「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。「今」という字を見ていると、だんだん「今」に見えなくなってくるというのです。妻はもちろん、「まさか」と否定し、「貴方どうかしていらっしゃるのよ」答えます。
「何故{なぜ}」
「何故って、幾何{いくら}容易{やさし}い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日{こんにち}の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今{こん}らしくなくなって来る。――御前{おまい}そんな事を経験した事はないかい」
(新潮文庫 1948年発行 1978年62刷改版 1981年69刷 p.7)
これが、心理学でいう「ゲシュタルト崩壊」という現象に相当するのだと、笹原宏之氏の好著『日本の漢字』(岩波新書)p.73で知りました。笹原氏は、「パソコンの普及で手書きの機会が減ったから漢字が忘れられやすくなった」という説に疑問を差し挟み、まさにこの『門』の書名を挙げて、「夏目漱石でさえも、ひとつの文字をずっと眺めていると、形がおかしく感じる旨、記している」(p.73)と指摘しています。漢字をいつも見ていても、忘れるときは忘れる、という趣旨だと理解しました。
心理学には詳しくありませんが、ゲシュタルト崩壊とは、こういうことでしょうか。われわれは、「松」という字を「木」「八」「厶」などの部分の合計として考えているのではなく、全体でひとつの形態(ゲシュタルト)として捉えている。ところが、じろじろ見ているうちに、「木」「八」「厶」などの部分が独立して感じられてきて、全体のまとまりが危うくなる。そうすると、「松」には見えなくなってくるということでしょう。
よく、床の間の掛け軸などに「松」という字を書くとき、異体字の「枩」を使うことがあります。この字だって「木」「八」「厶」から出来ているのだから、すぐに「まつ」だと分かりそうなものなのに、私は、どうしても「松」と同じ字には見えません。むしろ、なぜか「禿」という字に見えたりします。いったん立ち止まり、「待てよ、『木』『八』『厶』の組み合わせだから、『まつ』だ」と、論理的に考えなければ正しく読めません。漢字をひとつの形態として理解している証拠です。
文字を見ていて、ゲシュタルト崩壊を起こす話は、いろいろあります。筒井康隆『大いなる助走』(1977-1978発表)の中に、作家志望の主人公(市谷京二)が、同人誌の主催者(保叉)に見せるため、小説の原稿を相手側の方向に向けて置く場面があります。その小説の題は「赤い鱗」といいます。
保叉の方に向けて置かれている自分の原稿の表紙の文字は、逆に見るとなぜか自分の字のようではなく、ずいぶん下手糞な字に見えた。「〓{鱗の180度回転した文字}」は「鱗」のようではなかった。(単行本〔文藝春秋〕1979年第1刷 1981年第15刷 p.22-23)作者は、この場面に、「『赤い鱗』 市谷京二」という縦書きの文字を上下逆さまに(つまり主人公の見たままに)した図を挿入しています。「赤」「い」は上下逆さまでもその字だと分かるのですが、「鱗」という、ふだんあまり使わない字は、180度逆に書かれると、たしかに、何の字だか分からなくなります。
内田春菊氏の漫画「幻想の普通少女」には、「ら」というひらがなが分からなくなる場面があります。主人公の女子高校生、山下紗由理が、あるとき、屋上で空を見上げながら独り言を言います。
「そういえば/らってゆう/ひらがなは/あやしいよな」ひらがなは、もともとくねくねしているし、形の似た字も多いので、ゲシュタルト崩壊を起こしやすいのでしょう。「ら」は、「う」にも「ち」にも似ています。ふだんはあまり意識しないけれど、「ら」「ら」とたくさん書いて、「なぜこれが『ra』なのだ」と疑い出すと、止まらなくなります。「点があって、縦棒が右に折れて、ふたたび左にUターンするのが『ら』」だと覚えているわけではなく、全体の形をなんとなく覚えているための現象でしょう。
「いっぱいかいてくと/どんどん不安に/なってくんだもん」
〔周りに、らららら……とたくさんの文字〕
「うわーっ/らってほんとに/こんな字だったっけ」
「やなやつだぜ」
(内田春菊『幻想の普通少女1』〔1987.04.18単行本〕MF文庫〔メディアファクトリー〕2001.02.19初版 p.71-72)
ところで、唐突ながら、話は漢字の書き取りの話になります。私は、同じ字を何度も続けて書くことは、必ずしも漢字を覚えることにはつながらないと考えます(字形の練習をする目的ならば、話は別です)。あまり同じ漢字を続けて書くと、ゲシュタルト崩壊を起こしてしまうから、というのも、その理由のひとつです。
たとえば、「今」という字を、ノートに何回も書いてみます。「今今今今今今今今今今……」と機械的に書いているうちに、「イマ」という音声と、字形との関係がだんだん薄れてしまって、なんだか「ヤマ形の下に『ラ』がある文字をたくさん書いている」としか思えなくなってきます。頭の中に「ラ・ラ・ラ・ラ……」という声が響くようになります。
「自分はいったい何を書いているのだろう。この『今』とはいったいなんだろう」。こうなると、漢字の練習は効果が上がらないでしょう。書き取りは、ゲシュタルト崩壊を起こさないように、変化をつけながら行わなければならない、というのが結論です。
ちょうど昨日「その現象の名前はなんだっけ?」という話が出たばかりです。以前フジテレビの「トリビアの泉」でも紹介していたという話も出ました。
しかも飯間さんのサイトを見ているパソコンの前に、笹原さんの『日本の漢字』が置いてあって、つい先日読み終わったばかりなのに、その「ゲシュタルト崩壊」のことは目に留まらず、覚えていませんでした・・・。
「トリビアの泉」公式サイトで「ゲシュタルト崩壊」を探しましたが、わからず、折出けんいち氏の「トリビアの泉で沐浴」により確かめました。
http://www.oride.net/trivia/trivia650-654.htm
「No.651」で取り上げられているそうですね。放送は2005.01.01とのことです。「粉」「若」「借」などの字が崩壊を起こしやすいともありました。
「愛のさざなみ」の本歌取り[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・