2021年10月31日にクサナギさんが「note」で「汚名挽回は正しい説再考」という文章を書いています。その中で、「汚名挽回」という表現を誤用ではないとする説明の〈論理的整合性〉と〈科学的妥当性〉が論じられています。
議論の中心となっているのは、私(飯間)が『文藝春秋』2021年11月号に書いた「日本語探偵」第63回の「汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」という文章です。クサナギさんはこの〈扇動的なタイトルに正直仰け反った〉と述べ、私のタイトルのつけ方に問題があったことを指摘しています。さらに〈Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない〉と繰り返しており、このタイトルが批判的に見られたことがよく分かりました。
私のタイトルのつけ方が「扇動的」という批判に関しては、率直に反省したいと思います。断定調で立場を鮮明にしようという気持ちがなかったとは言えません。学問的にものごとが「解明済み」になることは、実はないのかもしれません。解明されたと思っても、また新たな論点が出てくることはいくらでもあります。私の表現はたしかに粗雑でした。言わんとする真意はこういうことです。「『汚名挽回』には誤用説があるが、それに対して、なぜこの言い方が成り立つかという十分に論理的な説明がある。その説明に対しては、今のところ見るべき反駁がない」。タイトルとしては長すぎますが、このように表現すれば、いくぶん穏当だったでしょうか。
クサナギさんはツイッターで礼儀正しく〈この記事は飯間さん批判ではない〉と断ってくださっていますが、批判として受け止めるべきところは、謙虚に受け止めたいと思います。
その上で、改めて私の考えを整理し、センセーショナルにではなく記しておくべき必要を感じます。
■国語辞典は旧版を踏襲するものも
クサナギさんの文章のタイトルは「汚名挽回は正しい説再考」となっています。ここは厳密を要するところです。私は常々、「誤用の客観的な基準はない」と述べています(たとえばこちら)。ことばを客観的に「誤り」「正しい」と断定はできないということです。したがって、「汚名挽回」は「誤用ではない」「おかしくはない」と否定形で言うことはできても、「絶対正しい」と言うこともできません。私が目指すのは、「誤用である」との批判に対して、別の寛容な見方を示すことです。「誤用と決めつけることはできない、この言い方が成立する理由は、論理的に説明できる」と、その考え方を示すことです。「汚名挽回」の場合、従来の「誤用説」に対しては、研究者を含む複数の人々によって、すでに十分筋の通る説明がなされていると考えます。
「汚名挽回」はそもそもなぜ誤用と批判されたのか、今さらながら振り返ってみましょう。クサナギさんは『現代国語例解辞典』『学研現代新国語辞典』が「誤用」と明記していること、「デジタル大辞泉」が誤用説・非誤用説を併記していること、『明鏡国語辞典』には迷いが見られることを述べています。これは〈2021年10月現在〉とのことですが、これらの辞書には、「『汚名挽回』非誤用説」が知られるようになる以前から「誤用」の説明が載っています。
- 「汚名(を)挽回」「汚名(を)回復」は「名誉挽回」「名誉回復」の混同で、不適切な言い方。「汚名(を)返上(する)」が適切な言い方。(『現代国語例解辞典』第3版・2003年)
- 「汚名挽回 ばんかい」は誤り。(『学研現代新国語辞典』第4版・2008年)
- 「汚名挽回 ばんかい」「汚名を挽回する」は誤用。「汚名返上」「汚名を返上する」「名誉挽回」「名誉を挽回する」が正しい使い方。文化庁が発表した平成16〔2004〕年度「国語に関する世論調査」では、「前回失敗したので今度は―しようと誓った」という場合に、本来の言い方である「汚名返上」を使う人が38.3パーセント、間違った言い方「汚名挽回」を使う人が44.1パーセントという逆転した結果が出ている。(『大辞泉』第2版・2012年)
現行版である『現代国語例解辞典』第5版、『学研現代新国語辞典』第6版も同様の記述です。つまり、これらの現行版が「汚名挽回」を誤用としているのは、「『汚名挽回』非誤用説」を検討した結果というよりは、単に旧版の記述を踏襲したものと考えられます。一方、「デジタル大辞泉」では誤用説・非誤用説を併記しているので、上記の『大辞泉』第2版よりも中立的になっていることは注目すべきです。
■「汚名挽回」のどこを弁護すれば十分か
さて、これらの辞書で「汚名挽回」を誤用とする理由は、
(1)「名誉挽回」との混同(『現代国語例解辞典』)ということです。さらに、日本語の誤用を扱った一般書籍では、
(2)「本来の言い方」は「汚名返上」(『大辞泉』)
(3)「汚名挽回」は「失った汚名を取り戻す」ということになり、これでは意味不明。(清水義範『日本語がもっと面白くなるパズルの本』光文社 1997年)との理由を示すものもあります(清水氏の著書は一例で、同様の主張多数)。
「汚名挽回」が誤用であるという主張は、大きく以上の3点にまとめられます。したがって、この3点について、それぞれの主張が当たらないことを示せば、従来の「汚名挽回」誤用説に対する説明としては十分です。
まず、(1)と(2)に関して。「汚名挽回」が「名誉挽回」との混同から生まれたと言うためには、「汚名挽回」よりも「名誉挽回」のほうが先に成立している必要があります。また、「汚名返上」が「本来の言い方」と言うためには、「汚名挽回」よりも古い実例を示す必要があります。ところが、これらの説明はいずれも実例の裏づけがなく、あくまで「汚名挽回」は新しい言い方だろうという前提に立って推測したものにすぎません。実際には、「汚名(を)挽回」は19世紀以来の例が報告されていることは『文藝春秋』の文章で紹介したとおりです。「名誉挽回」「汚名返上」のさらに古い例が見つからないかぎり、(1)(2)の観点から「汚名挽回」を誤用とすることはできません。
(1)(2)よりもいっそう重要な論点は(3)です。「汚名挽回」が「意味不明」ではなく、理屈にあった言い方であることを示せば、「汚名挽回」も存在していい理由が生まれます。この点について詳しく考察しているのが、クサナギさんも引用する複数の先行文献です。
それを改めて私のことばで(特に私が大事だと考える点について)まとめれば、こうなります。
――「挽回」を「取り戻す」と考えると、たしかに意味が通らない。だが、「挽回」には「元の良き状態に戻す」の意味がある。したがって、「○○挽回」の「○○」に、「名誉」のようなプラスの意味のことばだけでなく、「汚名」のようなマイナスの意味のことばが来ることは自然である。「名誉挽回=名誉を元の状態に戻す」「汚名挽回=汚名を元の状態に戻す」「劣勢挽回=劣勢を元の状態に戻す」「遅れを挽回=遅れを元の状態に戻す」……などとなり、いずれもおかしくない。――
私は『文藝春秋』で以上のような考え方を紹介した後、次のように文章を締めくくっています。
ここまでの議論を理解しているはずの人でも、「汚名を挽回したら汚名の重ね着になる」という気がする人もいるようです。さんざん批判されてきた表現なので、無理もない。ただ、自分が使うかどうかはともかく、他人が使うことはとがめにくい状況になりました。つまり、「どうしても違和感があって使いたくない」という人に「違和感を持たないでください」と押しつけることはできないし、個人個人が違和感を持つのはしかたがない。ただし、他人がこの表現を使っている場面に出合っても、「誤用だ」ととがめないでほしい、と願うのがこの文章の趣旨です。
■「汚名挽回」に対する違和感について
「汚名挽回」非誤用説を唱えつつも、この言い方に違和感を持つ人がいるというのは、クサナギさんの指摘のとおりです。クサナギさん自身も「汚名挽回」を素直に受け入れられないと言い、その理由について考察しています。その考察には説得力があり、大いに参考になります。
その考察を私のことばでまとめてみます。
――「汚名挽回」を誤用でないとする説は、「汚名」を状態と捉えている。「劣勢挽回」「遅れを挽回」ならば、たしかに「劣勢の状態を元に戻す」「遅れた状態を元に戻す」と解釈でき、違和感はない。しかし、「汚名」は状態というより、ある人物に貼られた「標識」(レッテル)と考えるほうが妥当だ。標識・レッテルを「挽回する」、つまり元に戻すというのは不自然であり、そこに違和感が生まれる。――
私のことばに直しすぎて、ご本人の主張と違うと言われることを恐れますが、「汚名」を「状態」と捉えるか「標識」と捉えるかによって違和感の有無が分かれる、ということと解釈しました。
なぜ自分がこの言い方に違和感を持つかについて、客観的に検討した文章であり、すっきりと理解できました。一方で、クサナギさんは「汚名」を状態と捉える立場もあることは否定していません。「汚名挽回」非誤用説と矛盾するものではない、と受け取りました。
クサナギさんの説に対しては疑問もあります。「汚名挽回」の「汚名」が標識だとすると、同様に「名誉」も標識とは言えないでしょうか。「名誉を傷つける」「名誉を守る」「名誉を重んじる」……などは、「名誉という状態を傷つける」などと解するよりは「名誉という標識を傷つける」などに近い意味だと思われます。それなのに「名誉挽回」と言えてしまうのはどうしてでしょうか。こうした疑問は、私の読み取り不足によるものかもしれないので、メモするにとどめておきます。
ともあれ、「汚名挽回」に違和感を持つ人がいて、そういう違和感を持つのはなぜか、と探究することは、私も興味深く思います。こうした問題については「解決済み」だとはまったく考えません。ただ、クサナギさん自身、「汚名」が標識だからといって、〈「汚名挽回は誤用である」と主張することを目的としてはいない〉と述べています。したがって、この問題は、従来の「汚名挽回」誤用説に対して十分な説明がなされているか、というテーマとは一応分けるべきものと考えます。「従来、この表現を誤用として批判した説に対しては、ひととおり説明が用意されている。それ以外のところで違和感があるとすれば、その正体は何だろう」ということです。
■まとめ
クサナギさんの問題提起の全体を振り返ると、だいたい次のようになるでしょうか。
――「汚名挽回」と言える理由について「学問的にほぼ解明済み」とするタイトルは扇動的だ。現に、自分は「汚名挽回」に違和感を持つが、その違和感を打ち消すだけの説明はまだない。そこで考察してみると、「汚名」は状態ではなく標識と捉えられる。標識を表す語に「挽回する」(元に戻す)という動詞が接続するところに違和感が生まれるのだろう。――
私としては、「なるほど、そういうこともありうる」と納得しました。人がことばになぜ違和感を持つかという探究は必要です。一方で、「そのことばに違和感を持つ人がいる」イコール「誤用」ではないことも確かです。
現時点でのいわゆる「汚名挽回」誤用説に対し、それが当たらないという主張は十分成立していると考えます。「汚名挽回」に関する「被疑事実」については、ひととおり弁護がなされており、このことばを使う人をとがめることはできなくなったと言うべきです。それとは別に、雑誌に発表した私の文章のタイトルが穏当を欠いたということは、改めて反省の意を表します。