2011年11月16日

スクープ! 早大赤本の間違い見つけた

大学入試の現代文を、久しぶりに読む機会がありました。印象として、以前(私が受験した1980年代)に比べ、出題される文章の質が上がっているようです。以前は、どう考えても読むのがむだでしかない、無内容な文章が出てきました。今回読んだ文章は、読みながら「なるほど」と考えさせられる、興味深いものが多くありました。もっとも、入試問題文の制約上、一部分だけの引用であるため、それを読んだだけで何かまとまった知識が得られるというものではないのですが(入試の文章だけ解いているのではだめで、1冊の本を読む必要があるのはこのためです)。

それはともかく、私の答案を「赤本」(教学社『大学入試シリーズ』)の解答と照らし合わせてみて、がっかりしました。ちょいちょい間違いがあって、どうも満点が取れないのです。まことにお恥ずかしい。日本語を研究し、教えていながら、こんなざまでは困ります。うっかりしていた部分もあるし、引っかけ問題にだまされた部分もあります。いわゆる「受験の勘」を忘れてしまったためのミスだった、と言い訳しておきます。

ただ、そうは言っても、「これは、赤本のほうが間違っている」と考えられる部分もありました。具体的には、2008年度の早稲田大学文学部の国語の現代文。末木文美士(すえき・ふみひこ)さんの『他者/死者/私』の一節が出題され、その文中で渡辺哲夫さんの『死と狂気』に触れた箇所があります。そこに出てくる「歴史的に構造化する」という語句の意味が問われています。この解答が、どうも腑に落ちないのです。

と言っても、これだけでは、何のことか分かりませんね。以下に問題文の必要箇所を引用しておきます(ご面倒なら、あとから読んでくださってもけっこうです。原文と設問の雰囲気だけ分かってもらえば、以下で私の言いたいことは伝わるはずです)。
渡辺によれば、死者は、「生者たちの生存と生活を D歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何より言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」。われわれが死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ。
 渡辺はこの観点から他者論を見直し、「他者」という言葉の多義性を三つに分ける。第一に、「ほとんどの他者は、死者である。……他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつ」。第二に、「他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する」。これを著者は「言語的分節世界」と呼ぶ。つまり、死者によって構造化された世界のことだ。それは、生者から見れば収奪したものであり、死者から見れば贈与したものだ。第三に、「生きている個々の他者、他人」である。従来の他者論がこの第三の他者を中心に論じられてきたのに対して、渡辺は第一、第二の他者の見直しを図ろうというのである。
次に、設問と選択肢を示します。
問七 傍線部D「歴史的に構造化する」の説明としてもっとも適当なものを次の中から選び、その記号の記入欄にマークせよ。
 イ われわれの生きている世界はすべて無名の先人たちが築き上げてきたものだということ。
 〔略〕
 ニ 個々の人間を歴史の中に位置づけることを通して、普遍的な人間の運命を明らかにするということ。
わずらわしいので、選択肢は2つを除いて省略しました。私はこのうち「イ」が正解だと考えたのですが、赤本では「ニ」が正解となっています。はたして、本当に正解は「ニ」でしょうか。

素直に読めば、「イ」なのです。事実、赤本の解説にも、こう書いてあります。〈他者たる死者は、現在の生者に日常的秩序を贈与する。それがすなわち「死者による世界の構造化」ということ〉。つまり、現在、宗教・法律・慣習・倫理などといった、私たちの世界を構成する基本的なものや概念は、すでに死んでしまった先人たちが形作ったものだ、彼らから贈与された遺産だ、というのです。それなら、「イ」の選択肢そのままではありませんか。

もっとも、赤本では、続けて〈イとニで迷うが〉と書いています。〈イは「無名の先人たちが築き上げてきた」が「死者たちに負うて」きたの言い換えとして不適当。ニの「歴史の中に位置づける」が「構造化」の言い換えにあたる〉と説明しています。

でも、渡辺さんがここで言う「死者」とは、〈没個性の霊魂の群れの“顔”〉なのだから、これを〈無名の先人たち〉と言ってもいいはずです。〈言い換えとして不適当〉どころか、どんぴしゃりです。むしろ、「ニ」は、〈歴史の中に位置づける〉はたしかに「構造化」の言い換えかもしれませんが、〈個々の人間を歴史の中に位置づける〉は意味をなさないし、後半の〈普遍的な人間の運命を明らかにする〉はいっそう意味不明です。つけ加えれば、もとの選択肢「イ〜ニ」の中で、日本語として意味が通るのは、唯一「イ」だけです。

「いや、それはやはりあなた(飯間)の考えが足りないのではないか。自分が答えを誤ったので、くやしまぎれに強弁しているだけだろう」と言われるかもしれません。

ところが、驚くべきことがあります。渡辺さんの説を批評しているこの問題文の筆者、末木文美士さんがホームページを開設していて、そこで、同じように渡辺さんの文章を批評しています(「ボクの哲学モドキ」のうち「死から死者へ」。2002年の文章)。そして、そこには次のように書かれています。
 渡辺さんの説には、柳田・折口の民俗学の影響が強い。著者によれば、死者とは、「生者たちの生存と生活を歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である(23 頁)。というと分りにくいけれど、要するにボクたちの生きている世界はすべて先人たちが築き上げてきたものだ、ということだ。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何よりも言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」(33頁)。ボクたちが、死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ(25頁)。
なんと、筆者自らが、正しい選択肢が「イ」であることを証言しているではありませんか。

末木さんのホームページの文章は、著書の一節が早稲田の入試問題として取り上げられる以前のものです。ことによると、著書の中にも、こんなふうに「歴史的に構造化する」の意味を解説した部分があるのかもしれません。入試問題の作成者もそれを踏まえていたのではなかったでしょうか(何しろ、選択肢の言い回しがそっくりだから)。

おそらく、この設問は、問題作成者の親切によるものでしょう。「歴史的に構造化する」と言われても、受験生は分かりません。そこで、「これはこういう意味ですよ」ということを、選択肢の形で教えてあげたのだろうと推測します。現に、私も「イ」の選択肢を読んで、そのあとの読解が助けられました。もし「ニ」が正解だとしても、それは語句の説明としてまったく意味不明であり、読解の役には立ちません。

今回の例は、赤本の誤りであると確定しました。私としては、自分の正しさが確認されて、満足しました。もっとも、こんなことで「スクープ」などといい気になってはいけないのでしょう。入試問題の模範解答は、出版社や予備校によって、往々にして食い違いがあると聞いています。今回のような例は、ほかにもざらにありそうです(今回、私が解いてみた問題の中には、ほかにも疑わしいものがありました)。

それにしても、こうした例がもし「ざらにある」ならば、受験生の人たちはかわいそうです。模範解答が間違っているにもかかわらず、「自分のほうが間違いだ」とむりに納得している人がいるかもしれません。出版社や予備校の責任は重いし、さらに責任が重いのは大学です。大学、特に難関大学は、ぜひとも入試の正解を公表すべきであると、最後に結論を添えておきます。
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2011年01月08日

文章の書き方

今回は宣伝めいた文章です。

「文章の書き方」の本を、これまでに2冊出しました。1冊は2年前、もう1冊は今月の刊行です。
A 『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー)
B 『伝わる文章の書き方教室』(ちくまプリマー新書)
いっぱしの文章家気取りか、と言われると心苦しい限りです。私は格別、文章家でも名文家でもありません。ただ、「こう書けば論理の通った文章になる」「こう書けば分かりやすい文章になる」ということを、筋道を立てて説明する自信はあります。簡単な原理を守って書きさえすれば、誰にでも、最低限の論理性と明快さを備えた文章が書けます。そのことを説明しました。

それにしても、「簡単な原理」を説明するために、2冊も本を書く必要があるのだろうか、という疑問は、当然生まれます。簡単な説明なら、1冊ですむはずです。

ただ、この2冊が扱う文章は、それぞれちょっと違います。テーマが微妙に違うので、やはり、別々の本で論じる必要があります。

●●
Aの『非論理的な……』では、論理的な文章を書くための方法を説明しています。この本を書くに当たって、私が特に念頭に置いたのは、大学生のレポートや論文です。

私自身、大学生の頃、レポートを書くのには苦労していました。「レポート・論文の書き方」といった本は読んだし、文章構成をどうするか、資料をどう集めるか、参考文献をどう示すか、などということは分かりました。それでも、レポート・論文と呼ばれる文章の本質については、まだよく理解できませんでした。「あっ、要するにこういうことか」と分かったのは、大学卒業後、ずいぶん経ってからのことでした。「こういうことか」と気づいた文章の根本原理を、できるだけていねいに、単純明快に説明しようとしたのが、Aの本です。

Aの本は、幸いにも、予想外の好評をいただきました。高校や大学などで文章指導に当たっている方々、あるいは、文筆にたずさわる方々などから、激賞とも言えるご評価をいただいたことは、著者冥利に尽きました。自分の考え方が間違っていないと認めてもらえることほど、うれしいことはありません。中には、「当たり前のことしか書いていないじゃないか」という批判もありましたが、これも、ある意味ではほめことばです。何しろ、「あとがき」で断ってあるように、私はそもそも「当たり前」のことを書こうとしたのですから。「当たり前」のことが分からないからこそ、(学生時代の私を含め)みんな困っているのです。

●●
Bの『伝わる文章の書き方教室』は、論理的な文章にとどまらず、およそ文章を書くときに必要な、「伝える」という目的を達する方法を説明しています。文章を書く目的は何かというと、これはほぼ例外なく、ものごとを読み手に伝えることです。ところが、肝心の「伝える」という機能が果たされていない文章が少なくありません。そのような文章をどう書き換えれば伝わるようになるか、というところに話をしぼって書きました。

などと言うと、実に大まじめな感じです。でも、私はむしろ、読者に楽しんでほしいと思って書きました。

この本は、ゲームふうの「例題」の連続で進んでいます。例題を解きながら、文章のコツを会得してもらおうとしています。

例題とは、たとえばこういうものです。ある小説の一節を、「い」の音を使わずに書き換えてみる。あるいは、漢語(漢字を音読みすることば)を一切使わない文章に書き換えてみる、などなど。ほかにも、ことば遊びふうの例題を多く用意しています。

「ことば遊びなんかやりたくないよ、それがどうして『伝わる文章』の話につながるのだ?」と言われそうです。でも、ちゃんとつながりますから、心配しないでください。本書は、「ゲーム感覚で楽しみながら、伝わる文章が書けるようになる」ことをねらって書いています。さっそくお寄せいただいた感想の中には、「実用書であるとともに実に楽しい読み物となっている」というおほめのことばもあって、まさしくそのつもりで書いた私としては、ありがたいことでした。

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レポート・論文に追われる学生諸君はAの本を、楽しみながら、達意の文章が書けるようになりたいと思う方はBの本を、どうぞご覧ください。


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2008年10月02日

麻生首相の演説の文体

9月29日、麻生新首相が所信表明演説を行いました。所信表明というよりは、政権交代をうかがう野党民主党への代表質問の色合いが濃く、異例の演説だと驚きをもって迎えられました。

私も有権者であるからには、演説の内容については思うところがありますが、ここは日本語について述べる場ですから、一切省略します。ここでは、新首相の演説文の特徴について指摘しておきます。

新聞で演説を読んで、すぐに、「ああ、これは役人の手がほとんど入っていないらしい」と思いました。首相の演説というよりは、政治家が夕刊紙に書くコラムのような文体です。〈〔民主党が〕のめない点があるなら〉などという格調を欠く表現が目につきますが、分かりやすいことは確かです。分かりやすいというのは、内容の適否や真偽について、聞き手(読み手)が判断しやすいということです。

首相の演説というものは、一般に、各省庁の役人が書いた原案をつぎはぎして作るものだそうです。そのせいか、ふつうはたいへん読みにくいのです。一文の中にたくさんの情報を欲張って盛りこんでいて、ついていけなくなります。

麻生首相の演説には、情報を詰め込む文は目立ちません。むしろ、〈経済成長なくして、財政再建はない。あり得ません。〉のように、「ない」を「あり得ません」にただ言い換えただけのところがあったりして、情報の密度は低いのです。ゆっくり進む授業と同じで、これは聞き手の理解を助けます。首相が何に積極的で、何に消極的かということが、よく分かります。

分かりやすいということのほかに、文末が多様であることも特徴です。役人の下書きに基づく演説は、一種の法律文のような趣があって、文末も型にはまっています。ほぼ10年前の小渕首相の所信表明演説(1998.08.07)を分析すると、7,461字、118文(私の計算による)のうち、「ます」で終わる文が95、「です」が10、「た」が7、「ん」が6です。長文の演説の語尾が、わずか「ます」「です」「た」「ん」の4種類しかありません。

私が文章を書いたとしても、「ます」「です」「た」「ん」が多くなります。この私の文章も、書き終えてから確かめると、(下の箇条書きの部分を除いて)この4つの語尾だけでできています。私の文章も役人ふうなのかもしれません。

麻生首相の演説は、がらっと様子が変わります。6,026字、206文のうち、「ます」で終わる文が106、「ん」29、「です」23、「か」10、「た」9、「ある」3、「を」3、「こと」2、「ましょう」2という具合です。このほか、1例ずつ出ているのが、「当たり前」「いく」「強化」「経済成長」「結構」「三年」「手段」「する」「たい」「立ちすくませる」「と」「取り組む」「無い」「…ない」「なる」「に」「不足」「ほしい」「補正予算」です。

「か」が多いのは、もちろん、民主党への詰問調の演説だからです。また、いわゆる名詞止め(体言止め)を多用していること、丁寧体の中に普通体を混ぜていることなどが、文末を多様にしています。これほど型破りな文体の首相演説は、後にも先にもないのではないかと思います。

最後に、私は麻生首相の演説をどう評価したかをまとめておきます。

1 文章が分かりやすい。したがって、内容がいいか悪いかが判断しやすい。
2 文末が多様。
3 格調に欠ける。

以上です。
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2006年02月19日

あること・あるもの

世田谷の五島美術館で「よみがえる源氏物語絵巻」展を見ました。国宝の源氏物語絵巻を、現代の技術により復元した模写が展示されています。元の絵巻では剥落してしまって茶色にしか見えない部分に、痕跡から復元した模様、家具調度、草木を色鮮やかに復元しています。「当時のものよりよほど芸術性が高いんじゃないか」と思うほど素晴らしい出来映えの模写です。

ロビーでは、復元過程をまとめたハイビジョン映像が見られました。これは、以前NHKのBS-hiで2005.11.17に放送された「ハイビジョン特集・よみがえる源氏物語絵巻〜浄土を夢見た女たち〜」を再編集したものではないかと思います。

この中で、絵巻の復元を担当した1人、日本画家の加藤純子氏について、次のようなナレーションがありました。
加藤さんはあることが気になりました。それは、夕霧がまとう装束の紫色でした。
私は、この「あること」「あるもの」という言い方を、テレビ番組でよく聞きます。すぐに答えを言うのだから、「あること」などともったいぶらなくてもよさそうでもあります。しかし、「あることって、何だろう?」と、見る人に注意を向けさせる効果があります。番組の中の肝心なところで「あること」と言うと、作り手の言いたいことが強調されて、具合がいいのでしょう。

最近も、「あるもの」という表現を耳にしました。中部国際空港の内部を紹介する中継番組で、NHK名古屋放送局・斉藤孝信アナウンサー、林家いっ平さんらが、次のように話していました。
斉藤 (空港内で行列を作っている人々を示して)この皆さんは、あるものを食べようと思って待ってるんですけど、おそらくね。
いっ平 (行列の中の女性に)あっ、どうもどうも。な、何を食べに来たんですか。
斉藤 食べ物は何を?
女性 あのう、ここはエビが、ね。
いっ平 エビ、なんですか。
女性 エビフライ。
(NHK「スタジオパークからこんにちは・生中継ふるさと一番!・飛ばずに楽しむエアポート」2006.02.16 12:20)
要するに、名古屋空港では大きなエビフライが食べられるということです。「この皆さんは、じつはエビフライを食べようというので並んでいらっしゃいます」「ほう、エビフライですか」というような会話でもかまわないはずですが、あえて「あるもの」と気を持たせるやり方で、視聴者の注意を引いています。

これは、レトリックの用語としては何というのかと思い、レトリックを専門にする知り合いの研究者に伺ってみました。すると、中村明氏の『日本語レトリックの体系』(岩波書店)で「情報待機」として紹介されているものに当たるのではないかとのことでした。

いわば、「なぞなぞ法」ということではないかと、私は勝手に考えます。ある情報をわざと隠して、聞き手に「何のことだ?」となぞを発生させて、次に来るはずの情報を期待させるレトリックでしょう。

テレビを見る人は、多くの場合、漫然と見ていますから、「あること」「あるもの」「ある道具」などと、時々なぞをかけて注意を喚起するのは親切なことです。多用すればうるさくなるかもしれませんが、それとなく使うならば、効果の上がる、うまい方法だと思います。

追記
もうひとつ、例を追加しておきましょう。テレビ朝日「ワイドスクランブル」2006.02.23 11:25の中で、次のようなナレーションがありました。
幼いころから天皇の後継者として立場をわきまえた言動を貫いてきた皇太子さまが、去年末、美智子さまも驚くあることばを発したと言います
これに続いて、皇室ジャーナリストという人が、それは「秋篠宮の方に男の子が生まれてもうちはかまわないよ」ということばだったと、見てきたようなことを言います。それにしても、上の部分では、「さま」以外に敬語が使われていませんが、いつごろからこうなったのでしょうか。(2006.02.24)

追記2
この文章を書いてから間が空いてしまいましたが、中村明氏の『日本語レトリックの体系』をようやく入手することができました。

それによれば、「情報待機」は、大きく「配列」というレトリックのうちに分類されるもののようです。同じグループで、この「情報待機」と似たものとして、「未決」のレトリックというものもあります。

まず「情報待機」ですが、これは、「読者の知りたがりそうな事柄をすぐに述べず、わざと後まわしにする」というレトリックです。典型例としては、中村氏によれば、太宰治「葉」の冒頭がそうです。
 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
いきなり「死のうと思っていた」とあるのに、話が着物のことに行ってしまい、読者はわけが分からないまま宙ぶらりんになります。

一方、「未決」のレトリックは、知りたい情報をすぐに与えないという点は「情報待機」と同様です。それだけでなく、読者の「未解決感を引き起こす目的でおこなわれる操作」です。中村氏が挙げるのは星新一のショートショート「問題の装置」(『だれかさんの悪夢』所収)です。この作品は、法廷場面から始まるのですが、検事が次のように論告します。
「被告はまことに恐るべき装置を作りあげた。これを放任しておいたら、世の秩序を根本からくつがえし、社会不安をひきおこしかねない。〔下略〕」
この「恐るべき装置」とは何なのか、読者は最後のほうまで分かりません。これは、テレビの言い方にすれば、「被告は、まことに恐ろしい、あるものを作りました」とでもなるでしょうか。

こう考えると、例のテレビの手法は、「情報待機」だけでなく「未決」のレトリックとして説明してもよさそうです。(2006.03.24)
posted by Yeemar at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月17日

僕は……僕は

固定的に考える私」の続きです。

「固定的にものを考える私は必要はないかと思います」のように、へんなところに「私は」を入れる人がいるという話はすでに書きました。これでは、「固定的に考える私」ととられてしまって、「固定的に考える必要はない」と私が考えている、とは伝わらないおそれがあります。

このような言い方は、単に、ことばを順番に並べることをしくじって、本来割り込んではならないはずの箇所に「私は」が割り込んでしまったものです。少なくとも、私はそう解釈していました。

ところが、2年ほど前のニュース番組を見ていると、また不思議な例を拾いました。アメリカ産牛肉の輸入が始めて禁止されたとき、外食チェーン店「ジョナサン」の横川竟会長が、次のように述べていました。
〔米側は、牛の〕全頭検査およびそれに準ずる形のですね、安全を確保できるような案を、ひとつかふたつ、日本政府にですね、やっぱ投げて、で、よく議論をして、一日も早く〔輸入を〕再開するですね、僕は国民に対する義務が、日本政府にもアメリカにも僕は輸出国としてあるし、輸入国としても僕はあると思いますね。(NHK「ニュース10」2004.01.15 22:00)
ここでは「僕は」という語句が3回繰り返されています。この「僕は」は、当然のことながら、1回言えば十分です。それを3回繰り返すのは、どういう理由によるのでしょうか。

文が長くなって、たまたま主語を2回繰り返してしまうことはあります。昔、テレビ朝日の報道局長が、当時下野していた自民党の怒りを買う発言をし、制裁を受けたことがありました。今その発言録を読むと、なかなか含蓄に富む内容ですが、それはともかく、局長は次のように言っています。
例えば、メディアが変に偏向するなんてことは、僕は日本の視聴者のチェックとそれからバランスというものから見てありえないというふうに僕は感じます。(「朝日新聞」1993.10.23 p.28)
「僕は」が2回繰り返されています。これは、1度言った「僕は」を忘れて繰り返したものでしょう。

ところが、さっきの会長のように、3回繰り返すということはどういうことか。おそらく、会長は、「僕は」ということばをフィラー(filler)のように使っているのでしょう。フィラーとは、「あのー」とか「まあこの」とかいう、文の要所要所で場つなぎのように挿入されることばです。

ニュースで使われた会長のことばはわずか何十秒かですが、その中に「あのー」「えー」というような完全に無意味なことばは入っていません。意識的に避けているのかもしれません。その代わり、「やっぱ投げて」の「やっぱ」のような意味の希薄なことば、「準ずる形のですね」「日本政府にですね」のような間投助詞が使われています。

「僕は」も、おそらく、これらと同じように、間を持たせるために使っているのでしょう。少なくとも、3回のうち2回は必要ないのですから、詰めものにする以外には使う目的がありません。

重要な主語を表すはずの「僕」を単なる場つなぎに使う語法は、ずいぶん大胆にみえます。このように、1文の中に3回も4回も使う人は、ほかにもいるのでしょうか。注意してみましょう。
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2006年02月10日

衽形(おくみなり)にしきる

比喩は、既成のことばで伝えきれないものをなんとか相手に伝えるための手段です。

既成のことばだけで伝えるのがきわめて難しいものはいろいろありますが、代表の1つは、複雑なものの形です。たとえば、青森県の下北半島の形をいくら説明しても、分からない人には分かりません。ところが、「まさかりのような形」と比喩を用いれば、一発で分かります(「まさかり半島」とも呼ばれる由)。同様に、北海道は魚の「エイ」のような形、群馬県は鶴が羽を広げて飛んでいるような形、福井県はおたまじゃくしのような形、とたとえられることがあります。イタリアは、もちろん、長靴にたとえられます。これらはすべて比喩です。

「T字路」(丁字路)とか、「川の字になって寝る」とか、「くの字に折れ曲がる」とかいうように、文字の形を比喩に使うこともあります。めずらしいところでは、「之(の)字運動」(艦船が大きくジグザグに進む運動。吉村昭「戦艦武蔵」)、「『ゐ』の字のように、ぐったりとあぐらをかいた」(堀田善衞「広場の孤独」)という例もあります。ギリシャ文字の「ζ」(ゼータ)の形に進む、というたとえを読んだ記憶もありますが、どこで読んだか忘れてしまいました。

ついでに言えば、中勘助「銀の匙」には「平仮名の「を」の字はどこか女の坐った形に似ている」という文が出てきます。これは事物で字形をたとえています。

さて、以上のような比喩も、たとえるもの自体を読み手が知らなければ、役に立ちません。尾崎紅葉の「多情多恨」に、ちょっと私にはよく分からない比喩が出てきました。
足の向くままに、地尻{ちしり}の杉垣と物置の蔀{したみ}とで衽形{おくみなり}に劃{しき}られた物干場{ものほしば}の方へ廻って見ると、隈笹{くまざさ}の所斑{ところまばら}に生{は}えた日陰に、長い霜柱{しもばしら}の矗々{ついつい}と立っているのが癪{しゃく}に障{さわ}って、(尾崎紅葉『多情多恨』〔1896年発表〕岩波文庫 1939年第1刷 2003年改版第1刷 2003.11.14第2刷 p.120)
この「衽形」がぴんと来ませんでした。「おくみ」というのは、辞書によれば
和服の前幅を広く作るために前身頃(まえみごろ)に縫いつける細長い布。(『岩波国語辞典』第6版)

和服の、左右の前身頃(まえみごろ)の前襟から裾(すそ)まで縫い付ける、半幅の細長い布。(『小学館日本語新辞典』初版)
ということですが、この説明がそもそも分からない。形や構造をことばで説明することはたいへん難しいのです。

結局、私は妻に着物を見せてもらって、ようやく見当がつきました。

着物の襟は、前身ごろに斜めに付いています。今、着物を着たときの向かって右側部分をカタカナの「イ」にたとえてみます。縦棒が前身ごろの端、「ノ」の部分が襟です。前身ごろと襟とはギリシャ文字の「Λ」(ラムダ)が縦長になったような形に離れています。この間をつなぐ布が「おくみ」です。つまり、「おくみ」は、縦に細長い布ですが、上端の部分は、ナイフの刃のように細長く「Λ」の形にすぼまって、襟と前身ごろをつないでいます。

と、字形の比喩を使って説明してみましたが、いかがでしょうか。かえってややこしくなったかもしれません。

ともあれ、尾崎紅葉が表現したかったのは、おくみの上端のように、「Λ」形に細くすぼまった土地だということでしょう。杉垣と物置とが斜めに向かい合って、「Λ」の形の狭い空間を作っていたということだと解釈されます。もっと身もふたもない言い方をすれば、ごく細長い三角形の土地です。

ふだん着物を着ない私には伝わらない比喩でした。しかし、この小説が発表された当時の読者にとっては、非常によく分かる比喩だったでしょう。
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2006年01月31日

やられますね、いい感じのKO。

NHK「プロジェクトX」の最終回スペシャル(第2部、2005.12.28 21:15)を見ていた時のこと。木村拓哉さんが番組についてコメントしていました。
プロジェクトXで取り上げられてる人たちって、わりとその猪突猛進型というか、ばーんってロックオンしたらもうそこに向かってだーって突き進む人たちばっかりじゃないですか。〔VTR省略あり〕それがみんなね、やられますねいい感じのKOをさしてくれるというか。〔省略あり〕でその当人がスタジオに来てて、VTR明けでその人たちの感想を聞く空気感とかあったじゃないですか。おれあのね、間はね、今、今ね、言ってるだけで、やばいすね、今、ちょっとね、来てますね。〔省略あり〕プロジェクトXコアファンとしては、あの間が好きです。
これだけのコメントの中に、私ならばまず使わないことばがいくらもあって、感嘆しました。さすがは、流行の先端を行く人だけのことはあります。

「プロジェクトの進行を見ていて非常に感動した」と言っているらしいことは分かりますが、「感動」「感激」「共感」など、よく聞くことばは一切使っていない。代わりに、「やられる」「いい感じのKO」「やばい」「来てます」ということばで、自分の感情を表現しています。ただ、不十分な描写という感じは残り、もっと別の言い方にできないかという気がします。

「やられる」は、私ならどう言うだろうか、考えてみましたが、たしかに、うまい言い換えのことばが見つかりません。「やられる」「KO」と言うからには、「殴られたような衝撃」ということなのでしょうが、決して暴力的な感じはありません。「魅了される」という気持ちも入っているように思われます。客観的なことばで言おうとすると、たとえば、「人間というのはここまでできるものかと、驚く気持ち、あきれる気持ち、そして心からの称讃の気持ちが……」などと、いくつも語句をつながなければならないでしょう(これで不足なら、さらに語句を加えるしかありません)。

「やばい」「来てます」は、「泣いてしまいそうで困る」とか、「涙が目の内側まで達しています」とかいうことでしょう。しかし、単に「もう涙があふれてしまいそうで、困ります」という表現だけでは足りない内容を言おうとしているようです。これも、彼の気持ちを客観的に正確に言おうとすれば、語句をいくつもつなぐ必要があるでしょう。

厳密なことばは、光の強いサーチライトのようなもので、一部分ははっきり照らせるけれども、全体を明らかにできないこともあります。それに対して、「やられる」のような漠然としたことばは、光は弱い(意味はもうひとつよく分からない)けれども、広い範囲を照らせるランプのようなものです。暗くても、とにかくものを照らす(気持ちを表現する)ことには成功します。木村拓哉さんは、あえて褒めるならば、こういった漠然としたことばの名手であるかもしれません。

なお、「ロックオンする」は最近よく聞くようになったことば(私が始めて聞いたのは2005.02.19)。英和辞書によれば、「連結する」「(ミサイル・レーダーなどが)自動追跡する」ということですが、「対象をしっかりとらえる」とか「対象から目が放せなくなる」とかいうような意味で使っているのかと思います。

「コア(な)ファン」は、和製英語でしょうか。好きな対象の中心(core)までどっぷりと入り込んだ、徹底的なファンということか、骨の髄まで対象にほれたファンということか、私はまだよく理解していません。

「空気感」は、私が最初に注意を向けた例は2004.05.04放送のNHK教育「日本語なるほど塾・4月のおさらい増刊号」でした。山根基世アナウンサーが、
井戸端会議なんていうの、ああいう世間話をする場というのは、そういう空気感をつかむにはいい場だったんでしょうね。
と言っていました。
posted by Yeemar at 14:39| Comment(4) | TrackBack(2) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月29日

2つのことがらの後に否定表現

 東京の日本橋は、高速道路に覆われたまま日陰になっています。これを何とかしようと言う機運が出てきているようです。4人の有識者が首相からそのプランづくりを託されたことが「朝日新聞」2006.01.29 p.3の社説に出ていました。

社説では、「日本橋の貧弱な姿は高度成長が残した負の遺産」と認めた上で、
4人のお歴々には注文がある。首都の未来像を真正面から論じ、人気取り政策のお先棒をかつぐのはくれぐれも慎んでもらいたい。
と結んでいます。

この部分は典型的な悪文です。これでは「首都の未来像を真正面から論じるのは慎んでもらいたい」と言っているように読みとれます。

日本語の文には、誤解を招きやすい文型がいくつかあります。その1つが、「2つのことがらの後に否定表現を置く場合」です。「Aで、Bでない」とか、「Aし、Bすべきでない」とかいう書き方をすると、Bだけが否定されているのか、AとBとがともに否定されているのかが分からなくなります。

この社説では、「首都の未来像を真正面から論じること」がAで、「人気取り政策のお先棒をかつぐこと」がBにあたります。そして、「くれぐれも慎んでもらいたい」と否定(広い意味で)しているのは後者Bについてだけですから、それが分かるように書かなければなりません。

いちばんいい方法は、文を切ってしまう書き方です。

「首都の未来像を真正面から論じてほしい。人気取り政策のお先棒をかつぐのはくれぐれも慎んでもらいたい」

というように。あるいは、

「人気取り政策のお先棒をかつぐのはくれぐれも慎み、首都の未来像を真正面から論じてもらいたい」

と否定を前に持ってくるのでもいいでしょう。文も切らず、順番も入れ替えないとすれば、たとえば、

「首都の未来像を真正面から論じ、万が一にも人気取り政策のお先棒をかつぐことがないように気をつけてもらいたい」

のように、「万が一にも」「決して」など、間に副詞(句)を入れて分かりやすくすべきでしょう。

上の例とは逆に、A・Bをまとめて否定しているのに、それが分かりにくいこともあります。たとえば次のような場合です。
太田〔英昭(フジテレビ生活情報局長)〕 フジテレビの場合、ワイドショーの放送時間は減っているし、中身もド派手で視聴率至上主義でないと言い切れます。(「毎日新聞」1999.08.03 p.25)
これを読むと、「フジテレビのワイドショーは、中身がド派手ではあるが、視聴率至上主義でない」ということかと、一瞬、思います。両方を否定するならば、「ド派手ではないし、視聴率至上主義でもない」と、いちいち否定の語を入れておくのが、読者にとっては親切でしょう。

「よく読めば分かるだろう」と、読者の読解の労力をあてにするのはやめるべきです。

(関連文章=「夕べを待つカゲロウ」「カゲロウ、その後」)
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2006年01月21日

ではの守

文章の書き手が、自分の論を補強するために「外国ではこうだ」ということを持ち出すことがあります。しばらく前、この「外国では○○だ」の例を集めていたことがあります。

たとえば、東京駅の東海道山陽新幹線駅構内のトイレに「Toilets」「REST ROOMS」と書いてあるのはいけないと、ある学者が週刊誌で指摘したことがあります。その文章は、駅長への公開質問状でした。
(1)Toiletsは英国式で、REST ROOMSは米国式です。統一した方がスッキリしませんか。(2)2語のREST ROOMSは、実は、間違いです。現実のアメリカ社会では、どこを見渡してもRESTROOMSと1語で使っているからです。(「サンデー毎日」1999.10.03 p.126)
「Toilets」が英国式で、1語の「RESTROOMS」が米国式ならば、「REST ROOMS」は、つまり日本式でしょう。国によって書き方が違うだけの話ではないか、と私は思いました。「看板を付け替えろ」と言わんばかりに論難するのは厳しすぎます。しかしまあ、英語の本場はたしかにイギリス、アメリカであるし、こういう主張もありうるだろうという程度には理解できます。

また、こういうのもあります。
エレベーターを降りる時、日本人はなぜ前に人がいるだけで「すみません」と謝るのか外国人にはよく分からない。(朝日新聞 1993.10.22)
この例は、「日本語特殊論」といわれる論じ方の1つでしょう。外国人がどう思おうと、日本語には日本語の発想があります。この場合の「すみません」だって、謝っているのではないのです。その証拠に、謝る時(感謝する時)の「すみません」には「どうもすみません」と「どうも」をつけることができますが、道をあけてもらいたい時には「どうもすみません」とは言いません。外国人に分からないのではなく、記事の書き手が日本語の発想を分かっていないのです。

こういう「アメリカでは」「外国では」という論法を、「ではの守(かみ)」と言ってからかう向きもあります。「ではの守」がすべて悪いわけはありませんが、中に首をかしげざるをえないものも多いのです。

しばらく、そのような例の収集を怠けていましたが、最近――といっても、もう1年近く前の週刊誌を整理していたら、久しぶりに興味を引かれる例に出会いました。対談で、ある女性がアメリカの映画俳優に対し、次のように話していました。
この映画では、夫婦で一緒にパーティーに参加しますよね。ここも日本とは全然違うし。日本の奥さんは、パーティーに旦那さんを送り出して、自分は家でお留守番なんです。
これに対して、アメリカの映画俳優は
エッ、それは奥さんに失礼ですね。パーティーに連れていかないのは妻に対する侮辱です。アメリカではあり得ません。(「週刊朝日」2005.05.06-13 p.54)
と答えました。

ちょっと、この俳優のせりふは失礼じゃないかと思います。日本人にもいろいろな夫婦がいて、妻が「私もパーティに行きたい」と思っているのに、夫がそれを察してやらないというような事例もあるでしょう。しかし、夫が友だちと集まって飲んでいる席に、自分は行きたくないと思う妻もいるのではないでしょうか。それを等しなみに「妻に対する侮辱です」というのは乱暴です。

乱暴であるだけではなく、「アメリカではあり得ません」と言っているということは、「アメリカでは妻を大事にするが、日本では妻を侮辱している」と言っているのと同じです。相手からちょっと聞いただけの話に対する論評としては、行き過ぎでしょう。

もっとも、この映画俳優の発言は、インタビュアーの女性によって引き出されたものです。インタビュアーは、アメリカの映画俳優の口を借りて、日本人(の男性)にひとこと言いたかったのでしょうね。これも、「ではの守」の手法の1つでしょう。
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2006年01月03日

なぞの看護婦

夏目漱石の「行人」に不可解な看護婦が登場します。といっても、文章の書き方のせいで、読んでいる私が一瞬迷ってしまうというだけのことなのですが……。こういうものも、やはり悪文の例に数えていいだろうと思います。

主人公は、友人の三沢を見舞いに病院に行きます。そこで、三沢が「あの女」と呼ぶ別室の入院患者のことが話題になります。主人公は、「あの女」に関心を抱き始めます。そこに次のような記述があります。
「あの女」は室の前を通っても廊下からは顔の見えない位置に寐ていた。看護婦は入口の柱の傍へ寄って覗{のぞ}き込{こむ}ようにすれば見えると云って自分に教えて呉れたけれども自分にはそれを敢てする程の勇気がなかった。
 附添{つきそい}の看護婦は暑いせいか大概はその柱にもたれて外の方ばかり見ていた。それが又看護婦としては特別器量が好いので、三沢は時々不平な顔をして人を馬鹿にしているなどと云った。(友達 二十二〔新潮文庫2005.01.20 95刷 p.51〕)
ここに出てくる看護婦は、いったいどういう性格なのか、よく分かりません。「あの女」に興味を持つ主人公に「部屋を覗き込むようにすれば彼女の顔が見えますよ」と協力的な様子を見せるかと思うと、そのすぐ後では、なんだか素知らぬふりで、窓の外をながめているというのです。

注意して読めば、正解はどういうことか、すぐに分かります。要するに、看護婦が2人いるんですね。1人は友人三沢の病室に来る看護婦で、もう1人は「あの女」の病室につきっきりで看病している看護婦です。ちなみに、三沢の看護婦は不器量で、「あの女」の看護婦は器量良しです。

数行後まで読めば、複数の看護婦がいることは理解されるようになっています。しかし、できるなら、後を読まなくても分かるように書いておくべきでしょう。女性が複数出て来る場面で「彼女」という代名詞を使うと分かりにくくなる、という話は「彼女はどちら」で述べましたが、それと似た問題を含む文章です。

この場合、「三沢の部屋に来る看護婦」「あの女に附き添う看護婦」と明示的に書けば、誤解の余地はありません。とはいえ、これは小説ですから、あまりくだくだしく書くわけにはいかないのも事実です。そこで漱石は、「あの女に附き添う看護婦」にのみ「附添の」という形容をつけて区別したのでしょう。でも、それでは不十分です。

それならば、どうすればいいか。自分が作者になったつもりでいろいろ考えてみるのは楽しいことです。私は、それぞれ単純に「三沢の看護婦」「あの女の看護婦」でもいいではないかと思いますが、どうでしょうか。
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2005年12月31日

彼女はどちら

大晦日の「紅白歌合戦」にちなむわけではありませんが、歌手の倖田來未さんに関する週刊誌の記事をひとつ取り上げます。倖田來未さんの所属するエイベックスの関係者が彼女について語ったコメントが、次のように紹介されています。
「〔倖田來未は〕デビュー以来ストレスで過食し、太ったり痩せたりの繰り返しでした。妹のmisonoがボーカルだった人気ユニット『day after tomorrow』が、彼女の太りすぎで芸能活動を中止したように、『うちは太る家系だから』という強迫観念がある。体型維持のため食を減らし、さらに禁酒、禁煙で節制しているから、恋愛だけは我慢できない」(「週刊文春」2005.11.10 p.39)
さて、ユニットの活動を中止させるほど太ってしまった「彼女」とはだれか。ずっと最後まで読めば誤解の余地はないでしょうが、私は「彼女」の部分で2、3秒ほど引っかかりました。

ふつうに考えれば、「彼女」は「妹のmisono」さんでいいのでしょう。人気ユニットの中心となるボーカルのmisonoさんが太りすぎたため、そのユニットが活動を中止した、と読み取ることができます。しかし、このコメントは倖田來未さんについてのものですから、ぼんやり読んでいる読者(私)は、「彼女」を倖田來未さんのことだと考えたくなります。

妹がボーカルを務めるユニットになぜか倖田さんも(コーラスか何かで)参加し、倖田さんが太りすぎたため、ユニットの活動自体が停止してしまった、と読めないこともありません。私は、そう読んだのでした。

私のぼんやりを棚に上げて言うなら、この文をあいまいにしているのは「彼女」という代名詞です。同性が2人以上出てくる場面で「彼」とか「彼女」などのことばを使うのは控えるべきです。「彼」「それ」「これ」など、いったいに代名詞というものは、不用意に使うとかえって混乱の元になります。

上の記事の字数を変えずに書き換えるならば、たとえば、次のようにしてはどうでしょう。

「妹のmisonoも人気ユニット『day after tomorrow』のボーカルだったが、太りすぎでユニットが活動中止になった。『うちは太る家系』という強迫観念が倖田にはある」

文を短く切るのも、私の好みであります。
posted by Yeemar at 20:47| Comment(0) | TrackBack(1) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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