現在の常用漢字表と、社会の漢字使用の実態がかけ離れてきた。これが今回の改定の理由だと理解しています。つまり、漢字表を現実の社会に合わせようということです。子ども(社会)の体形が変わってきたから、それに合わせて服(漢字表)を替えようということですね。この趣旨はまったく賛成です。そこで、関係各位にお願いしたいのは、これと逆に、社会のほうを漢字表に合わせるような結果にならないようにしていただきたいということです。
私が中学生だったころ、今の常用漢字表ができました。漢字で書けることばが増えるということで、たいへん喜びました。これからは「ぼくは」でなく「僕は」と書けるのですから、大歓迎です。ところが、思わぬ落とし穴がありました。高校生になってから、漢字のテストで、「洗濯」の「濯」の右上を「羽」にしてバツをもらったのです。「濯」は、常用漢字表に新しく入った字で、それまで一般に「羽」だった部分が「ヨヨ」に変えられました。私は、「濯」が表に入ったことは知っていたものの、ついでに字体も変わったことまでは知りませんでした。先生に言われて教科書の後ろの漢字表を確認し、「ヨヨ」になっていることを知って衝撃を受けました。
似たようなことは、たびたびありました。常用漢字表制定からしばらくは、教科書にも新旧の字体が混在していたので、「霸権」と「覇権」のどちらが正しいのか混乱したりしました。今でも、「『ほたる』という字は『螢』だっけ、『蛍』だっけ、たしかあれは常用漢字表に入ったから『蛍』だな」などと迷うことがあります。
政府の決めた漢字表と無関係に暮らし、自分の好きな漢字を書いていれば、こういうことで悩みはしません。でも、多少とも漢字表を尊重して生活している人は、表の内容が大きく変わると、まあ大げさに言えば、自分の文字生活の基盤がくつがえる思いをしなければなりません。人々の文字生活の実態に寄り添った改定であればありがたいのですが、人々の文字生活のほうを変えさせる改定にはならないようにしていただきたいのです。
もっと具体的に言えば、「今回の改定で、字体の変更がなければよいが」と心配しています。これについては、字体変更やむなし、いや、変更すべきでない、と激論が闘わされているので、もはや指をくわえて成り行きを見守るしかないのですが、字体は変更しないのが穏当だろうと考えます。
たとえば、「賭」という字の「日」の上に「ヽ」がある現在の活字(印刷標準字体)が、新常用漢字表に入り、「諸」などに合わせて「ヽ」のない字になったとします。すでに「点あり」で覚えていた人は、高校時代の私と同様に混乱するでしょう。
「いやいや、それは筆写体と活字体を混同しているんだ」という反論があると思います。手書きの時は、「賭」には点を打たないのがふつうです。その字体が漢字表に採用されたと考えれば、「点なし」がむしろ自然だともいえます。しかしながら、漢字字典を見た生徒は「点あり」で覚えます。その生徒が漢字テストでバツをもらって驚くという事態も起こるでしょう。
漢字テストは一例です。多言を避けますが、現実に字体変更が決まれば、印刷物やコンピュータの書体を一新しなければならないなど、社会的影響が大きいことは言うまでもありません。社会の変化に応じて漢字表を改めたはずが、漢字表に従って社会が大きく変わる、もっと言えば振り回されることになります。これでは主客逆転であり、本末転倒です。
とはいえ、字体を変更しなければ、同一の漢字表の中で、Aは略字体を採用し、Bは正字体(というか従来の表外漢字字体)を採用するという不整合が起こり得ます。そのほうが、学校の生徒にとっては迷惑ともいえます。
では、どうすればいいか。これもすでに案が出ていることですが、書くための漢字(書写漢字)と、読めればいい漢字(理解漢字)の2つの表に分けるのが最も妥当だろうと思います。
書写漢字は、現在の常用漢字の1945字で十分でしょう。高校まで(大学まで)かかっても、1945字も書けるようにするのは一苦労です。何なら、ここから「勺」「朕」「逓」「匁」などいくつかの字を削っても結構です(削らなくても結構です)。
一方、理解漢字は何百字でも増やしてよいと考えます。新常用漢字表で増える字は、すべてこの理解漢字ということにします。私たちの能力は不思議なもので、書けなくても読めるだけでよければ、非常に多くの字を覚えることができます。この理解漢字の字体は、「賭」「謎」「餌」などをはじめ、現在の印刷標準字体をそのまま示しておきます(「賭」は点のある字、「謎」は二点しんにゅう、「餌」の食へんはむずかしい字体)。書写漢字とは別の表なので、新しく増えた字を略字体にしなくても、表の一貫性は保たれます。
今回の改定理由では、「情報機器の発達で目にする漢字が多くなった、そこで、その漢字をちゃんと読めるようにしよう」ということが大きいはずです。つまり、理解漢字を多くすることが主目的であって、書写漢字を多くすることは主目的でないはずです。それならば、書写漢字と理解漢字との2つに表を分けることは妥当性が高いというべきです。この点について、どれほど議論が進んでいるか知らないのですが、2表に分ける方向で話し合っていただきたいと希望します。
私見をまとめますと、以下のようになります。(1)新しく常用漢字表に加わる漢字は、現在の字体(表外漢字字体表の字体)を変えないでいただきたい。(2)新追加の漢字は理解漢字とし、従来の常用漢字は書写漢字として、性格を分けていただきたい、漢字表を2表に分ければ、それぞれの表では字体の整合性に矛盾も生じない、ということです。
最後に蛇足ですが、国語政策が変わるたびに、私の頭は混乱の度を深めていくようです。常用漢字表が決まってから「濯」などの字を覚え直し、JIS漢字の変更で(これは経済産業省の管轄ですが)「森オウガイ」の「オウ」を手書きでも「区に鳥」と書くようになり、そうかと思えば「表外漢字字体表」が答申されたのを見て(これは活字に関する決まりですが)、やっぱり「オウガイ」は「區に鳥」のほうがいいような気がしてきたりと、落ち着きません。私の反応がことさら極端というわけではないでしょう。字体変更はないのが理想的だと考えます。
▼関連文章=「「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―」
ラベル:常用漢字表
戦後のどさくさに紛れて、表音主義者、カナモジ論者、ロオマ字化論者、漢字廃止論者、さらには国語フランス語化論者(志賀直哉)らによつて強行された「国語改革」は、当時においても「社会的混乱」をもたらしました。今では、大学の研究者のなかにでさへ、敗戦以前の様々な書物を読むことのできぬ者が居るやうです。今も文化的断絶状態が続いて居る一例だと思ひます。
表音主義者で改革の一翼を担つた金田一春彦は、当時はワープロの出現など予想だにしなかつたとしたうへで、「こんなことなら、当用漢字も現代仮名遣ひも必要なかつたのだ」と後年になつて述べ、率直に自らの非を認めて居ます。
この問題の本質は、「国家が文字を規制しやうとすることの愚かしさ」「慣習としてあるいは伝統として続いてきたものを一夜にして変更することのいかがはしさ」にあると思ひます。社会的混乱を危惧して、永い伝統によつて育まれた「国語」を取り戻し、次世代につたへることを怠るなら我々日本人のアイデンティティは今後もあてもなく彷徨ひ続けることになるでせう。
つまり、なされるべきことは、「改定」などではなく、「常用漢字表と現代仮名遣ひの廃止」であります。
是非とも、『国語問題協議会』のサイトをご覧になつてみてください。
「祖国とは国語である」 シオラン