2006年04月01日

「述懐」の意味

使い方に迷うことばが、私にはいくつかあります。「述懐」ということばもその1つです。
〔上略〕終戦直後のちぐはぐな、十人十色の姿は、親達の苦しいふところも想像されて、見ていても可哀そうだったと、爺さんは述懐した。(永井龍男「石版東京図絵」〔1967年発表〕『新潮現代文学 16』p.138)
これは、戦後6年経ったころ、爺さんが終戦直後を思い出して話をする場面です。「述懐」は、このように、昔をしのぶ場合に使われることが多いと思います。

ところが、辞書を見ると、必ずしも「昔を思い出して」という記述がないものもあます。『集英社国語辞典』では、「((文章))心の中の思い・考えを述べること。また、その内容。「往時を―する」」、また、『新潮現代国語辞典』も「心に思うことをのべること。〔用例略〕」とあります。全13巻の『日本国語大辞典』にも、「(1)心中の思いを述べること。意中を述べること。(2)ぐち、不平、不満を洩らすこと。うらみを言うこと。」という2つの意味しか載っていません。

これらは、べつに欠陥辞書というわけではないでしょう。古くは、「述懐」は単に「思いを述べる」という意味で使われたはずです。「唐詩選」の冒頭に挙がっている魏徴の詩はその名も「述懐」で、自分の今の感懐を述べた詩です。短歌でも「新年述懐」などと題して詠まれることがあります。これも、べつに新年を思い出しているわけではなく、歌を詠んでいる現在が新年なのです。

「懐」には、「懐古する」のように、「昔のことをなつかしく思う」という意味があるように思われます。本来はどうだったのでしょうか。『学研漢和大字典』を引いてみると、「懐」の意味として、「いだく・ふところにする」「ふところ」「おもう」「おもい」「なつく・なつける」などが出ていますが、「なつかしい・なつかしみ」の意味には〔国〕という表示がつけてあります。これは、日本での意味で、漢字本来の意味ではないということです。

「懐古」という熟語は「古きを懐かしむ」という意味であるようにも見えます。しかし、これは「古」という字がついているために、文脈上「なつかしむ」という意味になるにすぎないのでしょう。「懐古」は「古きをおもう」と考えるべきです。

そうなると、「述懐」を「昔を懐かしんで述べる」という意味で使うのは新しい、という可能性が出て来ます。新しいといっても、たとえば島崎藤村「破戒」には、もうこの意味の例があります。
「〔上略〕今でこそこうして笑ってお話しするようなものの、どうしてあの時は――全く、残念に思いましたからなあ。」〔略〕大日向は飛んだところで述懐を始めたと心づいて、苦々{にがにが}しそうに笑って、丑松といっしょにそこへ腰掛けた。(岩波文庫 1957年初版 1968年第16刷改版 1981年第28刷 p.335)
辞書にこの意味が記述されるのは、もう少し遅れるのではないかと思います。1943年に出た『明解国語辞典』(三省堂)には「述懐」について「考えをのべること。」と簡単にしか書いてありません。その後の『明解国語辞典』改訂版(1952)でも同様です。1960年の『三省堂国語辞典』初版ではやや詳しくなって「考え・(思い)をのべること。」となっていますが、まだ「昔をしのんで(述べる)」という意味は入っていません。

その後はどうなったか、ちょっと手もとの資料が不足していてよく分からないのですが、1971年の『岩波国語辞典』第2版には「考えている事や思い出を述べること。その述べた内容。」とあり、以後の辞書は、多く「昔をしのんで」の意味を入れるようになっています。どうも、1960年ごろに、この意味が認知されるようになったのではないでしょうか。
posted by Yeemar at 20:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「述懐」の意味
拝見させていただきました
魏徴の述懐を思い出し
インターネットで調べていたところ、このページを見つける
事ができ喜んでます
ありがとうございます
Posted by 川阪博文 at 2006年08月26日 14:23
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