「なにげない」の「ない」が落ちてしまっては、意味が反対になるはずではないか、というのはもっともな理屈です。しかし、現実には、否定の意味を表す「ない」は、しばしばないがしろにされることがあります。
その例がだいぶ集まったので、このへんでまとめておきます。
まずは誤用というべき例ですが、「当店は責任を一切負いかねません」と看板を出す店があります(長崎県、1999年。「まぐまぐVOW」Kouzzyさん報告)。むろん、「負いかねます(=負うことができない)」の意味であり、この場合、「かねる」もしくは「ない」のどちらかの意味が機能していません。私の学生にも、「(ジェットコースターから荷物が)落下された場合において責任はおいかねます」を「責任は負います」の意味だと受け取った人がいました。
「感に堪えない」という意味で「感に堪えたような表情」と言うことがあります。例を集めてみると、「堪えない」よりも「堪えた」のほうが多く目につきます。しかし、「ない」のついたほうが本来の言い方です。「堪えることができない」ということですから、「ない」が消えるのは不思議です。
「せわしない」と「せわしい」、「とんでもない人物」と「とんだ人物」も同じ意味ですが、この場合の「ない」は、ふつうは、否定ではなく、接尾語の「ない」だと説明されます。このあたりは、以前「日本語力測定試験」という文章で触れました。
この仲間らしいものとして、幸田文『流れる』(1955)には「ざっぱくない」という言い方が出てきます。
いえ、わたくし、今ひょいっとこう、……いつもあんまり自分がざっぱくない起きかた〔=(ふとんからの)起き上がりかた〕をしているように思ったもんですから、羞{はずか}しい気がして、……(新潮文庫 1999.04.25 57刷改版 p.192)これは『日本国語大辞典』や『広辞苑』、『大辞林』などを見ても載っていないことばで、不審です。古い東京語に「ざっかけない」(荒々しく粗野)という言い方がありますが、それと関係があるでしょうか。今のところ、私は「雑駁(ざっぱく)」に接尾語の「ない」がついたもの、つまり、意味は「雑駁な」と同じだと考えていますが……
長谷川如是閑の文章には「すてきもない」ということばが出て来ます。
で僕等はそちらへ行つたが素敵もなく脊の高い兵隊が僕等にくつついて来て、後ろに立番をしてゐるのには驚いたね。(長谷川如是閑「北京再遊問答」『現代日本文学全集41 長谷川如是閑集・内田魯庵集・武林無想庵集』改造社 1930 p.288)「素敵」で「ない」のなら、不格好な人なのかと思いますが、そういうわけではありません(「じつに、非常に」ということ)。この「ない」も否定の意味のない接尾語であるようです。
辞書によれば、「満遍なく」とは別に、昔は「満遍に」という言い方があったそうです。考えてみれば、「満遍」は、字から見ても「満ちて・遍(あまね)く」ですから、それだけで「残るところなく」という意味です。それに「ない」がついてしまっては、「残るところがある」になってしまうではありませんか。
今は使われなくなった言い方も含めると、この手の言い方はまだまだいくらでもあります。続きは改めて。