2008年03月09日

使うべし、「とんでもございません」

新宿の地下街で書店に寄った際(3月7日)、『頭がいい人の敬語の使い方』(本郷陽二著、日本文芸社 2006)という本を目にしました。いくつも重ねてあったので、売れているものとみえます。以前に出た本なのに今になって気づいたわけは、帯に次のように大書してあったからです。
使ってませんか!?/「とんでもございません
「おや、自分は『とんでもございません』という言い方を使っているが、誤りなのだろうか?」と思った人が手に取ることをねらっているものとみえます。

この「とんでもございません」は、たしかに、よく敬語の誤りの例として出されるものです。それで、帯で訴えるのにふさわしいと出版社は判断したのでしょう。インターネット書店で確認したかぎりでは(買わなかったので)、「「とんでもございません」はとんでもない誤用」という章または節もあるようです。

筆者の文章の細かいニュアンスを知らずにいうのも気が引けますが、「とんでもない誤用」と断罪することには反対です。筆者は敬語の専門家ではないようですが、そう自信を持って決めつけていいのかと、疑問に思います。

「とんでもない」は、これで熟した一語であるため、「とんでもありません」「とんでもございません」は誤りで、「とんでもないことでございます」と言うべきだとは、よく指摘されます。ちょうど、「もったいない」を「もったいございません」と言わないのと同じに考えれば、たしかに筋は通っています。

ところが、むしろ「とんでもございません」は使ってよいと考えるべき強力な論拠があります。まず第1点として、わりあい古い用例があるということ。「青空文庫」によれば、昭和初期の例があります。
まあとんでもございません。ちょこちょこと致せば何のこともありは致しません。(宮本百合子「海浜一日」1927年)
とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――(林不忘「丹下左膳・こけ猿の巻」1934年)
80年以上前の用例があるということになると、これは定着した言い方と考えるほうが自然です。

次に、第2点として、「とんでもございません」と「とんでもないことでございます」とは意味が違うということです。これは、多くの人々が素朴に感じていることでもあります。たとえば、前述の本を買った人のブログに、次のような感想がありました。
Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもございません。こちらこそ・・・」/といっているところを/Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもないことでございます。・・・」/となると、なんだか責めてるみたいじゃありません?/うーむ、日本語って難しい。/やっぱり「とんでもございません」を封印できないかも。(「ちいさなくらしに、おおきなしあわせ。」2007.11.08)
これはそのとおりで、謙遜するときに「とんでもございません」を使う人でも、政治家の汚職について感想を求められれば「とんでもないことでございます」と言うでしょう。使い分けているのです。

この「とんでもございません」「とんでもないことでございます」の使い分けを広く知らしめたのは、最近、文化審議会が答申した「敬語の指針」(2007年2月)です(第3章、47ページ。PDFファイル)。この「指針」は、美化語・丁重語という敬語の型を示したことで話題になりましたかが、ほかにも注目すべき点があります。論旨が重複しますが、引用します。
〔上略〕「とんでもございません」は,「とんでもないことでございます」とは表そうとする意味が若干異なるという点に留意する必要がある。〔略。褒められた場面で〕「とんでもないことでございます」と言ったのでは,「あなたの褒めたことはとんでもないことだ」という意味にも受け取られるおそれがあるので,注意する必要がある。/ また,例えば,あの人のしていることはとんでもないことだ,と表現したい場合には,「あの方のなさっていることはとんでもございませんね。」などとは言えないが,「とんでもないことでございますね。」などは普通に用いることができる。
このように、不用意に両者の表現を言い換えて使うと、誤解の元にもなりかねないのです。となると、何世紀も前の時代のことはともかく、現代語としては、「とんでもございません」「とんでもないことでございます」は、それぞれ「正しい」日本語であって、別々の役割を果たしていると考えるのが妥当でしょう。

『三省堂国語辞典』第6版でも、以上のような考え方に立って、「とんでもない」の項に以下のように注記してあります。
〔ていねいな言い方は、@〜B〔注・「思いもかけない」「あってはならない」「とほうもない」の意味〕では「―こと・です(でございます)」だが、C〔相手の発言を否定する〕では「とんでも・ありません(ございません)」が多く使われる〕
「敬語の指針」のお墨付きもあることだし、このように注記する辞書は今後も続くでしょう。「とんでもございません」を「とんでもない誤用」と決めつける本は、今後「トンデモ本」と批判されないともかぎりません。
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2006年01月23日

妻から伺っています

日本語の敬語は、厳密に決まっているようで、案外、いろいろなところにルールの空白地帯があります。その1つとして、自分と目上の人の間に、もう1人別の人が関わってくるような場合があります。

たとえば、「私が先生の留守におうちを訪ね、奥様に書類を託した」というような状況を考えてみます。登場人物は「私」「先生」、そして、間に「奥様」が入ります。「私」は奥様に、
先生にこの書類をお届け願えますか
のように言うはずです。そして、実際上は、これで奥様からも先生からも文句は出ないでしょう。ところが、よくよく考えてみると、この文は「奥様」に対する敬意は「お……願う」で表されていますが、「先生」に対しては敬意が表されていません。その証拠に、上の文の「先生」を「私」に入れ替えて、
私にこの書類をお届け願えますか。
としても、失礼な文になりません。つまり、「だれだれに」に当たる人物に敬意が表されていないのです。

この場合、無理に先生にも敬意を表そうとすると、奥様の行動を低めることによってしか実現できません。たとえば「お届けしていただけますか」のような言い方になるはずです。この「お届けして」の部分は、「奥様が先生にお届けする」ということであって、暗に、先生の方が奥様よりも上に位置すると言っていることになります。これは、奥様に対して失礼です。

そうすると、このような場合、先生にも奥様にも申し分のない敬意を表すことは、結局できないことになります。

一方、逆に、こちらが話の中心になる場合にも問題が起こることがあります。たとえば、「先生」「私」そして「私の妻」の3人を登場人物にします。「先生が、私の留守に電話をくれて、妻に研究会の件について伝言をした」という事実があったとします。あとで、「私」は先生に向かって、
研究会の件については、妻から伺っています
と言いたくなります。「先生からのお話は妻を通して伺っています」ということで、「伺う」は先生に敬意を表したつもりです。

ところが、「妻から伺う」という言い方をしてしまうと、これはまるで妻に敬意を表しているように聞こえます。たいへんまずい言い方なのです。

では、「妻から聞いています」と言えばいいでしょうか。たしかに妻への敬意はなくなりましたが、先生への敬意も依然として表されていません。

こういった問題を避けようとすれば、
先生からお話を伺ったと、妻が申しておりました。
などと、まったく別の言い方を工夫する必要があります。ふつうの文を敬語を含む文に変えることは、必ずしも機械的にはできないのです。

(「ことば会議室」の「田中先生、鈴木先生にこれを差し上げて下さい。」の議論を参考にしました。)

追記
「妻から」ともだれからとも言わず、単に「研究会の件については承っています」とすれば、問題は回避できます。「承る」は「伝え聞く」の謙譲語でもありますから、だれかを通じて聞いたという語感が出ます。ただし、だれから聞いたかを示すことができません。「妻から承っています」とすれば、やはり妻を尊敬する表現になってしまいます。(2006.02.10)
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2006年01月20日

50年前のテレビニュース

NHKエンタープライズが1990年前後に発売した「NHK THE NEWS」というビデオの一揃いがあります。NHKのテレビ放送が始まった1953年以降、毎年の重要ニュースを、1年につき1巻ごとにまとめたものです。

古いニュースを改めて見てみると、さすがは半世紀以上前のニュースで、アナウンサーのことばが今とはかなり違っています。

まず、皇室に対する敬語がじつに手厚い。
二重橋をご出門になられた〔皇太子〕殿下には、一路横浜港へと向かわれます。〔1953年〕
「あれっ、これ、戦前のニュースフィルムじゃないよなあ」とまごつきます。今ならば「二重橋を出られた皇太子さまは」と言うところです。仮に「ご出門」ということばを使うとしても、「ご出門になった」が限度でしょう。それにさらに「れる」を足して「ご出門になられた」とするのは、いわゆる二重敬語です。

この二重敬語は、「ご乗船になられます」「おはいりになられました」のように頻出します。ところが、別の箇所では、
大臣や外国使臣などと帰国のあいさつをされた殿下には、ここでメッセージをご発表になりました。〔1953年〕
とも言っています。「ご発表になられました」ではありません。つまり、二重敬語を使おうが使うまいが、どっちでもよかったのかもしれません。

一方では、ふつうの人々に対することばは、乱暴なものがときどきあります。
この水禍で、濁流の犠牲となった人々の死体が運び出されています。そのほとんどが、裸同様の姿というのも、今度の水害がいかに急であったかを物語っています。〔1953年〕
今ならば「遺体」というはずです。別のニュースでは、たとえば洞爺丸の遭難の報道で「変わり果てた死体も続々引き揚げられ」〔1954年〕のように、「死体」がごくふつうに使われています。

また、「当人が怒るのではないか」と思われる表現もあります。
〔漁民が韓国に抑留されたため〕暗い表情に包まれた村では、李ライン問題で話は持ちきり。老婆はまだ帰らぬ息子の心配で、年老いた顔にまたしわが増えたということです。〔1953年〕
画面を見ると、その「老婆」らしき人が映っています。息子の安否が分からず不安な彼女に対して、今日の感覚からすると、思いやりに欠ける言い方のような気がします。

ことばがやたら難しいのも特徴です。「はるかロンドン塔から63発の祝砲が隠々(いんいん)と轟き」〔1953年〕とか、「マニラ郊外モンテンルパで獄窓(ごくそう)生活(=監獄の中の生活)を送っていた108人の人々」〔1953〕とか、すぐに字が思い浮かばないようなことばが次々に出て来ます。

聞き手に分かりやすいことばを意識して使うようになったのは、もう少し後のことでしょう。
posted by Yeemar at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 敬語一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

過剰な「させていただく」はどういう場合か

「私が歌わせていただきます」はていねいすぎる、「私が歌います」でいいではないか、という議論があります。なんでも「〜(さ)せていただきます」をつけるべきでない、と言われます。

学生から、では、どういう場合ならば「〜(さ)せていただきます」を使えるのか、と質問を受けたことがあります。

「〜(さ)せていただく」は、基本的には敬語体系の不備を補う役目があると私は考えます。ふつう、相手に自分が何かするときには、「お(ご)〜する」という言い方をします。しかし、ときにはこの「お(ご)〜する」が使えないときがあって、その場合に「〜(さ)せていただく」を持ち出すのです。

たとえば、相手に料理を取ってあげるときには「お取りします」、相手をどこかに連れて行くときには「ご案内します」と言えます。この「お(ご)〜する」の言い方は、「相手(または相手の所有物)に作用を加える」場合や、「相手(または相手の所有物)をどうにかする」場合に可能です。

ところが、たとえば相手の出版した本を読むときには「お読みします」とは言えません。「相手を(に)どうこうする」という場合ではないからです。「拝読します」という漢語の言い回しはありますが、和語で言おうとすれば「読ませていただきます」とでも言わざるをえません。相手のために何か1曲歌うときも、「お歌いします」と言えない以上は、「歌わせていただきます」としか言えないわけです。

相手に関して何かする場合、「お(ご)〜する」が使えないとすれば、まったく敬語抜きにするか、「〜(さ)せていただく」をどしどし使うか、二者択一ということになります。

では、直接相手に関係がない場合、この言い方は使えるのでしょうか。いくつかの例から考えてみます。
氷川きよし「歌手として、あのデビューさしていただきましたから、えー一曲一曲が勝負ということで、〔下略〕」(NHK「スタジオパークからこんにちは 金曜バラエティー」2005.11.18 12:20)
この例はどうか。「自分がデビューした」のは、別に相手のためではありません。ただ、この場合は「あなた方がご厚意によって私をデビューさせてくれた」という意味合いもありそうです。そのせいか、私にはそれほど違和感がない例です。ていねいすぎる感じはありますが。
堺雅人「(テレビの)「シルクロード」で西安に行かせていただいて、一応シリーズ最終作ということでシルクロードの終着点という形だったんですけど、〔下略〕(NHK「スタジオパークからこんにちは」2005.12.09 13:05)
これも氷川きよしさんと同じ種類の例です。「スタッフが厚意によって私を西安に行かせた」と解釈すれば、それほどおかしくはありません。

一方、「これは私は絶対に言わない」というのは次の例です。
民主党・前原代表「(長野県栄村を視察して)改めて大雪の被害、そして、すごさというものを体感をさしていただきました。」(NHK「ニュース7」2006.01.15 19:00)
これは自分の感覚ですから、どう考えても、他人の意図とは無関係に、自然に湧き起こってくるものです。相手のために体感したわけでもなければ、だれかの厚意で体感したわけでもありません。まあ、無理に言えば、人々が尽力して前原氏にそういう気持ちが起こるようにし向けた、と言えないこともありませんが、苦しい解釈です。

自分が感覚を持ったり、感情を抱いたりすることについては「〜(さ)せていただきます」が使いにくいということが、この例で分かります。ほかに使いにくいのは、どんな場合でしょうか。
posted by Yeemar at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 敬語一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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