2008年04月13日

「号泣」の「誤用」成立まで

三省堂辞書サイトでの連載に書いたばかりのことですが、『三省堂国語辞典』第6版に「号泣」の「誤用」の意味が入りました。いわく、
(2)〔あやまって〕大いに なみだを流すこと。
この用法の成立について、上の連載の文章に例を補ったりして、もう少し詳しく記してみます。

「号」は、「号令」「怒号」で分かるとおり、「さけぶ」という意味です。でも、大声をあげず、いわば「滂沱の涙を流す」とでもいうべき場合に使われているというのが、上の語釈の趣旨です。

声を上げない「号泣」については、早くは、橋本五郎監修・読売新聞新日本語取材班『乱れているか? テレビの言葉』(中公新書ラクレ 2004)p.26で触れられています(元の新聞記事は2003.10.09 夕刊 p.18)。
ワイドショーなどでは、過剰な表現のタイトルを多用することが多い。「遺族号泣」「アジト潜入」「極秘入籍発覚」――。大げさな言葉で視聴者の目を引こうとする姿勢がのぞいている。
と記し、かつまた、フジテレビの生活情報局では「号泣」「潜入」などの誇大表現を避けるよう指示するようになったとつけ加えています。ここでは、「号泣」は誇大表現という扱いです。

ネット上でも、早くから指摘されています。
 ずっと前から不愉快に思ってたんだけどさ、「号泣」って表現ね。あれ、どうにかしろよ!>テレビ局/〔略〕/ 言葉の意味ぐらいは知ってて使ってるんだろうけど、いくらテレビ欄を見る人の注意をひきたいからといってもさ、視聴率を稼ぎたいからといってもさ、いつもいつもその表現だと、そのうち「涙が出るか出ないかくらいの泣き方」が「号泣」って意味になっちまうよ。(ブログ「雑草譚」2004.07.29〔元は2004.04.11〕)
これも「誇大表現をやめよ」という趣旨ですが、それだけでなく、誤用を誘う可能性も示唆しています。

私は、先の『乱れているか? テレビの言葉』は、刊行されてすぐに読みましたが、単に「誇大表現」の話と受け取り、「号泣」の意味の変化につながるものとは考えませんでした。想像力に欠けるというべきです。

私自身が首をかしげた最初の例は、「ウィキペディア」の文章でした。「NHK紅白歌合戦」(2006.01.02 06:36の版。気づいたのは同年9月)に、次のようにありました。
〔1984年の「紅白」で〕最後には、〔引退する〕都はるみの代表曲「好きになった人」が歌われた(都本人は号泣して殆ど歌えず、他の歌手達が都を囲んで合唱)。
私はこの「紅白」を見ていますが、都はるみは、「さけび泣くだけで、歌にならなかった」わけではなく、涙で声がつまったのです。ここで「号泣」というのは、誇大表現というよりは、話を変えてしまうと思いました。

「号泣」にいっそう注意するようになったのは、週刊誌で次の例を見てからでした。
〔覚醒剤で逮捕されたミュージシャンの裁判で、被告人は〕情状証人として父親が出廷すると、下を向いて泣き始め、弟まで出廷すると大号泣に。(「週刊朝日」2006.12.29 p.42)
これは法廷内のことですから、もし被告が大声を上げて泣きだしたら、裁判の進行はストップです。これは涙をたくさん流したということだろうと思われます。

テレビの例は、ワイドショーをあまり見ないので遅れましたが、ようやく採集しました。
〔字幕〕夕張市取材でみのもんた号泣、善人面する薄っぺらなマスコミ報道(MX東京テレビ「談志・陳平の言いたい放だい」2007.01.21 6:00)
みのもんたさんが、財政再建団体となった夕張市の窮状に同情の涙を流したということと思われます。声を上げて泣いては、放送ができないはずです。

こういった具合で、いくつか例を集めました。とはいえ、どの例も、その部分だけを読めば、単なる「誇大表現」か、それとも「誤用」か、分かりにくいものです。だれが見ても声を上げていないことが明白な文で、「号泣」と言っている例があればいいと思いました。

その例は、新聞連載まんがの西原理恵子「毎日かあさん」にありました。
〔母の私が公園で酔っぱらいと〕だらだら話してたらば 〔そばでブランコをこぐ〕娘にとっては 〔ひとこぎするたび〕ものすごい 怖いおっさんが 10秒に一回 眼前にやってくるわけで/30分後に声を止めて号泣してる娘を発見/〔娘発言〕女の子なんだから あんな怖い人に 近よせないでっ いい人かもしれない けど好きになれ るもんじゃないのっ(「毎日新聞」2007.09.16 p.21)
「声を止めて号泣」とあるので、これは確実に声を上げていない「号泣」の例です。しかも、多数の人の目に触れる新聞に載った例であり、これで「号泣」の誤用は一応証明されました。この例は、画像とともに、上記の三省堂辞書サイトでも紹介しました。画像の掲載許可は、編集部から西原さんに頼んでいただきました。

このほか、いくつかの例をもとに、この用法は、『三省堂国語辞典』第6版に無事(?)載りました。

最後に、最近の例から、明らかに〈大いに なみだを流す〉場合を、もう一つ挙げておきます。
〔千原ジュニア〕〔バイク事故の〕後遺症で、涙腺が狭窄してですね、その涙嚢というまあ涙が溜まるところがつながってないんですよ。たとえばしゃべっていたりその温度なんか変わるとこっちから涙出てくるんですよ。だからうどん食べたらふつうはなが出ますよね。僕、涙、あのうどん食べたら号泣ですよ。(日本テレビ「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2008.02.01 20:00)
「うどんを食べると、はな水の代わりに涙が出る」というのですから、ここは声を上げるかどうかは問題にしていない例です。
ラベル:号泣
posted by Yeemar at 07:50| Comment(11) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
誇大表現としての「号泣」の起源は『巨人の星』であるという仮説はいかがでしょうか。

『巨人の星』ではたびたび登場人物が号泣する→人々の印象に深く残るとともにむしろ滑稽にも見えてくる→漫画界で繰り返しパロディーにされる→転じて文章でのパロディーにされる→滑稽さを意図しない文脈でも使用される、という経緯をたどったのではないかと思う次第です。
Posted by ヒルネ at 2008年12月05日 00:29
こんな時期のコメントですが、全く同感です。
最初は、「号泣」という単語の響きがしゃれている程度の動機で使われたとは思いますが、今となってはこの誤用を元に戻すのは、マンションはアパートではないと言うのと同じくらい難しいのではないかと悲観的な気持ちになっています。
Posted by momo at 2009年08月13日 12:52
テレビなどよりも活字媒体で「大いに なみだを流すこと」の意味で「号泣」が濫用されているのに非常に腹が立ちます。
文字を見れば意味が明らかなものを平気で誤用しているあいつらは文章で飯を食う資格なし。
Posted by toshi at 2011年05月01日 16:37
手放しで子供の様に大声で泣く、号泣ってそういうもんだと私はずっと思ってました。お葬式でもなければ、そんな場面めったにありません。ところがワイドショーではみ〜んな号泣・号泣・大号泣ですよ。最近はワイドショー用語と思い、気にしないようにしていましたが・・・海江田氏国会で号泣、などというのを見ると、ほんとバッカじゃね〜の?と思ってしまいます。
Posted by なお at 2011年08月09日 22:36
いまや「号泣」は、「大泣きすること」の意で広く使われています。
理由は、「大泣き」に相当する2字以下の他の熟語が知られていないからだと思います。

一般的な理解として、「大泣き」とは、「涙を多く流す泣き方」であり、
声の有無は、あまり問題にはならないと思います。

私はべつにそれが誤用だとは思えません。単に、「号泣」の意味の範囲が
前よりも広くなっただけではないですか。
Posted by 岸田栄 at 2011年09月15日 23:06
「誤用でも定着したら正用化する」というのをどこまで認めるか、というのは難しい問題だけど、やはり「号泣」の「号」は「怒号」の「号」ですから、「サイレントな号泣」というのはどうもナンセンスの感を拭えないので、もう100年くらいは誤用であると指摘し続けた方がいいですね。100年抵抗して押し切られたら、まあ仕方がない、と(笑)。安易に広まった誤用を「正用」扱いするのは俺は反対で、一定の歯止めは必要だと思います。
Posted by グルーナ at 2012年02月09日 15:14
それでも大泣き状態で号泣という言葉を使うのであれば百歩譲ってまだ認められるのですが、
涙目程度で号泣、涙が一筋でも流れたら大号泣、という表記は見ていてなんだかなぁ、という気持ちになってしまいます。
声の有無ですらなく「涙を多く流す状態」にすらなっていないのに多用しているのでは、使用範囲が広くなっただけとは言い難いのではないのでしょうか。
Posted by ぴ at 2012年03月12日 12:29
 正に同感です。日頃よりイライラして聞いていたこの「号泣」の誤用を、新しい時代の表現と決して認めないで欲しいと強く希望します。
 また、イントネーションで気になる言葉で「背景」があります。NHKのアナウンサーまでが・・・と愕然とします。背景は「は」が下がり「いけい」が上がります。それが何時からか「拝啓」と同じになりました。これが認められるのなら、「今日は飴(雨)が降っています。」も認められるべきで、日本語の行く末が怖くなります。日本語の誤用修正は、国の文部省あたりが動いてくれても良いのでは・・・。
Posted by 原 真知子 at 2013年01月25日 23:12
 正に同感です。日頃よりイライラして聞いていたこの「号泣」の誤用を、新しい時代の表現と決して認めないで欲しいと強く希望します。
 また、イントネーションで気になる言葉で「背景」があります。NHKのアナウンサーまでが・・・と愕然とします。背景は「は」が下がり「いけい」が上がります。それが何時からか「拝啓」と同じになりました。これが認められるのなら、「今日は飴(雨)が降っています。」も認められるべきで、日本語の行く末が怖くなります。日本語の誤用修正は、国の文部省あたりが動いてくれても良いのでは・・・。
Posted by マッチー at 2013年01月25日 23:20
最近は「大号泣」などと、さらにエスカレートしています。
「激白」「激写」など、オーバーな表現ばかりです。

中身がないほど言葉に厚化粧させるようです。

このような傾向に、「言葉は変化していくもの」としたり顔で言う人がいますが、不勉強や非常識を恥じることが先だと思います。

つくづくテレビやネットは、人間を愚かにするものだと感じます。
Posted by Passerby at 2014年03月16日 14:15
テレビ欄では文字数も限られているので体言止めが基本になる。通常なら普通の動詞で終わるべきところを、その語義をやや誇張しつつ、いわゆるスル動詞に置き換えて、その語幹になる2字熟語で終わる手法が多用される。かくして「笑う」は「爆笑」に、「怒る」は「激怒」になる。
ところが「泣く」だけは相応のスル動詞が見当たらない。あえて言えば「大泣きする」という言葉はあるが、「はるみ大泣き」ではどうにもしまらない。「爆笑」や「激怒」にくらべるとインパクトに欠ける。

……というわけでテレビ欄の原稿担当者は「号泣」という言葉に飛びついたんだろうと思います。
もしかしたら最初は実際に大声で泣く場合にだけ使っていたのかもしれない。でもそのうち自分たちでもわけがわからなくなり、いつのまにか「号泣=大泣きすること」と思い込み、そのまま濫用をつづけてしまった。そしてそこから一般大衆に広まってしまったのではないかと。
テレビ局の罪は深いですね。

時代による語義の変化をある程度は認める立場でいるつもりではありますが、このように漢熟語において漢字の語義を無視した形で誤用が広まってしまうのはやはり問題だと思います。日本語の性能低下につながりかねないのではないかと。
最近では「課金」という言葉が非常に気になりますね。若い層の間ではすっかり「(スマホゲーム等に)金をかけること」という逆の意味で定着してしまっている。本来の「金を課する」という意味を知っている若者はほとんどいないでしょう。
Posted by るりか at 2016年05月26日 19:34
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