「気疎(けうと)い」で、「いやだ」とか「恐ろしい」とかいう意味でしたが、ここでは単に「非常に」「たいへん」という、程度の意味を表しています。ふつうに考えれば「きよとく繁盛な所」と「〜く」で言いそうですが「きよとい繁盛な所」と「〜い」になっているのが、不規則です。まさしく「すごい面白い」の先祖にあたる言い方です。

今でも「気疎い」は、「きょーとい」「きょーてー」などの形で中国・近畿地方などで使われています。岡山県でも、「きょーてー厚かましい奴」(気疎い厚かましい奴)のように、「〜く」の形でなく「〜い」(なまって「〜え」)の形で使われています。そのことは「ぼっけえ、きょうてえ」で触れました。

また、「ついにない」ということばも、同じ用法で使われています。
弥次「コリヤみなさま御めんなせへ。とんだばんくるはせをいたしやした トついにないしよげかへりて、そこらとりかたづける。(四編下〔1805 文化2年〕岩波文庫 p.317)
熱田から桑名への渡し船の中で、弥次郎兵衛がまあちょっと汚い失敗をやらかして、そのわびを言う場面です。「ついにない」は「これまでにない」ということです。あまりにもばかな話だったので、「これまでになくしょげかえって」というのです。「ついになく」と言えばいいところを、「ついにない」と、これも「〜い」の形で用いています。やはり、「すごい面白い」の先祖です。

ここは、地の文章なので、特別にどこかの方言というつもりで書いたのではなさそうです。「ついにないしょげかえる」は、江戸で通用することばだと考えていいのではないでしょうか。
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2006年02月04日

いいえ、まだ決めません

NPO法人「浜松日本語・日本文化研究会」のニューズレター「異文化交差点」Vol.16(2003.09.01)で、加藤庸子氏がおもしろい話を書いています。

人に「(何かを)決めましたか」と聞かれたとき、「いいえ、まだ決めていません」とは言いますが、「まだ決めません」とは言いません。そのことを日本語学習者に説明したら、「でも、終わっていないときには『まだ終わりません』とも言うではないか」と逆襲されたそうです。

そこで加藤氏が『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(スリーエーネットワーク)を参照すると、次の説明があったということです(今、原典で確かめました)。
現代共通語では現在完了の否定は「まだ〜ていない」で表すのが普通ですが、少し以前までは「まだ〜ない」が一般的でした。現在でもそのなごりとして、非意志的自動詞の場合には「まだ〜ない」も使われます。もちろん、この場合でも「まだ〜ていない」は使えます。(p.69)
「終わる」は非意志的自動詞だから「まだ終わりません」と言うけれど、「決める」は意志的他動詞だからそうは言わないんですね。

加藤氏は、私が著書で昭和初期の使用例を紹介していることにも触れてくださりながら、
少し以前までは「まだ〜ない」が一般的でしたというくだりの「少し以前」とは、いったいいつのことなのでしょう。
と疑問を記しています。

さあ、そう言われてみると、たしかになぞです。

「決めましたか」と聞かれて「まだ決めません」と言うだけでなく「まだ決めていません」と言うような語法が文献に現れるのは、明治10年代後半だということです(赤峯裕子氏〈1989.06〉による)。では、一方、「まだ決めません」のような言い方がすたれてきたのはいつごろか、という研究があるのかどうか、私は知りません。

私は、『遊ぶ日本語 不思議な日本語』の中で、昭和初期の車掌の「乗り換え〔の切符〕を切らない方はお切らせ願います」という言い方を紹介しました。加藤氏が触れてくださったのはこの例です。今ならば「(まだ)切っていない方は」と言うでしょう。少なくとも、昭和初期には「まだ+他動詞+ない」で未実現のことを表す使い方が残っていたのは確かです。

ただ、もっと後の例にも、時々お目にかかります。
坊津郵便局の女事務員は、私が転勤するというので、葉書二十枚をはなむけに呉{く}れた。衣嚢{いのう}の底に、それはしまってある。まだ一枚も使わない。(梅崎春生「桜島」〔1947年単行本〕『桜島 日の果て 幻化』講談社文芸文庫 p.98)

卓治に言われて、まだエンジンを切らない車体から三脚を外す。(高樹のぶ子『光抱く友よ』〔1984年発表〕新潮文庫 1987年発行 2000年24刷 p.56)
このように、わりあい最近にも使われています。「すたれた時期」を特定するには、大がかりな数量調査が必要でしょう。
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2006年02月02日

複文の傑作

日本語の文には3種類あります。「単文・重文・複文」の3つです。このうち、特に複文とはどういうものかを説明するために、非常に素晴らしい例文が、かつてテレビコマーシャルで流れていました。

それはJT(日本たばこ)のコマーシャルです。いろいろな場面が目まぐるしく切り替わる画面にナレーションが重なり、「Aさんが何々している時に、Bさんは何々していた時に、Cさんは……」と、えんえんと続きます。と、ここで改めて書くまでもなく、有名なコマーシャルでしょう。

「Aさんが何々していた」というのは1つの文です。これが、「ある時に、Bさんは何々していた」というもう1つの文の中に組み込まれ、いわばサメにくっつくコバンザメのようになっています。こういうものを、複文と言っています。

JTのコマーシャルのナレーションは、典型的な複文です。というよりは、こんな複文は今までなかったのではないでしょうか。ふつうは、「Aさんが何々している時に、Bさんは何々していた。」で終わりです。これ以上、続けようがありません。ところが、それをさらに「Bさんは何々していた時に……」とむりやり続けています。むりやりなので、多少日本語としておかしくなってはいますが、分かりやすく、ユーモアのある傑作です。

コマーシャル放送中に、「これはおもしろい」と思って、メモをした覚えがあります。しかし、あとで確認してみると、それがどこに行ったのか分からなくなっていました。JTのホームページを見ても、以前のコマーシャルは削除されているようです。

別のサイトで検索しようにも、何しろ原文を覚えていないので、検索しようがありません。思いあまって、JTのお客様相談センターに電話で問い合わせました。そうしたら、たしかに「古いものは削除されている」とのことで、ファクシミリでいくつかのバージョンのナレーションを送ってくださいました。恐縮のほかありません。

一番古いものは2004.04から2005.03にかけて放送されたようです。以下、そのナレーション。
JTで薬の研究開発をしている石井さんが昼休みに「ルーツ」を飲んでほっと一息ついている時に、息子の卓也君は「お弁当のミニ春巻」を隣の席の健志君と取り合いをしている時に、健志君のお母さんの本田さんが「サンジェルマン」で、焼きたてのパン「ピエール」に目を奪われているときに、旦那さんの耕司さんが一服している「スモーカー」も、世の中をちょっとうれしくしているJTです。(「12時にあなたが出会っているJT」)
原文を入手してから、改めてこの中の語句を使ってネットを検索してみると、何のことはない、JTのサイトの中で、「ブランディングカンパニーへ」と題するPDFファイルが見つかりました。わざわざファクシミリを送ってもらう必要はありませんでした。ただ、いつまた削除されるかもしれないし、他のサイトに引用されている文章は、文字遣いなどが異なったり誤ったりしているので、私が言語資料として、ここに引用しておくのもむだではないでしょう。

ちなみに、「重文」というのは、上のような複文とは違い、「花は咲き、鳥は歌い、風は流れ、月はかすみ……」というふうに、文が電池の直列のようにつながっているものを指します。

「単文」は、「花が咲いた」とか、「赤い花がみごとに咲いた」とか、とにかく1つの文だけからなるものを指します。

一概には言えませんが、文はできればかんたんな単文で書くのがよいと考えます。重文や複文は長くなりやすいので、注意が必要です。

蛇足。JTが「ブランディングカンパニー」として医薬・食品の事業を展開し、社会貢献活動に取り組んでいることを支持します。たばこ事業からはもう撤退してもいいのではありませんか。
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2006年01月30日

教えるべきか、教えないべきか

子どもの教育が難しい、という話の中で、齋藤孝氏が次のように書いています。
 親が子になにを教えるか、教えたいか、教えるべきか、教えないべきか、これはもう教育の神髄といえますが、一方で、これほど技術がむずかしいものはない。〔齋藤孝のサイトー変換・30〕(「AERA」2005.04.11 p.80)
この「教えないべき」という言い方は、昔はなかったか、ごくごくまれだったと思われます。ことばの並び方の順番としては、「べき」の後に「ない」が来て、「教えるべきでない」となるのがふつうでした。近現代の主な文章を調べてみると、「べきでない」はたくさん出てきますが、「ないべき」は出て来ません。

今や、この言い方には、ときどきぶつかります。地下鉄サリン事件の時、患者を救うために尽くした聖路加国際病院救命センターの石松伸一さんは、後にテレビで次のようにコメントしました。
あのー状況で、あのー〔解毒剤の〕「パム」という薬を使うべきか、使わないべきか、あのー、かなり悩みましたね。(NHK「プロジェクトX・挑戦者たち」2005.02.08 21:15)
また、民主党の中村哲治代議士(当時)は
私たち政治家が、NHKの経営陣の人事について、やめるべき、やめないべきと申し上げることが政治介入になりかねませんから、不適切であると思います。(「NHK17年度予算審議〜衆議院総務委員会」2005.03.15 9:50)
と発言しました。

この言い方が新しいということを指摘すれば、話はおしまいですが、では、なぜ昔はふつうでなかったのかについて、多少考えをめぐらしてみます。

昔は、「……べからず」のように「べし+否定」の順に並ぶだけでなく、「……ざるべし」のように、「否定+べし」の順番で並ぶこともありました。しかし、この両者は意味が違っていました。

「源氏物語」で「べし+否定」で出てくるのは、たとえば、「かたみに言ひあはすべきにあらねば」(互いに話し合ってよいことではないから)のように「不適当」を表す場合や、「さすがに折るべくもあらず」(さすがに手折ることはできそうにもない)のように「不可能」を表す場合です。一方、「否定+べし」の形で出て来るときは、たとえば「御文などは絶えざるべし」(お便りなどは絶えないのであろう)というように、「確実な推量」を表しました。

「教えることは適当でない」と言いたい場合、「不適当」を表す言い方を選ぶ必要があります。古代ならば、「べし+否定」の順で、「教ふべきにあらず」「教ふべからず」などと言ったところでしょう。これは、「禁止」の言い方にもなりました。一方、「否定+べし」の順で「教へざるべし」とすると、「教えないだろう」という「推量」の意味になってしまいます。

口語で「教えないべき」とは言わなかったのは、文語の言い方が受け継がれていたからでしょう。ところが、時代とともに、「べき」は主として「適当」や「可能」の意味に使われるようになり、「推量」に使われることが少なくなりました。つまり、文語のしがらみが薄れました。そこで、文語の世界ではふつうでなかった承接の順が生まれたのでしょう。
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2006年01月25日

かな、と思います

もう昔の話ですが、ある問題への解決策を示した人が、私に意見を求めました。私は、賛成の意を表そうとして、「それが唯一の解決策なのかな、と思います」と答えました。

この言い方が悪かったのです。先方の気分をひどく害したようでした。「あなたは、私の言ったのが唯一の解決策ではないと思うのか? そのように、何にでも反対しては結論が出ないではないか。それならば、対案を出されたし」と、たいへんな剣幕です。

私の発言の中の「かな」ということばが誤解されたんですね。「かな」は、疑いの意味を表します。そこで、先方は、私が「それは唯一の解決策であろうか、いや、ない」と反対意見を持っていると受け取ったのです。

こちらのつもりとしては、反対しようなどとは思っていませんでした。「それが唯一の解決策なのかな、と思います」は、ほとんど「それが唯一の解決策だろうと思います」と同じ意味でした。「かな」は、相手への疑いを表すこともありますが、単なる婉曲表現としても使われます。

私は、不用意に「かな」を使うと、人との間に摩擦を生じることを学びました。以来、「かな」の使用には慎重になりました。人が「かな」を口癖のように使っているのを聞くたびに、なんだかはらはらしています。

実際、多くの人が「○○かな、と思います」というのを口癖にしています。「ホームヘルパーの仕事上のトラブルを避けるにはどうしたらいいか」について、コメントを求められた人が次のように答えていました。
安全・安心な介護を提供するためには、あのー、まあ、なんてんでしょうね、ヘルパーさんの職務にして、そこで研修をしていくことが必要なのかなと思います。(NHK「ニュースおはよう日本」2004.09.26 7:00)
この人は、研修が必要だと思っているのか、必要でないと思っているのか。コメントの形式をみると、「安全・安心な介護を提供するためには」と話し始めているので、当然、その後には「○○が必要です」という答えが用意されているはずです。「研修をしていくことが必要」という発言がその答えにあたるということは、文脈から明らかです。しかし、ことば尻を捉えようと思えば捉えられるでしょう。

次の例はどうでしょうか。ある市の教育長が、子どもを犯罪から守る方法について語っていました。
具体的に、これが足りなかったっていう、それをなかなか見つけることができない。〔VTR省略あり〕地域全体で、ま、見守ること、それが本当に足りないのかな、と思ってしまいますね。(NHK「クローズアップ現代・子どもの命を守るために」2005.12.08 19:30)
テレビでは、発言が編集されているのが困りますが、前後の脈絡や表情などから、教育長の意図は明らかです。「地域全体で子どもを見守ることが、本当に足りない」と主張しているのです。しかし、ここの部分だけを捉えれば、「地域全体で子どもを見守ることが足りないだろうか、いや、これまで十分見守ってきている」と主張しているようにも受け取られかねません。

相手も日本語を解する人ならば、ふつうは、文脈などから真意を読み取ってくれるでしょう。しかし、そうでない場合もあります。いちばんいいのは、不必要な「かな」を使わないことです。

「かな」が癖になっている人は、何でも使ってしまいます。自分の感情について使うこともあります。
〔キツネザルの〕2番目の子が今、巣箱から顔を出して、あのー、見てても親子で可愛いシーンが見られると思いますのでね、ぜひとも、あのご覧なっていただけたらありがたいかなと思います。(NHK「ニュース7」2005.06.04 19:00)
これは、動物園の飼育係の発言です。キツネザルをたくさんの人が見に来てくれれば、彼としてはありがたいに決まっているのに、つい「ありがたいかな」と「かな」をつけています。

自分の感情にもかかわらず、「うれしいかな」「こわいかな」と言っている人はよくいます。聞き耳を立ててみてください。
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2006年01月24日

「じゃないですか」の先祖

平成9年度(1997年度)の「国語に関する世論調査」によれば、初対面の人に「私ってコーヒーが好きじゃないですか」という言い方を「唐突」だと思う人は約半数にのぼるということです。「最近、このような『〜じゃないですか』の用法が多くて困る」という声は多く聞かれます。

「最近」と書きましたが、私は、こういった語法が最近のものかどうか、疑っています。

たしかに、話し手がコーヒーが好きかどうかを知らない聞き手にとって、「コーヒーが好きじゃないですか」と言われても、「そんなことは知らない」と言うしかないでしょう。「まったく、へんな言い方がはやる。日本語はどうなってしまうのだろう」というところまで考えが発展するとしても無理はありません。

しかし、相手の知らないことを、知っているように表現する言い方は、ずいぶん昔からあったようです。

森鴎外の小説「身上話」(1910年発表)の中で、若い女中が次のように言うところがあります。
丁度(ちょうど)其頃(そのころ)わたくしひどく困まっていまして、可笑(おか)しなお話ですが、着物も体に附けているのしきゃないのでしょう。それが方々摩(す)り切れて、お客様の前へ出る度に、気になって気になってならないのでしょう。困ると智慧(ちえ)が出るものでございますのね。(『新潮名作選 百年の文学』p.9〔ルビを付加、文字遣い改める〕)
この「〜でしょう」は、まさしく、今の用法の「〜じゃないですか」にあたります。今ふうに言えば、「着物も1着しかないじゃないですか」「お客さんの前に出ると、気になってしかたがないじゃないですか」といった感じでしょうか。聞き手としては、「そんなこと、知らないよ」と言うしかありません。

同様の言い方を、夏目漱石も小説で使っています。主人公の敬太郎に対して、友人の森本が、
「今朝の景色は寐坊{ねぼう}の貴方に見せたい様だった。何しろ日がかんかん当ってる癖に靄{もや}が一杯なんでしょう。電車を此方から透かして見ると、乗客がまるで障子に映る影画の様に、はっきり一人々々見分けられるんです。(『彼岸過迄』〔1912年発表〕新潮文庫 1952年発行 1990年67刷改版 2005年88刷 p.13)
ここでは、主人公の見ていない今朝の景色について「靄が一杯なんでしょう」、つまり、「もやがいっぱいじゃないですか」と言っています。敬太郎は寝ていたのですから、そんなことを聞かれても答えようがないはずです。

もうひとつ、だめ押しに谷崎潤一郎の例を挙げておきます。
彼奴(きゃつ)の為(た)めには、私は時々魘(うな)されますよ。叔父様が亡(なくな)ってから、一度暇を出したんだけれど、其(そ)の時なんざ、私達親子を怨んで、毎日々々刃物を懐(ふところ)にして、家の周囲(まわり)をうろついてるッて騒ぎなんだろう。まあ私達がどんなに酷(ひど)い事でもしたようで世間体(せけんてい)が悪いじゃないか。(「悪魔」〔1912年発表〕『谷崎潤一郎全集 第1巻』中央公論社 1981.05初版 p.291〔ルビを付加、文字遣い改める〕)
これは、主人公の下宿先のおばさんのせりふです。「あの男が刃物を持って、毎日家のまわりをうろついているという騒ぎじゃないですか」というわけです。男が刃物を持っているかどうかは、主人公は、当然、それまで知らなかったのです。

こう見てみると、どの例もなぜか1910年代のものです。しかし、これは偶然でしょう。1980年代の向田邦子の小説にも同様の言い方が出てきます。
「物凄い美人かと思ったら反対でしょ。門倉のおじさんたら芋俵だなんて」
 三日逢わないと三日分の出来ごとを、さと子は石川義彦に話すのが楽しみだった。(『あ・うん』〔1980-1981年発表〕文春文庫 2003.08.10 新装版第1刷 p.171)
ある職人の女房について、みんながきっと美人なのだろうと予想していたら、実物は芋俵のようだった、というのです。現代ならば「きっとすごい美人かと思ったら、真逆(まぎゃく)じゃないですか」というところです。ただ、この例の場合、ここに来るまでに、女房の実際の容貌が「色黒、小肥り」ということについては触れられているので、「反対でしょ」というのは、必ずしも唐突ではないかもしれません。

ほかにも、考えてみれば、昔話などでも「聞き手の知らないはずのことを、さも知っているかのように言う」という語法はあります。戦後の国定読本(国語教科書)にとられている「金のさかな」という物語では、
おじいさんが帰ってみると、どうでしょう、ちゃんとごてんができていて、おばあさんは女王になっているではありませんか
物語の聞き手は、おばあさんが女王になったかどうかなんて、あらかじめ知るわけはありません。「女王になっているではありませんか」と言われても、「知りませんよ」と言うしかないわけです。

こう見てくると、現在のように、聞き手が知らないことについて「〜じゃないですか」と言うような語法は、発想としては新奇なものではないことが分かります。鴎外・漱石も使っており、国定教科書にも載っています。

もっと言えば、「源氏物語」にも同様の例があります。
「朧月夜に似るものぞなき」と、うち誦じて、こなたざまには来るものか。(花宴)
のように出てくるのも、同じ発想でしょう。「女の人が、歌いながら、こちらに来るじゃないですか」と言っているのです。物語の聞き手は、女の人が来るかどうか、もちろん知りはしません。

ずいぶん伝統的な語法ではありませんか。

追記
江戸川乱歩の1926年の作品にも、この語法が出て来ます。人妻が一人称で次のように語っています。
その道がまた、お天気でもじめじめしたような地面で、しげみの中には、大きなガマが住んでいて、グルルル……グルルル……と、いやな鳴き声さえたてるのでございましょう。それをやっとしんぼうして、蔵の中へたどりついても、そこも同じようにまっ暗で、(「人でなしの恋」『人間椅子 他九編』春陽文庫 1987年新装版 1996年22刷 p.189)
茂みにガマガエルがすんでいるか、鳴き声を立てているかは、聞き手が知るはずのないことです。

関連文章=「「私って〜じゃないですか」なんて言う人はいるのか


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2006年01月22日

ニュースの「ウナギ文」今昔

「ぼくはうなぎを注文したい」としまいまで言わずに「ぼくはうなぎだ」でやめてしまうのを「ウナギ文」といいます(奥津敬一郎氏の用語)。これでちゃんと誤解なく意味が通じるのは、「だ」ということばが非常に能力に富んでいるからです。

ところで、最近、ニュースの中で、このウナギ文がよく聞かれるようになっています。たとえば、商品の販売価格が税込みの総額表示に切り替わったというニュースの冒頭で、
値札に注意です。(NHK「週刊ニュース」2004.04.03 8:30)
などと言います。これは、きちんと言えば「値札に注意が必要です」とかなんとか続くのでしょうが、「です」(「だ」のていねい形)の力によって、あとを全部省略してしまうのです。これはウナギ文です。

ニュースの冒頭部分だけでなく、本文の中で使われることもあります。たとえば、
先月の石油ストーブの販売は前の年のほぼ2倍、石油ファンヒーターは3倍にも増えました。ただ、燃料の灯油は高騰です。石油情報センターによりますと、おとといの時点で、灯油の平均小売価格は、18リットルあたり消費税込みの店頭価格で1,336円。先週に比べて34円値上がりし、4週連続で最高値を更新です。(NHK「ニュース7」2006.01.12 19:00)
これは、「灯油は高騰しています」「最高値を更新しています」の「しています」が「です」になったものです(「こういうのもウナギ文か」と疑う向きもあるかもしれませんが、動詞の代用に「だ」が用いられているという点では、やはりウナギ文の一種と考えて差し支えないでしょう)。

さて、この言い方は「最近」聞かれるようになったと言いましたが、50年前のテレビニュースにもあります。
炭坑に働く人、田植え姿の農村の人々と、国民の審判が下り、戦い終わった岸総理大臣や社会党の鈴木委員長も投票です

6月24日夜10時過ぎ、阿蘇山が突然の大爆発です。吹き出る煙は700メートルの高さにまで上り、火口から半径2キロは一面火山灰で覆われました。

一方、警官職務法に対する国民の批判も次第に高まり、日本学術会議が法案の取り扱いを慎重にしてほしいと政府に申し入れです。(ビデオ「NHK THE NEWS 1958年」NHKエンタープライズ)
これらは、きちんと言えば「投票(を)しました」「大爆発(を)しました(起こしました)」「申し入れをしました」となるはずです。省略のしかたとしては、今のニュースの言い方とまったく同じです。

それでは、今と昔の中間、10年前、20年前のテレビニュースには、こういう言い方はなかったかというと、よく分かりません。どんなことでも、「なかった」ことを証明するのは難しいことです。

(「ことば会議室」の「「です」の拡張」の議論を参考にしました。)

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2006年01月13日

夏目漱石も「さ入れことば」

フジテレビ「SMAP×SMAP」で、中居正広さんが、
えー当ビストロには一切メニューはございません。好きな料理を言っていただければ何でも作らさせてもらいます。(1999.07.12 22:00 放送より)
と言うのは、いわゆる「さ入れことば」です。今はどう言っているか知りません。これをメモした7年前には言っていたのです。「作らせてもらいます」と言えばよいところに「さ」を入れているので、「さ入れことば」と言います。

ときどき誤解をする人がいるので念を押しておくと、「作る」「読む」「やる」のような五段活用動詞には「せる」が、「試みる」「食べる」「投げる」のような一段活用動詞には「させる」がつくのが伝統的です。「作る」に「させる」がつくのは新しい接続のしかたです。

もっとも、この「さ入れことば」は、鎌倉時代の文章にも見られるということは、以前「鎌倉時代の「さ入れことば」」に書きました。「東海道中膝栗毛」にもこの語法があると言い添えました。

ついでに言えば、「天草本伊曽保物語」(16世紀)にも「さ入れ」の例があります。
まことやこの頃は音声{おんじやう}もあきらかになつて、歌はせらるる声もおもしろいと承る、一曲聞かさせられいかし」といへば〔原文「qicasaxerarei caxito iyeba」〕、(「鴉と狐の事」岩波文庫 p.44)
これは「聞かられいかし」(聞かせてください)と言えばいいところです。

今回、あっとびっくりしたのは、夏目漱石もこの「さ入れことば」を使っているということです。「二百十日」の中に出てくる圭さん・碌さんのうち、碌さんのほうが
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」(新潮文庫『二百十日・野分』1976年発行・1981年8刷 p.16)
と言っています。「さ入れ」でない形で言うなら、「謝ら」です。「謝らせる」でもかまいません。

私自身も、最近、この「さ入れことば」を無意識に使ってしまうことがよくあります。ていねいに言うつもりで、つい、「読ませていただきます」ではなく「読まさせていただきます」などと言っています。わが尊敬する漱石も使っているとなると、この語法をそう嫌わなくてもいいような気もします。

もっとも、漱石の例は、ていねいに言おうとして思わず「さ」が入る今の用法とは、ちょっと違うのですが。
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2006年01月12日

ニュース字幕の「ら抜きことば」

「日本語の乱れ」といえば、ひところは、必ず「ら抜きことば」の話が出て来たものでした。でも、最近は、あまり「ら抜き批判」が聞かれなくなったような気がします。

これは、私がそういう気がするだけなのか、実際に「ら抜き」が話題になることが少なくなったのか。調べる方法はありますが、ここでは深入りせず、「どうもそんな気がする」というに留めておきます。「まあ、『ら抜き』でもいいじゃないか」という人が増えてきたために(これは確実)、議論が盛り上がらなくなってきたのではないかと憶測しています。

NHKニュースを見ていると、人々の発言中の「ら抜きことば」を、字幕スーパーでも「ら抜き」のままで表示している例をしばしば見かけます。NHKの「ら抜き」に対する許容度が高くなってきたことを物語るように思われます。最近のものから拾ってみると……
(1)〔主婦〕きのうも来たんですけど、見れなかったので、きょうは、はい、うれしいです。
〔字幕〕きのうも来たけど見れなかったので
〔東京湾のクジラが沖合に姿を見せる〕(「NHKニュース7」2005.05.08 19:00)

(2)〔九州国立博物館 赤司善彦 展示課長〕普通の人間の目で見れない、とらえられないところまで、この映像で紹介することによって、もっとその、あの展示資料にお客様が関心を持っていただくと、いうことがぼくらのねらいです。
〔字幕〕普通の人間の目で見れない
〔文化財を高画質で 福岡 太宰府〕(NHK「ニュース7」2005.10.07 19:00)
このように、発言も、字幕も、ともに「ら抜き」になっていることがあります。

一方、発言者の「ら抜き」を、字幕では直している場合も、もちろんあります。
(3)〔小学生の女子〕テレビで見てばっかりだったけど、えっと、生で見れてよかったと思います。
〔字幕〕生で見られてよかった
〔“(レッサーパンダの)デール歩いて”動物園に1,000人〕(「NHKニュース7」2005.05.28 19:00)

(4)〔高橋尚子選手〕元気な姿を見せれるように、11月20日〔の大会は〕頑張りますので、どうぞ、あのー本当に沿道やテレビを通して応援してください。
〔字幕〕元気な姿を見せられるように
〔復活かけてQちゃん帰国〕(NHK「ニュース7」2005.11.10 19:00)
これらは、たまたまメモしたものですが、「見れない」のように否定形になった場合は、字幕も「ら抜き」になり、否定形でない場合は字幕も「ら抜き」にしていないのは、単なる偶然でしょうか。

驚くのは、インタビューの相手が「ら抜き」で言っていないのに、字幕では「ら抜き」になっている場合があることです。
(5)〔男性〕ガソリンがないということで、えっとー、ヒーター、あの、エンジンかけられないんで、大分不自由したんです。
〔字幕〕ガソリン無くエンジンかけれなくてとても不自由した
〔新潟県中部地震・ガソリンスタンド再開“助かります”〕(NHK「ニュース」2004.10.31 12:00)
この例の字幕の「かけれなくて」というのは、やはり否定形で、「ら抜き」になっています。NHKニュースの字幕では、否定形の場合に「ら抜き」になりやすいという印象がいっそう強くなりました。
posted by Yeemar at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする