まずは、同じような場合に使われる、音の似たことばがないかどうか、考えてみます。そうすると、「さらばよ」ということばが思いつきます。「さらば」「さらばよ」は、古くからあることばです。現代語で言えば「そうであるならば」「そうであるならばねぇ」ということです。「じゃあ」「それなら」「さようなら」と、同じ発想のことばです。
この「さらばよ」の幼児語が「あばよ」だったのではないか。そう思って、『日本国語大辞典』を見ると、まさしく、そのように書いてありました。〈さらばをまねた幼児語あば、あばあばの「あば」に終助詞「よ」が付いたもの〉ということです。
ところが、よくよく調べると、これには異説があります。方言学の山口幸洋氏は、
私は「アンバイ(案配)良う」で、意味的には、「具合よく」と同じだったのだと考えている。前記関西地方とその周辺では「アンバヨーやった」のように副詞的によく使われており、「アンバヨー行け、帰れ」のようにも普通に言う。それは「ご機嫌よう」とも同じなのである。(『しずおか方言風土記』静岡新聞社 p.120)と述べます。なるほど、「あんばいよう」を速く言えば「あばよ」になります。こうなってくると、もう、一般常識に照らすだけでは答えが出ません。私の頭の中には、「ここから先は分からない、撤退せよ」という信号がともります。
ただ、「あんばいよう」を語源とするには、疑問が残ります。
まず、「あばよ」が幼児語として使われたらしいことの説明がつかない。ヘボン『和英語林集成』の再版(1872)に「あば」について「子どもと別れるときに使われる。さようなら。同義語に、あばあば・あばよ。」とあり、第3版(1886)に「(子どもに話すときに使われる)さようなら。同義語に、あばあば・あばよ。」とあります(拙訳)。「案配良う」では、子どものことばらしくありません。
また、方言で、「あばな」「あんばー」などの形があることの説明がつかない。「案配良う」ならば、「良う」が抜けては意味をなしませんが、「よ」が抜けた形で使われることがあります。
「あばよ」が、途中で「案配良う」と混ざった場合もあるかもしれません。しかし、もとをたどれば、「さらばよ」の幼児語だったと考えたほうが、すっきりします。
語源探求の話はここまでです。ここからは、もう1つの話。
「あばよ」は、「あばよ、しばよ」などと、ことばをつないで使われます。これも、子どもの場合です。『日本国語大辞典』には、中勘助「銀の匙」(1913-15)の例が引かれています。今、岩波文庫本によって示すと、
彼はさんざ口ぎたなく罵{ののし}ったあげくお恵ちゃんに耳っこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながらというのです。この「しばよ」こそ、どういう意味なのか、さっぱり分かりません。
「あばよ、しばよ」
といってさっさと帰りかけた。それをお恵ちゃんまでがまねをして
「あばよ、しばよ」
といいいいあとについていってしまった。(p.128、「お恵ちゃん」の「恵」は草冠つき)
この言い方は、江戸川乱歩の作品にも出てきます。
「じゃあ、またあしたね」浅野信著『巷間の言語省察』(1933)では、これが「あばよ、ちばよ」の形になります。
そして、ある四つ辻{つじ}で別れる時には、お冬はきまったように、少し首をかしげて、多少甘ったるい口調で、このようにあいさつをしたのである。
「ああ、あしたね」
すると、格二郎もちょっと子どもになって、あばよ、しばよ、というようなわけで、弁当箱をガチャガチャいわせて、手をふりながらあいさつするのだ。(江戸川乱歩「木馬は回る」〔1926年発表〕『人間椅子 他九編』春陽文庫 1987年新装版 1996年22刷 p.136)
アバヨ チバヨ大阪出身の作家・町田康氏は、「あばよ、いばよ」の形を使っています。
マタクルヨ……
……
アバヨ チバヨ
マタオイデ……(p.12-13)
結句、それが友情を長続きさせるこつだ。ブランデーは貰ってくよ。あばよ。いばよ。ぺー。と、自分は、先ほどソファーの様子を窺う際に忍ばせた両の足を、(町田康「屈辱ポンチ」〔1998.08発表〕『屈辱ポンチ』文春文庫 2003.05.10 p.157)私自身は、こういうことば遊びをした経験はありません。いったい、この「しばよ」とか「ちばよ」とか「いばよ」とかいうのは、ほかにどういう変異体があるのでしょうか。