これ〔雅山・白鵬・朝赤龍などが三賞に入らなかったこと〕に関しては、七月十九日の朝日新聞で、選考委員の記者も触れており、「殊勲、敢闘、技能の順に決めていった際に、選考の思惑がぶつかり、“三すくみ”状態に。」と、部外者には理解不能の、妙ちくりんな文章を載せている。内館さんのこの文章は、特に最後のところは、ずいぶん怖い感じがします。なぜ怖いのか。その鍵は「だろうが」にあります。
しかし、これこそ本末転倒だ。思惑だの「三すくみ」だのは、力士と何の関係もない。十五日間を懸命に戦った力士を、きちんと絶対値で選ぶ姿勢は、選考委員の必須条件だろうが。〔内館牧子・暖簾にひじ鉄177〕(「週刊朝日」2004.08.06 p.64)
助詞「が」の使い方のひとつに、「だろうが」「でしょうが」などの形で文末につき、「念をおして相手をなっとくさせようとする気持ちをあらわす」(『三省堂国語辞典』)場合があります。「どうです、大したものでしょうが」(同)のように。辞書によっては、必ずしも載っていない用法です。しかし、たしかにこういう使い方はあります。
この用法の「が」は、おもに会話で出て来ます。
「この黄色いドレスの切れつぱしが、あなたの目から出た以上はですな」と酔つぱらひが云つた。「あなたは過去において、黄色いドレスの婦人の胸に、顔を押しつけたことがあつたでせうが。どうです、図星でせうが。」(井伏鱒二「晩春の旅」〔1952年発表〕『短編小説傑作選 戦後50年の作家たち』文藝春秋 p.134)「顔を押しつけたことがあったでしょう。違いますか?」「図星でしょう。違いますか?」と念を押しているのですね。
文章の中で使う場合も、やはり会話的な感じがします。最近のことば遣いがいやだという女性が、新聞に次のように書いていました。
「AはBより全然強い」「あの娘(こ)全然可愛い」とか聞くけど、それを言うなら「断然強い」「すごく可愛い」でしょーが。〔浦和市・今は無職 28〕(「朝日新聞」1996.07.20 埼玉2面)「しょー」と長音符号を使って引っ張っているせいもあるけれど、耳で聞いても、会話体という感じがするはずです。
これを男が言うと「だろうが」になります。
茶の間から家庭内暴力を演じているらしい中学生時代の息子が出てきて怒鳴る。文脈にもよりますが、「でしょうが」が「だろうが」になると、とたんに粗雑な感じになります。そのわけは、「だ」がもともと男が使うことばであるのに加えて、相手の反論を封じるように念を押すところが、圧力を感じさせるからでしょう。
「おれのせいにすることねえだろうが。どうせ出かけるつもりだったんじゃねえか。どこへでも行きやがれ。浮気してこい」(筒井康隆『家族場面』〔1993年発表〕1995 新潮社 p.132)
この、会話の感じの強い「だろうが」を、「でしょうが」と同じつもりで、ふつう体(だ・である体)の文章の中で使うことがあります。冒頭の内館牧子さんの例はそれです。
おそらく、内館さんは、ふだんの会話でなら「こういうことは、委員の必須条件でしょうが!」と「でしょうが」を使って言うのでしょう。でも、ふつう体では「です・ます」を使わないので、「でしょうが」を自動的に「だろうが」に変換したのでしょう。そこで、もともと男が会話で使うことの多い「だろうが」と形が一致してしまいました。
文章中で、このような「だろうが」に出会うと、なんだか、内館さんが極道の妻か何かの格好をして、啖呵を切っているような、怖い感じがします。女性に限らず、男性も文章の中で「でしょうが」と同じつもりで「だろうが」を使うことがありますが、やはり怖い感じになります。「でしょうが」と「だろうが」とは、語感が非常に違うのです。



