それはともかく、私の答案を「赤本」(教学社『大学入試シリーズ』)の解答と照らし合わせてみて、がっかりしました。ちょいちょい間違いがあって、どうも満点が取れないのです。まことにお恥ずかしい。日本語を研究し、教えていながら、こんなざまでは困ります。うっかりしていた部分もあるし、引っかけ問題にだまされた部分もあります。いわゆる「受験の勘」を忘れてしまったためのミスだった、と言い訳しておきます。
ただ、そうは言っても、「これは、赤本のほうが間違っている」と考えられる部分もありました。具体的には、2008年度の早稲田大学文学部の国語の現代文。末木文美士(すえき・ふみひこ)さんの『他者/死者/私』の一節が出題され、その文中で渡辺哲夫さんの『死と狂気』に触れた箇所があります。そこに出てくる「歴史的に構造化する」という語句の意味が問われています。この解答が、どうも腑に落ちないのです。
と言っても、これだけでは、何のことか分かりませんね。以下に問題文の必要箇所を引用しておきます(ご面倒なら、あとから読んでくださってもけっこうです。原文と設問の雰囲気だけ分かってもらえば、以下で私の言いたいことは伝わるはずです)。
渡辺によれば、死者は、「生者たちの生存と生活を D歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何より言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」。われわれが死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ。次に、設問と選択肢を示します。
渡辺はこの観点から他者論を見直し、「他者」という言葉の多義性を三つに分ける。第一に、「ほとんどの他者は、死者である。……他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつ」。第二に、「他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する」。これを著者は「言語的分節世界」と呼ぶ。つまり、死者によって構造化された世界のことだ。それは、生者から見れば収奪したものであり、死者から見れば贈与したものだ。第三に、「生きている個々の他者、他人」である。従来の他者論がこの第三の他者を中心に論じられてきたのに対して、渡辺は第一、第二の他者の見直しを図ろうというのである。
問七 傍線部D「歴史的に構造化する」の説明としてもっとも適当なものを次の中から選び、その記号の記入欄にマークせよ。わずらわしいので、選択肢は2つを除いて省略しました。私はこのうち「イ」が正解だと考えたのですが、赤本では「ニ」が正解となっています。はたして、本当に正解は「ニ」でしょうか。
イ われわれの生きている世界はすべて無名の先人たちが築き上げてきたものだということ。
〔略〕
ニ 個々の人間を歴史の中に位置づけることを通して、普遍的な人間の運命を明らかにするということ。
素直に読めば、「イ」なのです。事実、赤本の解説にも、こう書いてあります。〈他者たる死者は、現在の生者に日常的秩序を贈与する。それがすなわち「死者による世界の構造化」ということ〉。つまり、現在、宗教・法律・慣習・倫理などといった、私たちの世界を構成する基本的なものや概念は、すでに死んでしまった先人たちが形作ったものだ、彼らから贈与された遺産だ、というのです。それなら、「イ」の選択肢そのままではありませんか。
もっとも、赤本では、続けて〈イとニで迷うが〉と書いています。〈イは「無名の先人たちが築き上げてきた」が「死者たちに負うて」きたの言い換えとして不適当。ニの「歴史の中に位置づける」が「構造化」の言い換えにあたる〉と説明しています。
でも、渡辺さんがここで言う「死者」とは、〈没個性の霊魂の群れの“顔”〉なのだから、これを〈無名の先人たち〉と言ってもいいはずです。〈言い換えとして不適当〉どころか、どんぴしゃりです。むしろ、「ニ」は、〈歴史の中に位置づける〉はたしかに「構造化」の言い換えかもしれませんが、〈個々の人間を歴史の中に位置づける〉は意味をなさないし、後半の〈普遍的な人間の運命を明らかにする〉はいっそう意味不明です。つけ加えれば、もとの選択肢「イ〜ニ」の中で、日本語として意味が通るのは、唯一「イ」だけです。
「いや、それはやはりあなた(飯間)の考えが足りないのではないか。自分が答えを誤ったので、くやしまぎれに強弁しているだけだろう」と言われるかもしれません。
ところが、驚くべきことがあります。渡辺さんの説を批評しているこの問題文の筆者、末木文美士さんがホームページを開設していて、そこで、同じように渡辺さんの文章を批評しています(「ボクの哲学モドキ」のうち「死から死者へ」。2002年の文章)。そして、そこには次のように書かれています。
渡辺さんの説には、柳田・折口の民俗学の影響が強い。著者によれば、死者とは、「生者たちの生存と生活を歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である(23 頁)。というと分りにくいけれど、要するにボクたちの生きている世界はすべて先人たちが築き上げてきたものだ、ということだ。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何よりも言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」(33頁)。ボクたちが、死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ(25頁)。なんと、筆者自らが、正しい選択肢が「イ」であることを証言しているではありませんか。
末木さんのホームページの文章は、著書の一節が早稲田の入試問題として取り上げられる以前のものです。ことによると、著書の中にも、こんなふうに「歴史的に構造化する」の意味を解説した部分があるのかもしれません。入試問題の作成者もそれを踏まえていたのではなかったでしょうか(何しろ、選択肢の言い回しがそっくりだから)。
おそらく、この設問は、問題作成者の親切によるものでしょう。「歴史的に構造化する」と言われても、受験生は分かりません。そこで、「これはこういう意味ですよ」ということを、選択肢の形で教えてあげたのだろうと推測します。現に、私も「イ」の選択肢を読んで、そのあとの読解が助けられました。もし「ニ」が正解だとしても、それは語句の説明としてまったく意味不明であり、読解の役には立ちません。
今回の例は、赤本の誤りであると確定しました。私としては、自分の正しさが確認されて、満足しました。もっとも、こんなことで「スクープ」などといい気になってはいけないのでしょう。入試問題の模範解答は、出版社や予備校によって、往々にして食い違いがあると聞いています。今回のような例は、ほかにもざらにありそうです(今回、私が解いてみた問題の中には、ほかにも疑わしいものがありました)。
それにしても、こうした例がもし「ざらにある」ならば、受験生の人たちはかわいそうです。模範解答が間違っているにもかかわらず、「自分のほうが間違いだ」とむりに納得している人がいるかもしれません。出版社や予備校の責任は重いし、さらに責任が重いのは大学です。大学、特に難関大学は、ぜひとも入試の正解を公表すべきであると、最後に結論を添えておきます。
【関連する記事】
お忙しいでしょうが更新楽しみにしています