明治の始め、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』に「あきれもしねえ」という言い方が出てきます。
ひき「うまくいゝましたツケ。ヘヽン、あきれもしねへ。サア、モウ、いゝかげんに、ごぜんにしよう。(三編下〔1872年刊〕岩波文庫 1967年 p.104)これは、年配の女性が、相手の若い女性の冗談に対して言ったせりふです。「あきれもしない」は、「あきれた」とほとんど同じです。現にこの年配女性は、直前に「あきれるヨ」とも言っています。ただ、「あきれもしない」は「ばかばかしくて、あきれる所まで行かない」というふうに考えれば、この「ない」にも意味があるかもしれません。
「ない」があってもなくても同じ意味になる例は、「東海道中膝栗毛」に非常に多く出て来ます。列挙してみましょう。
●気の知れた「気の知れた人」というと、「考え方のよく分かった心安い人」ということになります。でも、ここでは、上方者は何を考えているか分からない、と言いたいのでしょうから、否定形の「気の知れない」の意味で使っていると考えられます。
北八「〔略〕惣体{そうてへ}上方ものはあたじけねへ〔=欲深い〕。気のしれたべらぼうどもだ
(八編下〔1809 文化6年〕岩波文庫 下巻 p.350-351)
●御如才三島の宿での会話です。十吉という男(実はごまのはい)が、弥次・喜多に「女郎を呼んで遊ぼう」と誘われ、「いえ、私はこの宿の女中に、少し話し合いがありますので」と断ったところ、宿の女が「御如才でございます」と言ったのです。これは、「ない」のついた「如才ない=機転が利く」の意味で使ったのだろうと思います。「ここに来る女郎はあまり上等でないので、よい判断です」という気持ちではないでしょうか。
十吉「イヤわたしはアノ内の女に、すこしはなし合がありやす ト此内やどの女きたりて「これは御如才でございます。サア〔膳を〕おかへなさいませ。
(二編上〔1803 享和3年〕岩波文庫 上巻 p.131)
●大切ない「大切ない」は「大切な」。「大切な仏(=遺骨)を、なぜ食ったのか」という意味。この「ない」は、否定の意味を持たない接尾語でしょう。
〔丹波の人〕よふまあ大切{たいせつ}ない仏{ほとけ}を、なんぜくひよつた。
(八編上〔1809 文化6年〕岩波文庫 下巻 p.298)
●他愛(たわい)網で小銭を受けようとするこじきの出てくる場面です。京の人が、こじきの網を破ってやろうとして、重量のある丁銀をほうったところ、やっぱり破れずに、むだなことになった、というのです。「たわいない」のことを「たわい」と言っています。
京〔の人〕〔上略〕コリヤどふじやいな、丁銀ほつたら網がやぶ{破}りよかとおもふたに、ねからたわいじや。どしてあみに、とまりくさつたしらんといふたりや、
(五編追加〔1806 文化3年〕岩波文庫 下巻 p.121)
●近ごろ亭主に、「ご馳走になってはたいそう気の毒だ」と言っています。「近ごろ気の毒」というのは、「近ごろにないほど気の毒」ということで、やはり否定の「ない」を省略しています。
弥二「イヤそれは先おめでたい。しかし御ちそうになつては、ちかごろきのどくだ てい「ナニサ御遠慮{えんりよ}なふ。今におすいものもできます
(初編〔1802 享和2年〕岩波文庫 上巻 p.87)
●ないもせぬ/益体この部分には、「ない」の有無に関係する例が2つ出ています。「ないもせぬ」は、本来なら「有りもせぬ(=ない)」と言うべきですが、なぜか「ないもせぬ」になっています。また、「とんだやくたい(益体)」は、「益体もない」の意。「つまらない」ということですが、「ない」を取っても、やはり「つまらない」の意味を表しています。
上方「ハヽヽヽヽ、そりや松輪{まつわ}屋じやわいな。大木やにそんなおやまはないもせぬもの。コリヤおまい、とんとやくたいじや/\
(三編下〔1804 文化元年〕岩波文庫 上巻 p.231)
知れた ではなく
痴れた ではないでしょうか?
「しれる(痴れる)」は古くからあることばですが、「気のしれた」という形で使われる場合、やはり「気の知れた」と考えたほうがよいと思います。
この言い回しは別の箇所にもあります。〈なるほど京のものはあたじけねへ。気のしれた根性骨{こんぢやうぼね}だ。〉と出てきます。ほとんど同じ言い回しです。「京都の者は欲深い。いったいどういう根性をしているのだろう」ということでしょう。