2006年02月22日

子どもの生まれる予定を聞く

夏目漱石「行人」(1912-1913発表)の中に、思わず「およしなさいよ」と言いたくなる場面が出て来ます。主人公の「自分」が、お兼さんという人と話をしています。このお兼さんは、「自分」の母方の遠縁に当る岡田という男の奥さんです。

「自分」は、雑談のついでに「奥さん、子供が欲しかありませんか」と尋ねます。お兼さんは「そうでも御座いませんわ」と否定し、「窓の外の方を眺め」たりして、あまりこの話題が楽しくはなさそうです。ところが、「自分」はなおもその話題を続けます。
自分は何{なん}にも気が付かなかった。それで又「奥さんは何故{なぜ}子供が出来ないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心易{こころやす}だてで云ったことが、甚{はなは}だ面白くない結果を引き起したのを後悔した。(新潮文庫 1952年発行 2005年95刷 p.17)
この「行人」という作品の主題は、無理にひとことで言えば、「他人の心は分かろうとしても結局分からない」ということです。また、この「自分」は、兄から「軽薄児」と呼ばれるほどの男として描かれています。だからといって、この察しのなさは常識はずれです。

岡田とお兼さんは、結婚してから「かれこれもう五六年近く」経ちます。岡田は先に、「どうも子供が出来ないんでね、どういうものか」と「自分」にもらしています。「自分」のせりふは、それを踏まえてのものです。しかし、当事者が分からないものを、「なぜ子どもができないんでしょう」と聞いたって、分かりっこない理屈です。今日の目から見れば、立ち入りすぎた質問ですが、「自分」のように繊細さに欠ける人は、当時は多かったのでしょうか。

「当時は」と書きましたが、「行人」のせりふほど直接的でないにせよ、似たような質問は今日でも聞かれます。「朝日新聞」2004.10.06 p.27に載った、主婦の友社「赤ちゃんが欲しい 特大号 No.21」広告には次のようにありました。
赤ちゃんはまだなの?
「子どもがいないと、遊んでいられていいね」
ちょっとした挨拶程度のつもりでも、決して悪気はなくても、傷ついている女性やカップルが数多くいることを知ってください。
子どものない夫婦が、周囲の無理解なことばに胸を痛めることがあるのは、「行人」のお兼さんのころと同様でしょう。ただ、「子どもの生まれる予定を無遠慮に聞くものではない」という考え方は、昔より今のほうが、より広く浸透しているのではないかと思います。上に引用した広告の文章も、この考え方を広めるのに一役買っているはずです。

子どもの生まれる予定を聞くことをよいと考えるか、悪いと考えるかは、国民性によっても異なるかもしれません。アガサ・クリスティーの小説「春にして君を離れ」に興味深い場面があります。主人公のイギリス夫人は、旅の途中、あるロシア女性と一緒になります。その女性は主人公に対し、「ロシア人にはごく自然に思われる質問も、〔イギリス人には〕出過ぎているとお思いになるんでしょうね」と話しかけます。
「〔略〕新婚怱々のイギリス人の奥さまに、『赤ちゃんはいつ?』と伺うことすら、以てのほかなんですもの。つまり、昼食会なんかで、食卓の向い側の人に気軽に訊くわけにはいかないってことですの。訊きたければ人目のない所で、そっと訊く、そうするほかありませんのね。でもいったん赤ちゃんが生れて揺りかごにおさまっていれば、『赤ちゃんはお元気?』って訊いても、いっこう差し支えありませんのにね」(アガサ・クリスリティー・中村妙子訳『春にして君を離れ』ハヤカワ文庫 1973.03.31発行 1995.12.15 32刷 p.239)
ロシア人にとって「赤ちゃんはいつ?」と聞くことは、人前ですら自然なのに、イギリス人にとっては抵抗がある、というのです。イギリス人、ロシア人といってもさまざまな人がいるのは当然ですが、少なくとも、執筆当時、クリスティーの頭の中では、そのように図式化されていたのでしょう。

現代の日本では、「人の気持ちを傷つけないように、話は慎重にすべきだ」という考えに立った意見が、多く聞かれます。たとえば、「「頑張れ」ということばは、かえって相手をつらくすることもあるので、乱発することは避けるべきだ」という主張がよくなされます(このことは「「頑張れ」の支持率」で触れました)。「子どもはまだか、と聞かれた側のつらさ」について訴える文章も、あちこちで目にします(残念ながら、まだ手元の例は多くありませんが)。「行人」の「自分」が、もし現代に生まれていたら、はたしてあのような質問をしたでしょうか。
posted by Yeemar at 23:00| Comment(1) | TrackBack(0) | コミュニケーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「行人」の「自分」が、もし現代にうまれていたら、はたしてあのような質問、、、、、

、、、は、しません、というより、すべきでない、出来ません。

というのは、善し悪しは別として社会の進化度、つまり、モラルやマナー、そして社会のタブー(セクハラの類)と密接な関係があるからです。

イギリス夫人とロシア女性の設定で明らかでしょう。これが、イギリス夫人と米国女性ではありえません。

30年ほど前の話です。婚期を過ぎた女性が米国でホームスティをした際、いちども「なぜ、結婚しないのか?」という類の質問はされませんでした。しかし、当時の日本では、質問者には挨拶代わりであり、質問される側には、かなり迷惑となり始めた時代でした。

現代でも、開発途上国の人は、先進国ではタブーとされているプライベートなことでも、「根堀り葉堀り」平気で質問してきます。特に、ブルーカラー階層に多く、ホワイトカラー族は結構顔馴染みとなっても、その手の質問はしません。それは、他にたくさん話しきれないほどトピックがあることと、覗き趣味や偏見・差別に対して(実際はあっても)教養で隠すという技術に長けているからです。

おそらく、女性が職業を持たなかった時代は、人生のありようが素朴で「大人になれば、結婚して子供を産み育て、老後は息子か娘夫婦と一緒に暮らす」という、「先祖代々の価値観で一生を過ごす」以外の選択肢がなかったことと、それしか認めなかった社会だったからではないでしょうか?

要するに、漱石の明治時代から戦後の1970年頃までは、庶民の大半はそんな価値観だったように思います。当時の女性は大手商社でも短卒しか採用せず、4大卒は教師か公務員かという時代であり、23歳ともなれば、嘘をついてでも「寿退職」しなければ、陰口を叩かれた時代でした。

冒頭にもコメントしましたが、「結婚 → 第一子出産 → 第二子出産」の図式だと、現今のように少子化で大騒ぎすることもありませんでした。しかし、時代は女性にも社会進出を促し、女性の労働力なくしては社会が成立しなくなりました。そして、「行人」の「自分」はセクハラとして顰蹙を買うのが、現代です。



Posted by 京の桜色 at 2009年08月18日 05:52
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/13643734

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。