今のコンピュータ時代にあっても、日本の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます(「文字のスナップ」参照)。とはいえ、以前に比べれば、私たちはペンを持つことが少なくなり、書いた文字を人に見せる機会も減りました。まして、新しい漢字や漢字字体を生み出して流通させることもむずかしくなりました。私たちの書写生活の大部分は、規格化されたコンピュータ文字に支配され、画一化に向かっているとみることもできます。少なくとも、私はそうだろうと思っていました。
ところが、それは一面的な理解に過ぎなかったことを、笹原氏の近著『訓読みのはなし』(光文社新書)で気づかされました。なるほど、漢字の字体はコンピュータによって堅固な枠がはめられました(堅固というのは私が言っているだけで、異論が出るかもしれません)。でも、漢字には、字体の要素以外に、「よみ」という要素があります。漢字に日本語をあててよむ「訓読み」の多様さ、自由さは、今日でもなお衰えていません。コンピュータによる制約を受けることなく、新しい訓が生まれ、古い訓が滅んで、新陳代謝を続けています。本書はそのことを豊富な実例で教えてくれます。
印象的な一例を挙げれば、最近では、「おなかがぺこぺこ」というときに、「お腹凹凹」と書く人がいるのだそうです(p.139)。「凹」という文字自体は、常用漢字にもあるし、特にめずらしい漢字ではありません。しかし、それを「ぺこぺこ」ということばと結びつけたところが大発明です。「ぺこぺこ」ということばを書きあらわす漢字がなかったところへ、忽然とその漢字が現れたという点では、新しい漢字が発明されたのと同じぐらいの価値があります。「ぺこぺこ」の「ぺこ」は「へこむ」と関係があるでしょうから、「凹む」の「凹」が使われるのは理にかなってもいます。
昨日整理していた週刊誌で、たまたま「猿公」という文字を目にしました。「えてこう」とルビが振ってあります。
野鳥とふれあうこころの安らぎを求めて、山里の湖沼にバードウォッチングに来てみたが、神出鬼没の猿公{えてこう}のわるさ連発でストレス倍増! そんな光景のイラストが7枚にクラッシュ! でも、よ〜く見ると6枚はどこかが違っています。間違いのない1枚は、A〜Gのうち、どれでしょう?(『週刊朝日』2008.05.16 p.77)「えてこう」を表記する漢字として「猿公」を示している辞書もありますが、たとえば『三省堂国語辞典』では示していません(そもそも、「えて」の項目しかありません)。「猿公」に「えてこう」とあてる訓は戦前からあるようで、それが定着し、今日まで存続しているとすれば、新しい訓(ことばの側から見れば、新しい用字)として辞書に載せることは考えていいことです。
あるいは、別の週刊誌に「奏べ」という表記がありました。「しらべ」と読むようです。
時空を超えて繋がるフレーズ、胸に響く熱き奏べ。仲間とともに歌った母校の「校歌」は、青春の想い出であり、人生を支える心の糧でもある。(『週刊実話』2008.01.31 p.111)古くからある用字かもしれませんが、それこそ調べが及んでいません。『新潮日本語漢字辞典』にはありませんでした。でも、インターネットではまま見受けられる用字です。「調査する」意と区別するため、あえて「奏」の字を使ったものでしょうか。
『訓読みのはなし』には、「紅白歌合戦」で、演歌の歌詞に「巨(でか)い」とあった例が紹介されていました。おそらく1999年の鳥羽一郎「足摺岬」だと思われます。歌詞の表記はたしかに注目すべきで、「奏{ひ}いて」「理由{わけ}」「希望{のぞみ}」「真実{ほんと}」「幸福{しあわせ}」「生命{いのち}」など、私たちにも納得できる用字が多くあります。そのいくつかは、辞書に載せてもよさそうです。『新潮日本語漢字辞典』だけは、このような用字もたんねんに拾っていて脱帽するのですが、漢字辞典・国語辞典を問わず、この方面の手当ては十分でないというべきでしょう。
「お腹凹凹」「巨い」など、常用漢字音訓表にない訓でよまれる字は、一般にあて字とされ、辞書では無視されがちですが、中には広く定着したと見られるものもあります。私自身は、『三省堂国語辞典』の編集に関わり、たとえば「おとこ」の用字に「漢」の字を加えるなど、多少の配慮をしたつもりです。とはいえ、それぞれのことばにどのような漢字をあてるかという視点は、なお十分でなかったと反省しています。「わけ」の項目に「理由」という漢字を示していいかどうかなど、もっと深く考えるべきです。『訓読みのはなし』を読了して、意識改革が起こりました。