2008年05月24日

笹原宏之『訓読みのはなし』を読む

漢字には何千年の歴史がありますが、時代によって、また地域によって変転をきわめてきました。けっして、使われ方の固定した、万古不易の文字ではありませんでした。日本では、漢字は日本語の一部として用いられ、中国とはまったく異なった展開を見せました。これは、笹原宏之氏が一貫して追究し、かつ証明してきたところです。

今のコンピュータ時代にあっても、日本の漢字は変化し続けています。私自身も、ほうぼうでめずらしい漢字にしばしば出会って、そのたびに驚きます(「文字のスナップ」参照)。とはいえ、以前に比べれば、私たちはペンを持つことが少なくなり、書いた文字を人に見せる機会も減りました。まして、新しい漢字や漢字字体を生み出して流通させることもむずかしくなりました。私たちの書写生活の大部分は、規格化されたコンピュータ文字に支配され、画一化に向かっているとみることもできます。少なくとも、私はそうだろうと思っていました。

ところが、それは一面的な理解に過ぎなかったことを、笹原氏の近著『訓読みのはなし』(光文社新書)で気づかされました。なるほど、漢字の字体はコンピュータによって堅固な枠がはめられました(堅固というのは私が言っているだけで、異論が出るかもしれません)。でも、漢字には、字体の要素以外に、「よみ」という要素があります。漢字に日本語をあててよむ「訓読み」の多様さ、自由さは、今日でもなお衰えていません。コンピュータによる制約を受けることなく、新しい訓が生まれ、古い訓が滅んで、新陳代謝を続けています。本書はそのことを豊富な実例で教えてくれます。

印象的な一例を挙げれば、最近では、「おなかがぺこぺこ」というときに、「お腹凹凹」と書く人がいるのだそうです(p.139)。「凹」という文字自体は、常用漢字にもあるし、特にめずらしい漢字ではありません。しかし、それを「ぺこぺこ」ということばと結びつけたところが大発明です。「ぺこぺこ」ということばを書きあらわす漢字がなかったところへ、忽然とその漢字が現れたという点では、新しい漢字が発明されたのと同じぐらいの価値があります。「ぺこぺこ」の「ぺこ」は「へこむ」と関係があるでしょうから、「凹む」の「凹」が使われるのは理にかなってもいます。

昨日整理していた週刊誌で、たまたま「猿公」という文字を目にしました。「えてこう」とルビが振ってあります。
野鳥とふれあうこころの安らぎを求めて、山里の湖沼にバードウォッチングに来てみたが、神出鬼没の猿公{えてこう}のわるさ連発でストレス倍増! そんな光景のイラストが7枚にクラッシュ! でも、よ〜く見ると6枚はどこかが違っています。間違いのない1枚は、A〜Gのうち、どれでしょう?(『週刊朝日』2008.05.16 p.77)
「えてこう」を表記する漢字として「猿公」を示している辞書もありますが、たとえば『三省堂国語辞典』では示していません(そもそも、「えて」の項目しかありません)。「猿公」に「えてこう」とあてる訓は戦前からあるようで、それが定着し、今日まで存続しているとすれば、新しい訓(ことばの側から見れば、新しい用字)として辞書に載せることは考えていいことです。

あるいは、別の週刊誌に「奏べ」という表記がありました。「しらべ」と読むようです。
 時空を超えて繋がるフレーズ、胸に響く熱き奏べ。仲間とともに歌った母校の「校歌」は、青春の想い出であり、人生を支える心の糧でもある。(『週刊実話』2008.01.31 p.111)
古くからある用字かもしれませんが、それこそ調べが及んでいません。『新潮日本語漢字辞典』にはありませんでした。でも、インターネットではまま見受けられる用字です。「調査する」意と区別するため、あえて「奏」の字を使ったものでしょうか。

『訓読みのはなし』には、「紅白歌合戦」で、演歌の歌詞に「巨(でか)い」とあった例が紹介されていました。おそらく1999年の鳥羽一郎「足摺岬」だと思われます。歌詞の表記はたしかに注目すべきで、「奏{ひ}いて」「理由{わけ}」「希望{のぞみ}」「真実{ほんと}」「幸福{しあわせ}」「生命{いのち}」など、私たちにも納得できる用字が多くあります。そのいくつかは、辞書に載せてもよさそうです。『新潮日本語漢字辞典』だけは、このような用字もたんねんに拾っていて脱帽するのですが、漢字辞典・国語辞典を問わず、この方面の手当ては十分でないというべきでしょう。

「お腹凹凹」「巨い」など、常用漢字音訓表にない訓でよまれる字は、一般にあて字とされ、辞書では無視されがちですが、中には広く定着したと見られるものもあります。私自身は、『三省堂国語辞典』の編集に関わり、たとえば「おとこ」の用字に「漢」の字を加えるなど、多少の配慮をしたつもりです。とはいえ、それぞれのことばにどのような漢字をあてるかという視点は、なお十分でなかったと反省しています。「わけ」の項目に「理由」という漢字を示していいかどうかなど、もっと深く考えるべきです。『訓読みのはなし』を読了して、意識改革が起こりました。



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2008年03月18日

「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―

前回、常用漢字表の改定に関して、「趣旨はまったく賛成」と書きました。社会生活で目にする漢字が増えている現在、漢字表を拡大するのは当然だと思います。ただし、「理解漢字の表」(読めるだけでよい漢字の表)、「書写漢字の表」(書けるようにする漢字の表)の2つに分けて、新追加漢字はすべて理解漢字とするのがよいと述べました。

理解漢字といっても、だれもが理解するだけで書かなければ、その漢字は消えてなくなってしまいます。ここで言う理解漢字とは、学校教育で書かせなくてよく(書きたい人は書いてもよい)、字体・字形を採点対象にしないということです。パソコンや携帯メールでは当然使ってよいということです。

たとえば、「誰」「頃」という字は、現在の常用漢字表には入っていませんが、社会での使用頻度としては上位に来ています(国立国語研究所の『現代雑誌200万字言語調査』など)。新常用漢字表では、おそらく追加候補になるでしょう。これは「理解漢字」とします。そうすれば、中学校の生徒は、これを読めなければいけないけれど、自分はパソコンで打てれば十分ということになります。実際には、このように高頻度で目に触れる文字は、自然に手でも書けるようになるでしょう。

新常用漢字表では、都道府県名もすべて入りそうな情勢です。これも理解漢字で十分です。書写漢字にしてしまうと、「茨城」の「茨」の「にすい」の上側は「ヽ」か「一」か、などという面倒くさい問題が出てきます。「ヽ」か「一」か、止めるかはねるか、などという問題は、ふつうは教育現場以外では出ない(どちらでもよい)ものです。でも、初等・中等教育の段階では、2つの正解は望ましくないので、問題化するのです。これらが理解漢字ならば、学校のテストで点画までは問われないため、問題がなくなります。

私は、理解漢字・書写漢字を分ける常用漢字表ならば、現状の文字生活を温かく容認するものになると考えます。社会の変化にそっと寄り添うものになり、社会を強引に漢字表に合わせる結果にはならないと信じます。

――以上は前回の補足で、以下は個人的な愚痴を書きます。

秘めた本音のところを言いますと、書写漢字であれ、理解漢字であれ、常用漢字表の字数が増減するのは、私にとっては複雑な思いがあります。現在の常用漢字表は「一般の社会生活」における「漢字使用の目安」を示すものです。目安というのは、100パーセント従わなくてもいいけれど、だいたい従ってください、ということと考えています。文章を書く人間として、常用漢字表をまったく知らないと思われるのは心外なので、私はこの表にかなりの程度従って文章を書いています。その基準が変わるということは、私の文字生活が多少ともぐらぐらすることになります。

たとえば、私は自分の書く文章で「誰」「頃」「揃」「頁」「狙」などの字を漢字で書かないようにしています。これらは、社会では高頻度で使われる字ですが、常用漢字表にはありません。常用漢字表に従おうとする以上、これらの字はなるべく使わないのがいさぎよい態度です。今、私のウェブサイトの字を検索してみると、「誰」「頃」は、引用文を除いては一切使っていませんでした。

それが、新常用漢字表では、「誰」「頃」……などの字もご自由にお使いください、ということになりそうです。そうすると、「私の今までの禁欲的な態度は何だったのか?」という、ばかを見たような気持ちになるのも事実です。規則が変わってからは、「だれ」「ころ」とかな書きにした私の文章は、「旧常用漢字表時代の文章」という印象を与える、古くさいものになります。常用漢字表に律儀に従ってきた結果がこれでは、納得できないではありませんか。

以上のようなことを感じる人は多いのでしょうか。どうも多いとは思われず(つまり、現実には常用漢字表を「目安」と意識して書いている人が多いとは思われず)、私の文章は苦笑を誘うような気もします。ただ、学校現場などでは、プリントの文章などの使用漢字に神経を使っておられるでしょうから、私の気持ちもお分かりいただけるのではないでしょうか。
ラベル:常用漢字表
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2008年03月16日

新常用漢字表は字体変えないで

常用漢字表の改定作業が進行中だと聞きます。文化審議会の資料や、漢字に詳しい人々のウェブサイトなどを見ると、もう主な論点はあらかた出尽くしていて、門外漢が口を出す余地はなさそうです〔7月15日追記。漢字専門でなくとも日本語研究者であるからには、「門外漢」というのは無責任なので、取り消します〕。とはいえ、日本語で生活する個人として、自分の使う漢字が今後どう決められるのか、不安を感じる点があるのも事実です。ここに素朴な意見を書いておく意味もあるでしょう。

現在の常用漢字表と、社会の漢字使用の実態がかけ離れてきた。これが今回の改定の理由だと理解しています。つまり、漢字表を現実の社会に合わせようということです。子ども(社会)の体形が変わってきたから、それに合わせて服(漢字表)を替えようということですね。この趣旨はまったく賛成です。そこで、関係各位にお願いしたいのは、これと逆に、社会のほうを漢字表に合わせるような結果にならないようにしていただきたいということです。

私が中学生だったころ、今の常用漢字表ができました。漢字で書けることばが増えるということで、たいへん喜びました。これからは「ぼくは」でなく「僕は」と書けるのですから、大歓迎です。ところが、思わぬ落とし穴がありました。高校生になってから、漢字のテストで、「洗濯」の「濯」の右上を「羽」にしてバツをもらったのです。「濯」は、常用漢字表に新しく入った字で、それまで一般に「羽」だった部分が「ヨヨ」に変えられました。私は、「濯」が表に入ったことは知っていたものの、ついでに字体も変わったことまでは知りませんでした。先生に言われて教科書の後ろの漢字表を確認し、「ヨヨ」になっていることを知って衝撃を受けました。

似たようなことは、たびたびありました。常用漢字表制定からしばらくは、教科書にも新旧の字体が混在していたので、「霸権」と「覇権」のどちらが正しいのか混乱したりしました。今でも、「『ほたる』という字は『螢』だっけ、『蛍』だっけ、たしかあれは常用漢字表に入ったから『蛍』だな」などと迷うことがあります。

政府の決めた漢字表と無関係に暮らし、自分の好きな漢字を書いていれば、こういうことで悩みはしません。でも、多少とも漢字表を尊重して生活している人は、表の内容が大きく変わると、まあ大げさに言えば、自分の文字生活の基盤がくつがえる思いをしなければなりません。人々の文字生活の実態に寄り添った改定であればありがたいのですが、人々の文字生活のほうを変えさせる改定にはならないようにしていただきたいのです。

もっと具体的に言えば、「今回の改定で、字体の変更がなければよいが」と心配しています。これについては、字体変更やむなし、いや、変更すべきでない、と激論が闘わされているので、もはや指をくわえて成り行きを見守るしかないのですが、字体は変更しないのが穏当だろうと考えます。

たとえば、「賭」という字の「日」の上に「ヽ」がある現在の活字(印刷標準字体)が、新常用漢字表に入り、「諸」などに合わせて「ヽ」のない字になったとします。すでに「点あり」で覚えていた人は、高校時代の私と同様に混乱するでしょう。

「いやいや、それは筆写体と活字体を混同しているんだ」という反論があると思います。手書きの時は、「賭」には点を打たないのがふつうです。その字体が漢字表に採用されたと考えれば、「点なし」がむしろ自然だともいえます。しかしながら、漢字字典を見た生徒は「点あり」で覚えます。その生徒が漢字テストでバツをもらって驚くという事態も起こるでしょう。

漢字テストは一例です。多言を避けますが、現実に字体変更が決まれば、印刷物やコンピュータの書体を一新しなければならないなど、社会的影響が大きいことは言うまでもありません。社会の変化に応じて漢字表を改めたはずが、漢字表に従って社会が大きく変わる、もっと言えば振り回されることになります。これでは主客逆転であり、本末転倒です。

とはいえ、字体を変更しなければ、同一の漢字表の中で、Aは略字体を採用し、Bは正字体(というか従来の表外漢字字体)を採用するという不整合が起こり得ます。そのほうが、学校の生徒にとっては迷惑ともいえます。

では、どうすればいいか。これもすでに案が出ていることですが、書くための漢字(書写漢字)と、読めればいい漢字(理解漢字)の2つの表に分けるのが最も妥当だろうと思います。

書写漢字は、現在の常用漢字の1945字で十分でしょう。高校まで(大学まで)かかっても、1945字も書けるようにするのは一苦労です。何なら、ここから「勺」「朕」「逓」「匁」などいくつかの字を削っても結構です(削らなくても結構です)。

一方、理解漢字は何百字でも増やしてよいと考えます。新常用漢字表で増える字は、すべてこの理解漢字ということにします。私たちの能力は不思議なもので、書けなくても読めるだけでよければ、非常に多くの字を覚えることができます。この理解漢字の字体は、「賭」「謎」「餌」などをはじめ、現在の印刷標準字体をそのまま示しておきます(「賭」は点のある字、「謎」は二点しんにゅう、「餌」の食へんはむずかしい字体)。書写漢字とは別の表なので、新しく増えた字を略字体にしなくても、表の一貫性は保たれます。

今回の改定理由では、「情報機器の発達で目にする漢字が多くなった、そこで、その漢字をちゃんと読めるようにしよう」ということが大きいはずです。つまり、理解漢字を多くすることが主目的であって、書写漢字を多くすることは主目的でないはずです。それならば、書写漢字と理解漢字との2つに表を分けることは妥当性が高いというべきです。この点について、どれほど議論が進んでいるか知らないのですが、2表に分ける方向で話し合っていただきたいと希望します。

私見をまとめますと、以下のようになります。(1)新しく常用漢字表に加わる漢字は、現在の字体(表外漢字字体表の字体)を変えないでいただきたい。(2)新追加の漢字は理解漢字とし、従来の常用漢字は書写漢字として、性格を分けていただきたい、漢字表を2表に分ければ、それぞれの表では字体の整合性に矛盾も生じない、ということです。

最後に蛇足ですが、国語政策が変わるたびに、私の頭は混乱の度を深めていくようです。常用漢字表が決まってから「濯」などの字を覚え直し、JIS漢字の変更で(これは経済産業省の管轄ですが)「森オウガイ」の「オウ」を手書きでも「区に鳥」と書くようになり、そうかと思えば「表外漢字字体表」が答申されたのを見て(これは活字に関する決まりですが)、やっぱり「オウガイ」は「區に鳥」のほうがいいような気がしてきたりと、落ち着きません。私の反応がことさら極端というわけではないでしょう。字体変更はないのが理想的だと考えます。

関連文章=「「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―
ラベル:常用漢字表
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2008年03月11日

むずかしい漢字「油ちょう」

冷凍ギョーザの毒物混入事件が報じられはじめたころ、テレビで毒物混入のルートを探る特集が放送されました。その中で、卸売り業者が冷凍食品の輸入元について知らせるファクスが紹介されていました。表の中に、「油ちょう」という見慣れないことばがありました。
てづくり野菜かき揚げ40(油ちょう済)
〔略〕
てづくりむきえびかき揚げ60油ちょう
(NHK「クローズアップ現代・追跡・毒混入ルート 〜中国製ギョーザ 深まる謎〜」2008.02.04 19:30)
「油ちょう」のような書き方は、「憂うつ」などと同じで交ぜ書きと言われます。もとは二字熟語で、「ちょう」も漢字で書いたはずです。どういう漢字だったのか知りたくなりました。

とりあえず、ウェブサイトを検索してみます。こういう場合、「ゆちょう」のようにひらがなで検索すると、用語解説のサイトなどで、漢字を示しているのに突き当たるものです。ところが、なかなかそれらしいものが分かりません。

「油ちょう」の意味はすぐ分かりました。「油調理」ということです(「油であげること」のほうがよりよい。下段参照)。冷凍食品会社のサイトに以下のようにあります。
また日本でのエビの復権も大きな課題といえます。ニッスイは日本の消費量の減少について、「台所から油調理(油ちょう)が減少したのが最大の原因」と分析。(ウェブ「ニッスイ フロンティア」2006.03発行)
とすれば、「油ちょう」は「油調」かと思われました。実際、「油調」としてあるサイトもあります(全日本外食流通サービス協会のウェブサイトに「冷凍食品-油調」のページがあります)。しかし、それならば素直に「油調」と書けばいいだけの話です。ひらがなにしてある理由が分かりません。

k080311yutyo.jpgこうなると、専門書をひもとかざるを得ません。『最新冷凍食品事典』(朝倉書店 1987、1989年3刷)を見てみました。残念ながら用語解説のようなページはありませんが、以下の文章に突き当たりました。
また,イカは油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}による収縮によって歯ざわりが著しく硬くなることが多い.冷凍食品の場合,必ずその食品の特性を出す理想的な調理が行われる保証がないから,高温で早く油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}する場合も多い.述べた切込みを入れることで,このように調理の条件による変化も防止することを可能にし,軟らかさを保つことを可能にする.(p.199)
この「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」こそ、「油ちょう」の正確な表記でしょう。この「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、そうとうむずかしい字です。JIS漢字の第2水準までになく、ふつうには入力しにくいのです。ウェブで探しても見つからなかった理由のひとつと思われます。

字書によっては、この字を「チョウ」読むことが示してありません。『学研漢和大字典』や『新潮日本語漢字辞典』では「やく」「いためる」の意で「ヨウ」、「ゆでる」の意で「ジョウ・ソウ」です。『増補改訂 JIS漢字字典』では「ソウ」のみです。とすると、『最新冷凍食品事典』に出てくるのも「ユソウ」とか「ユジョウ」であって、目指す「ユチョウ」ではないかもしれないという疑問が湧きます。

『角川大字源』を引いてようやく、「ソウ」「ヨウ」の読みのほかに「チョウ」の読みに出会いました。意味も3番目に「あげる。油で揚げる」の意が示してあり、「油ちょう」の用法と矛盾がありません。「油ちょう」は「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」であると考えられます。

昔からある専門用語は、このようにむずかしいものが多いようです。今では、難解な字を避けてひらがなに開いてしまうため、そのむずかしい字を使った熟語が今に残っていることが、外からは見えにくい状態になっています。「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、言わば、ひらがなの皮をかぶりながら、特殊な分野で現代でも生き続けている字と言えるでしょう。

似たような漢字の例として、通信用語の「き線」(幹線の末端)などにつかわれる「き」がそうです。「饋線」と書くのだそうです。
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2008年03月05日

昭和を騒がせた漢字たち

 円満字二郎著『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館 2007)がベストセラーになっています。すでに的確な書評はいくつも出ていますが、好きな本なので、遅ればせながら、感想めいたものを書いておきます。

 この本は、題名から分かるとおり、昭和(戦後)の歴史と漢字との関わりを、いくつかの具体的な事件を中心にして論じるものです。私自身、ことばや文字が好きなのは当然として、戦後の歴史にもオタク的な興味があり、NHK「THE NEWS」(戦後のニュースハイライトが1年1巻にまとまっている)などというビデオを見ては楽しんでいるので、本書はいわば「ツボにはまった」という感じです。一気に読んでしまいました。

 本書に出て来る「漢字にまつわる事件」は、知らないものが多くありました。たとえば、戦後いったん「郵政省」になった役所を「逓信省」に戻そうという動きがあったこと(その中心人物は田中角栄)。専売公社のたばこ「おおぞら」に「宙」という文字をあしらったところ、「その漢字はそうは読めない」と批判されてデザイン変更になったこと(しかも売れ行き不振で製造休止に)。小学校で「元気で仲よく」という碑を建てたら、漢字の点画がおかしいと裁判沙汰になったこと。どれも当時は話題になったのかもしれませんが、私には初耳で、基本的な知識の部分で勉強になりました。

 知識もさることながら、筆者の視線は、漢字そのものだけでなく、漢字を使う人々、さらにその時代に向いており、それが本書を独特のものにしています。ある漢字について、「Aと書くのが正しいか、Bと書くのが正しいか」と正誤の点で論ずる本は、うんざりするほどあります。気のきいた本になると、「なぜAと考える人がいるのか、Bと考える人がいるのか」と、人間に焦点を当てるものもあります。ところが、本書では、「AとかBとかいう議論が出て来たのは、そもそもその時代がどういう時代だからか」という、さらに一段高い所に上がって見渡しています。漢字の歴史という大河を上から眺めているような、見晴らしのいい感じがあります。

 たとえば、「元気で仲よく」という小学校の碑文の話では、「仲」のにんべんの縦棒が、上に少し突き出ているのは、マルかバツかという議論が戦わされたそうです(1970年代のこと)。もし、専門家がこれに解説するなら、「どちらもバツではありません」とか「あまり目くじらを立てないで」とか言うのがせいぜいだろうと思います。本書の興味深いところは、さらに進んで、こういった点画にこだわる議論が、そのころから激化した受験戦争の必然として起こったと指摘している点です。ということは、この碑がそれより前の時代に建っていれば、批判も起こらなかった可能性があります。

 さらにさかのぼった時代、1950年代には、福井県庁の掲示板に「福丼県」と書いてあったことが、官民を巻きこんで議論になったといいます。今日の目から見ても、「福丼県」はおかしいような気がしますが、「井」を「丼」と書くことは歴史的にもあったのだそうです。ただし、本書はそこでは終わりません。テンがあっていいか、いけないかという議論が起こるのは、戦後の「当用漢字字体表」(1949年)によって、当時の人々に字体の意識が生まれたことと無関係でない点を指摘しています。もし、それ以前ならば、〈「福丼県」を見ても、点が一つ多いな、と思うくらいで、県庁までねじ込もうとは思わなかっただろう〉という筆者の意見には同感です。

 筆者の見方にそってごく乱暴にまとめれば、戦後の人々の漢字意識には、2回の大きな変化が訪れたといえそうです。第1に、戦後すぐ、当用漢字などの制定によって、漢字に「基準」を持ち込む考え方が広まった。たとえば、「福丼県」と書こうものなら批判が殺到し、「郵政省」を「逓信省」に戻そうものなら「漢字制限に逆行する」と大反対された。第2に、高度成長ごろから、それぞれの漢字は「唯一無二」のものであるという考え方が広まった。別字で書き換えたり、使用を制限したりすることへの違和感が強まった。たとえば、水俣病の原告団は「うらみ」を表すために、当用漢字の「恨」ではなく、表外字の「怨」を使った。学生運動の活動家は、漢字の民主化に逆行するはずの略字や造字を多用した――。と、これはごく大づかみな要約ですが、筆者の見方は的を射ていると思います。

 われわれは、「あるべき日本語の表記」「漢字をどういうふうに書けばいいか」などという大きな議論をするとき、百年後も通用するような不変の論拠に立って論じているつもりでいます。でも、本書を読むと、どの時代にも通用すると思って語っていることが、じつは、まさにその時代だからこそ出てくる意見であることに気づきます。遠い将来を見通したつもりで決定した国語政策が、何年か経つともう見直しを迫られるというのも、われわれが(または役所の人々が)時代の制約を離れてことばを見つめることがむずかしいためでしょう。

 最後に、つけ足し。本書に出て来る話題のいくつかは、私が個人的に関心の強いもので、その意味でも興味深く読むことができました。石坂洋次郎『青い山脈』は、これまで2、3回は読み、映画版も2回は見ていますが、これを戦後の言語状況と結びつけて考えることはありませんでした。筆者の観点に脱帽します。また、狭山事件その他の差別事件については、大学生のころ、野間宏『狭山裁判(上・下)』(岩波新書)を読んで以来、関心が持続しています。筆者は、このほか水俣病裁判を取り上げるなど、弱者の視点に立って文字史を眺める姿勢があると思います。
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2006年06月29日

検査体制と検査態勢

「検査タイセイが整った」とか「検査タイセイを見直す」とかいう場合、漢字ではどう書くべきでしょうか。「検査体制」か、それとも「検査態勢」か。

「朝日新聞」2006.06.22 p.3の米産牛肉輸入問題に関する記事には、
輸入停止のきっかけとなった背骨混入のような問題を見逃さないため、日本の港での検査態勢も強化する。当分の間は業者の協力を得て輸入する全箱を確認する。
とあり、「態勢」の字を使っています。ところが、その同じ紙面に載っている社説は
 1月に輸入が再び止められたのは、牛海綿状脳症(BSE)の原因物質がたまりやすい背骨が牛肉に交ざっていたからだ。米国の処理施設の安全管理がずさんで、農務省の検査体制も甘かった。
と、「体制」を使っています。どちらかが間違っているのでしょうか、それとも、使い分けているのでしょうか。

『朝日新聞の用語の手引』(1997.07.10第1刷発行)によれば、
たいせい
 =体制〔恒久的、統一的な組織〕教育体制、五五年体制、戦時体制、反体制
 =態勢〔一時的な身構え、状態〕受け入れ態勢、スト態勢、選挙態勢、独走態勢、臨戦態勢
とあります。米農務省の場合は、検査のための恒久的、統一的な組織を作ったので「検査体制」、港の場合は一時的に対応するので「検査態勢」と使い分けたのでしょうか。

ところが、少し前の解説記事(2006.03.30 p.11)では、同じくアメリカ政府の牛肉に関する対応に関して、「検査態勢」を使っています。
 危険部位の背骨が混入したためストップしている米国産牛肉の輸入再開に関する日米専門家会合で、日本側が米国側に大きく歩み寄った。米国側の検査態勢そのものに強い疑義を唱えたのが、一転して米国側の説明に理解を示し、両国が「一定の共通認識」に達した。
ここに出てくる「米国側の検査態勢」は、さっきの記事の「農務省の検査体制」と、同じものを指しているはずです。同じものについて「検査体制」と書いたり「検査態勢」と書いたりしています。これは、単なる表記のゆれでしょう。

サンプル数を増やしてみます。過去の「朝日新聞」の記事データベースを調べると、ここ3か月(2006.03.25―06.24)では、「検査体制」=11件、「検査態勢」=15件が拾われます。「検査態勢」がやや優勢ですが、この程度なら「半々」と考えていいでしょう。ここ2年間(2004.06.25―)でも、「検査体制」=100件、「検査態勢」=96件で、やはり伯仲しています。

ところが、もう少し範囲を広くとってみると、話が変わってきます。この10年間(1996.06.25―)では「検査体制」=501件、「検査態勢」=421件で、「体制」のほうがはっきりと多くなっています。さらに、その前の10年間(1986.08.14―1996.06.24)を見ると、「検査体制」=273件、「検査態勢」=78件で、「体制」のほうが3倍以上多いのです。

昔は「検査体制」と書くことが多かった。時代が新しくなるにつれて、「検査態勢」と書くことが増えて、今ではどちらもよく使うようになった。「朝日新聞」の場合は、このように言うことができます。

ついでに、「読売新聞」を調べてみると、次のような結果になりました。
最近3か月 「検査体制」=14 「検査態勢」=11
過去2年間 「検査体制」=197 「検査態勢」=46
過去10年間 「検査体制」=1078 「検査態勢」=136
その前の10年間 「検査体制」=289 「検査態勢」=0
「読売」は「朝日」よりは「体制」と書く場合が多いものの、やはり、昔はほとんどなかった「検査態勢」が、最近はよく使われるようになっているということでは、「朝日」と同様です。古い例ではどちらの表記も少ないのは、データベース自体が不備だったからです。

このように、長期にわたって傾向が変化しているということは、必ずしも、特定のニュースが変化の原因ではないのでしょう。新聞社の校閲の人も含めて、「体制」および「態勢」ということばから受け取る語感が、少しずつ変化しているということではないでしょうか。

なお、「検査タイセイを敷く」という場合、「体制」は使えても、「態勢」は無理だろうと思います。また、「検査タイセイを確立する」も、「体制」しか使えないだろうと思います。前後に来る語によっては、ほとんどゆれの見られない場合もあるでしょう。

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2006年03月02日

おそくても31日

民主党の永田寿康議員が、与党の幹事長に関する疑惑の証拠として示したメールについて、偽物だったと認めて陳謝しました(2006.03.02)。

国会で取り上げるからには、メールは本物なのだろうと思っていた私にとっては、失望する事態です。あとで調べると、ネット上では、「このメールは偽物である」と早くから断定されていたようで、拍子抜けしました。知らぬは、民主党議員と、私だけだったのでしょうか。

ところが、今、ネット上で「偽物」の証拠として挙がっている指摘を改めて見ると、必ずしも事実でないものも含まれているようです。たとえば、左半分が墨塗りされた「堀江」の「」の字は、じつは「」だ、いや、「」だ、という議論がありました。しかし、のちに明らかになったところによれば、この部分は「堀」で間違いなかったのです。

また、ヘッダ部分の「Sender」と書かれている文字のうち「e」の字が全角だ、という指摘もありました。具体的に全角・半角の文字の図を示して論じていた人もいましたが、私にはどちらかよく分かりませんでした。

私がテレビで耳にした説(ネットでも論じられていた)としては、もとNHKの池上彰氏が、「シークレット」とある文字のうち、「長音が罫線になっている」と指摘していました(フジテレビ「スタ☆メン」2006.02.26 22:00)。コンピュータに熟達した堀江容疑者が、このような初歩的なミスをするはずがない、ということでした。

いったい、どの説が正しいのか。私としても、この目でメールの真偽を検証したいと考えました。今やメールについては永田議員自らが「偽物」と認め、そのことについては決着がついています。この時期になって、今さらばかげていることは、承知の上です。

メールの書体は、ネット上での通説にしたがい、「MS Pゴシック」であると考えました。また、民主党がPDFファイルで公開しているメールの写しによって、字の大きさは12ポイント、改行幅も12ポイントであろうと推定しました。

上の設定によって、私自身で同じ文面を作り、プリンタで印刷(「秀丸エディタ」の印刷機能を使用)し、さらに、民主党の公開する写しと重ね合わせてみるという方法をとりました。

その結果、いくつか分かったことがあります。

1. 「Sender」については、字の幅から考えて、すべて半角文字であると考えて差し支えない。

2. 「シークレット」の長音には、正しく長音が使われている。罫線・ダッシュ・マイナスなどと比べてみると、もとのメールの写しといちばんぴったりするのは長音文字です(下図参照)。
3. 「口座」の「口」がカタカナの「ロ」になっているという指摘があるが、「ロ」にするとそれだけ字幅が狭まり、メールの写しとぴったり重ならなくなる。やはり漢字の「口」と考えてよい。

それから、私が気がついたことで、まだほかでは指摘を聞いたことがないものとして、次の事実があります。

4. 「おそくても31日」の数字の表記がへんだ。「3」は全角数字を使っているのに、「1」は半角数字を使っている。コンピュータに熟達した差出人であれば、こんなことをするだろうか?

再び、上図を見ていただきましょう。このメールは、全体に全角数字が使われていますが、「31」を全角数字で打ちこむと、メールの写しと重なりません。「3」を全角で、「1」を半角で打つと、うまく重なります。図に示していませんが、両方とも半角で「31」と打っても、やはり重なりません。

差出人は、2桁の数字に全角と半角を混ぜるという、妙な書き方をしていることになります。これは、コンピュータに深い関心のある人ならば犯すはずがない誤りです。

私は、この「おそくても31日」の部分を見て「ああ、やはり、これは偽メールだったのだ」と納得しました。そうして、「どうして大政党ともあろうものが、この程度のチェックをせずに、メールを証拠として採用したのか」と、じつにむなしい気持ちになりました。

私が、こうやって証拠鑑定を行うのは、必ずしも酔狂ではありません。ごくまれにですが、大学の教室でも、偽物の出席カードとか、盗作したレポートなどというものが見つかります。そういうものを見過ごさないための練習をしてみたまでであります。
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2006年02月23日

ゲシュタルト崩壊と漢字の書き取り

夏目漱石の「門」(1909年発表)は、駆け落ちしたために世間から見放され、ちょっと精神的にまいりかけた男と、彼に従って静かに暮らす妻の物語です。冒頭近くに、夫が妙なことを言う場面があります。
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「何故{なぜ}」
「何故って、幾何{いくら}容易{やさし}い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日{こんにち}の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今{こん}らしくなくなって来る。――御前{おまい}そんな事を経験した事はないかい」
(新潮文庫 1948年発行 1978年62刷改版 1981年69刷 p.7)
「今」という字を見ていると、だんだん「今」に見えなくなってくるというのです。妻はもちろん、「まさか」と否定し、「貴方どうかしていらっしゃるのよ」答えます。

これが、心理学でいう「ゲシュタルト崩壊」という現象に相当するのだと、笹原宏之氏の好著『日本の漢字』(岩波新書)p.73で知りました。笹原氏は、「パソコンの普及で手書きの機会が減ったから漢字が忘れられやすくなった」という説に疑問を差し挟み、まさにこの『門』の書名を挙げて、「夏目漱石でさえも、ひとつの文字をずっと眺めていると、形がおかしく感じる旨、記している」(p.73)と指摘しています。漢字をいつも見ていても、忘れるときは忘れる、という趣旨だと理解しました。

心理学には詳しくありませんが、ゲシュタルト崩壊とは、こういうことでしょうか。われわれは、「松」という字を「木」「八」「厶」などの部分の合計として考えているのではなく、全体でひとつの形態(ゲシュタルト)として捉えている。ところが、じろじろ見ているうちに、「木」「八」「厶」などの部分が独立して感じられてきて、全体のまとまりが危うくなる。そうすると、「松」には見えなくなってくるということでしょう。

よく、床の間の掛け軸などに「松」という字を書くとき、異体字の「枩」を使うことがあります。この字だって「木」「八」「厶」から出来ているのだから、すぐに「まつ」だと分かりそうなものなのに、私は、どうしても「松」と同じ字には見えません。むしろ、なぜか「禿」という字に見えたりします。いったん立ち止まり、「待てよ、『木』『八』『厶』の組み合わせだから、『まつ』だ」と、論理的に考えなければ正しく読めません。漢字をひとつの形態として理解している証拠です。

文字を見ていて、ゲシュタルト崩壊を起こす話は、いろいろあります。筒井康隆『大いなる助走』(1977-1978発表)の中に、作家志望の主人公(市谷京二)が、同人誌の主催者(保叉)に見せるため、小説の原稿を相手側の方向に向けて置く場面があります。その小説の題は「赤い鱗」といいます。
 保叉の方に向けて置かれている自分の原稿の表紙の文字は、逆に見るとなぜか自分の字のようではなく、ずいぶん下手糞な字に見えた。「〓{鱗の180度回転した文字}」は「鱗」のようではなかった。(単行本〔文藝春秋〕1979年第1刷 1981年第15刷 p.22-23)
作者は、この場面に、「『赤い鱗』 市谷京二」という縦書きの文字を上下逆さまに(つまり主人公の見たままに)した図を挿入しています。「赤」「い」は上下逆さまでもその字だと分かるのですが、「鱗」という、ふだんあまり使わない字は、180度逆に書かれると、たしかに、何の字だか分からなくなります。

内田春菊氏の漫画「幻想の普通少女」には、「ら」というひらがなが分からなくなる場面があります。主人公の女子高校生、山下紗由理が、あるとき、屋上で空を見上げながら独り言を言います。
「そういえば/らってゆう/ひらがなは/あやしいよな
「いっぱいかいてくと/どんどん不安に/なってくんだもん」
〔周りに、らららら……とたくさんの文字〕
「うわーっ/らってほんとに/こんな字だったっけ」
「やなやつだぜ」
(内田春菊『幻想の普通少女1』〔1987.04.18単行本〕MF文庫〔メディアファクトリー〕2001.02.19初版 p.71-72)
ひらがなは、もともとくねくねしているし、形の似た字も多いので、ゲシュタルト崩壊を起こしやすいのでしょう。「ら」は、「う」にも「ち」にも似ています。ふだんはあまり意識しないけれど、「ら」「ら」とたくさん書いて、「なぜこれが『ra』なのだ」と疑い出すと、止まらなくなります。「点があって、縦棒が右に折れて、ふたたび左にUターンするのが『ら』」だと覚えているわけではなく、全体の形をなんとなく覚えているための現象でしょう。

ところで、唐突ながら、話は漢字の書き取りの話になります。私は、同じ字を何度も続けて書くことは、必ずしも漢字を覚えることにはつながらないと考えます(字形の練習をする目的ならば、話は別です)。あまり同じ漢字を続けて書くと、ゲシュタルト崩壊を起こしてしまうから、というのも、その理由のひとつです。

たとえば、「今」という字を、ノートに何回も書いてみます。「今今今今今今今今今今……」と機械的に書いているうちに、「イマ」という音声と、字形との関係がだんだん薄れてしまって、なんだか「ヤマ形の下に『ラ』がある文字をたくさん書いている」としか思えなくなってきます。頭の中に「ラ・ラ・ラ・ラ……」という声が響くようになります。

「自分はいったい何を書いているのだろう。この『今』とはいったいなんだろう」。こうなると、漢字の練習は効果が上がらないでしょう。書き取りは、ゲシュタルト崩壊を起こさないように、変化をつけながら行わなければならない、というのが結論です。
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2006年01月15日

英語の母音を表す新文字

小学校で英語教育が必修になろうかという情勢です。今まで、中学・高校・大学と10年間しか英語を学んでいませんでしたが、これからは小学3年生から6年生までの4年間をプラスして14年間学ぼう、そうすれば国際社会で通用する英語の使い手が続々出てくるであろう、という思想のようです(私が初めて接した報道は、「NHKニュース7」2005.10.13「英語教育 小学校で2年後にも必修科目」)。

私には、この政策が有効なのかどうかは分かりません。ただ、英語を勉強する期間よりも、教授法(メソッド)を変えるほうが先決ではないかと考えています。

どう変えるかというと、発音の習得をもう少し重視するのです。いま、ほとんどの先生と生徒は、日本語式発音で英語を勉強しているはずです。これでは、むだが多い。「図書館」をまず「ライブラリー」と日本語発音で覚え、さらに、初めの「ラ」は「l」だが、あとの「ラ」「リ」は「r」で書く、などと追加情報を覚えるというのはしんどい話です。それより、「l」「r」の発音を確実に聴取し、発音し分けられるようにして、「図書館」は「library」であると一発で覚えてしまえば、脳みその負担は軽くてすむではありませんか。

発音指導を徹底的に行って成功している先生がいます。島根県広瀬町立比田中学校の田尻悟郎氏です。私はもう1年ほど前に、テレビで、田尻氏の教授法を知りました(NHK「わくわく授業スペシャル・こうすれば英語は楽しくなる!・使える英語習得法」2005.01.30放送、初回放送は2004.11.03教育テレビ)。なぜその話を今ごろするかというと、きょう、たまたまその録画を整理していたからです。

田尻氏は、英語の母音を理解させるにあたり、新しい文字を作りました。たとえば、日本語の「エ」と「ア」の中間音にあたる「cat」などの母音を表すためには、カタカナの「エ・ア」を縦に合わせた字を使います。また、「hit」の母音など、「イ」「エ」の中間に当たる母音は、「イ」の下に横棒をくっつけた字(「エ」の1画目が「ノ」になった字)を使います。そして、「hot」の母音など、広い「オ」の音を表すためには、「大」に似た字を使います。詳細は、「わくわく授業」のホームページにも紹介されています。

この方法は、発音記号の読めない中学1年生には有効だろうと思います。英語と日本語の発音は根本的に違うらしい、ということが、この奇妙なカタカナを見ることで実感されるでしょう。

もっとも、いくら新しい仮名を作ったところで、先生の発音がまずければ無意味です。田尻氏の発音は、たいへん流暢で、かつ、明快です。文字を見なくても、先生の発音を聞いているだけでも英語がうまくなりそうです。
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2006年01月14日

週刊新潮の難読漢字

今さらながら気づいたのですが、「週刊新潮」の記事に使われている漢字は難しいですね。文芸出版社の週刊誌であるという誇りがそうさせるのでしょうか。

新聞社系の週刊誌は、ふつうは、常用漢字プラスアルファの範囲で漢字を使っていますが(もちろん外部執筆者は別)、出版社系の週刊誌は必ずしもそうではないようです。「週刊新潮」(2006.01.19)をぱらぱらめくると、「辿り着く」(p.27)、「些か」(p.61)、「躾け」(p.84)など難しい字が、ルビなしでいくらでも出てきます。「週刊朝日」なら仮名で書くところでしょう。

さらに上級編になると、さすがにルビを振っているけれど、「嗾ける」などという字も出てきます。
ま、〔横峯さくらは〕半ば父・良郎さんに嗾{けしか}けられたようだが、本人も結構、その気になっていた」(p.39)
私は、「嗾」を「そそのかす」と読むのは知っていたけれど、「けしかける」という読みには思い至りませんでした。たいへん勉強になる雑誌であります。

また、ルビなしで「奔る」という書き方を平気でしているのにも目が止まりました。
目下、芸能記者が確認に奔っている超大物カップルの離婚話がある。(p.137)
「はしる」だとは前後から分かりますが、辞書に載っていない読み方で漢字を用いるのは、文学的と言っていいでしょう〔追記参照〕。

今回注意を引かれた漢字はこれだけですが、ことばにも難しいものがあります。ここではひとつだけ出しておきます。
〔前略〕仙台とその近郊という特定のエリア内で、猛烈な監視態勢が敷かれている公衆電話を使って、実に4回も院長の携帯電話に架電するというミスを犯したのだ。(p.29)
「架電」が「電話をかける」ということは前後から分かります。私も以前「電話をかける」でこの語を取り上げました。しかし、辞書にもあまり載っておらず、この記者はどこでこのことばを知ったのかと思います。おそらく、警察・司法関係ではずっと使われてきたことばであって、事件に関する警察の記者会見で聞いたことばを、記者がそのまま使ったのではないでしょうか。

追記
「はしる」の項目に「奔」の漢字を載せる辞書は多くあります。(2006.01.17)
posted by Yeemar at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする