2008年03月05日

昭和を騒がせた漢字たち

 円満字二郎著『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館 2007)がベストセラーになっています。すでに的確な書評はいくつも出ていますが、好きな本なので、遅ればせながら、感想めいたものを書いておきます。

 この本は、題名から分かるとおり、昭和(戦後)の歴史と漢字との関わりを、いくつかの具体的な事件を中心にして論じるものです。私自身、ことばや文字が好きなのは当然として、戦後の歴史にもオタク的な興味があり、NHK「THE NEWS」(戦後のニュースハイライトが1年1巻にまとまっている)などというビデオを見ては楽しんでいるので、本書はいわば「ツボにはまった」という感じです。一気に読んでしまいました。

 本書に出て来る「漢字にまつわる事件」は、知らないものが多くありました。たとえば、戦後いったん「郵政省」になった役所を「逓信省」に戻そうという動きがあったこと(その中心人物は田中角栄)。専売公社のたばこ「おおぞら」に「宙」という文字をあしらったところ、「その漢字はそうは読めない」と批判されてデザイン変更になったこと(しかも売れ行き不振で製造休止に)。小学校で「元気で仲よく」という碑を建てたら、漢字の点画がおかしいと裁判沙汰になったこと。どれも当時は話題になったのかもしれませんが、私には初耳で、基本的な知識の部分で勉強になりました。

 知識もさることながら、筆者の視線は、漢字そのものだけでなく、漢字を使う人々、さらにその時代に向いており、それが本書を独特のものにしています。ある漢字について、「Aと書くのが正しいか、Bと書くのが正しいか」と正誤の点で論ずる本は、うんざりするほどあります。気のきいた本になると、「なぜAと考える人がいるのか、Bと考える人がいるのか」と、人間に焦点を当てるものもあります。ところが、本書では、「AとかBとかいう議論が出て来たのは、そもそもその時代がどういう時代だからか」という、さらに一段高い所に上がって見渡しています。漢字の歴史という大河を上から眺めているような、見晴らしのいい感じがあります。

 たとえば、「元気で仲よく」という小学校の碑文の話では、「仲」のにんべんの縦棒が、上に少し突き出ているのは、マルかバツかという議論が戦わされたそうです(1970年代のこと)。もし、専門家がこれに解説するなら、「どちらもバツではありません」とか「あまり目くじらを立てないで」とか言うのがせいぜいだろうと思います。本書の興味深いところは、さらに進んで、こういった点画にこだわる議論が、そのころから激化した受験戦争の必然として起こったと指摘している点です。ということは、この碑がそれより前の時代に建っていれば、批判も起こらなかった可能性があります。

 さらにさかのぼった時代、1950年代には、福井県庁の掲示板に「福丼県」と書いてあったことが、官民を巻きこんで議論になったといいます。今日の目から見ても、「福丼県」はおかしいような気がしますが、「井」を「丼」と書くことは歴史的にもあったのだそうです。ただし、本書はそこでは終わりません。テンがあっていいか、いけないかという議論が起こるのは、戦後の「当用漢字字体表」(1949年)によって、当時の人々に字体の意識が生まれたことと無関係でない点を指摘しています。もし、それ以前ならば、〈「福丼県」を見ても、点が一つ多いな、と思うくらいで、県庁までねじ込もうとは思わなかっただろう〉という筆者の意見には同感です。

 筆者の見方にそってごく乱暴にまとめれば、戦後の人々の漢字意識には、2回の大きな変化が訪れたといえそうです。第1に、戦後すぐ、当用漢字などの制定によって、漢字に「基準」を持ち込む考え方が広まった。たとえば、「福丼県」と書こうものなら批判が殺到し、「郵政省」を「逓信省」に戻そうものなら「漢字制限に逆行する」と大反対された。第2に、高度成長ごろから、それぞれの漢字は「唯一無二」のものであるという考え方が広まった。別字で書き換えたり、使用を制限したりすることへの違和感が強まった。たとえば、水俣病の原告団は「うらみ」を表すために、当用漢字の「恨」ではなく、表外字の「怨」を使った。学生運動の活動家は、漢字の民主化に逆行するはずの略字や造字を多用した――。と、これはごく大づかみな要約ですが、筆者の見方は的を射ていると思います。

 われわれは、「あるべき日本語の表記」「漢字をどういうふうに書けばいいか」などという大きな議論をするとき、百年後も通用するような不変の論拠に立って論じているつもりでいます。でも、本書を読むと、どの時代にも通用すると思って語っていることが、じつは、まさにその時代だからこそ出てくる意見であることに気づきます。遠い将来を見通したつもりで決定した国語政策が、何年か経つともう見直しを迫られるというのも、われわれが(または役所の人々が)時代の制約を離れてことばを見つめることがむずかしいためでしょう。

 最後に、つけ足し。本書に出て来る話題のいくつかは、私が個人的に関心の強いもので、その意味でも興味深く読むことができました。石坂洋次郎『青い山脈』は、これまで2、3回は読み、映画版も2回は見ていますが、これを戦後の言語状況と結びつけて考えることはありませんでした。筆者の観点に脱帽します。また、狭山事件その他の差別事件については、大学生のころ、野間宏『狭山裁判(上・下)』(岩波新書)を読んで以来、関心が持続しています。筆者は、このほか水俣病裁判を取り上げるなど、弱者の視点に立って文字史を眺める姿勢があると思います。
posted by Yeemar at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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