ロビーでは、復元過程をまとめたハイビジョン映像が見られました。これは、以前NHKのBS-hiで2005.11.17に放送された「ハイビジョン特集・よみがえる源氏物語絵巻〜浄土を夢見た女たち〜」を再編集したものではないかと思います。
この中で、絵巻の復元を担当した1人、日本画家の加藤純子氏について、次のようなナレーションがありました。
加藤さんはあることが気になりました。それは、夕霧がまとう装束の紫色でした。私は、この「あること」「あるもの」という言い方を、テレビ番組でよく聞きます。すぐに答えを言うのだから、「あること」などともったいぶらなくてもよさそうでもあります。しかし、「あることって、何だろう?」と、見る人に注意を向けさせる効果があります。番組の中の肝心なところで「あること」と言うと、作り手の言いたいことが強調されて、具合がいいのでしょう。
最近も、「あるもの」という表現を耳にしました。中部国際空港の内部を紹介する中継番組で、NHK名古屋放送局・斉藤孝信アナウンサー、林家いっ平さんらが、次のように話していました。
斉藤 (空港内で行列を作っている人々を示して)この皆さんは、あるものを食べようと思って待ってるんですけど、おそらくね。要するに、名古屋空港では大きなエビフライが食べられるということです。「この皆さんは、じつはエビフライを食べようというので並んでいらっしゃいます」「ほう、エビフライですか」というような会話でもかまわないはずですが、あえて「あるもの」と気を持たせるやり方で、視聴者の注意を引いています。
いっ平 (行列の中の女性に)あっ、どうもどうも。な、何を食べに来たんですか。
斉藤 食べ物は何を?
女性 あのう、ここはエビが、ね。
いっ平 エビ、なんですか。
女性 エビフライ。
(NHK「スタジオパークからこんにちは・生中継ふるさと一番!・飛ばずに楽しむエアポート」2006.02.16 12:20)
これは、レトリックの用語としては何というのかと思い、レトリックを専門にする知り合いの研究者に伺ってみました。すると、中村明氏の『日本語レトリックの体系』(岩波書店)で「情報待機」として紹介されているものに当たるのではないかとのことでした。
いわば、「なぞなぞ法」ということではないかと、私は勝手に考えます。ある情報をわざと隠して、聞き手に「何のことだ?」となぞを発生させて、次に来るはずの情報を期待させるレトリックでしょう。
テレビを見る人は、多くの場合、漫然と見ていますから、「あること」「あるもの」「ある道具」などと、時々なぞをかけて注意を喚起するのは親切なことです。多用すればうるさくなるかもしれませんが、それとなく使うならば、効果の上がる、うまい方法だと思います。
追記
もうひとつ、例を追加しておきましょう。テレビ朝日「ワイドスクランブル」2006.02.23 11:25の中で、次のようなナレーションがありました。
幼いころから天皇の後継者として立場をわきまえた言動を貫いてきた皇太子さまが、去年末、美智子さまも驚くあることばを発したと言います。これに続いて、皇室ジャーナリストという人が、それは「秋篠宮の方に男の子が生まれてもうちはかまわないよ」ということばだったと、見てきたようなことを言います。それにしても、上の部分では、「さま」以外に敬語が使われていませんが、いつごろからこうなったのでしょうか。(2006.02.24)
追記2
この文章を書いてから間が空いてしまいましたが、中村明氏の『日本語レトリックの体系』をようやく入手することができました。
それによれば、「情報待機」は、大きく「配列」というレトリックのうちに分類されるもののようです。同じグループで、この「情報待機」と似たものとして、「未決」のレトリックというものもあります。
まず「情報待機」ですが、これは、「読者の知りたがりそうな事柄をすぐに述べず、わざと後まわしにする」というレトリックです。典型例としては、中村氏によれば、太宰治「葉」の冒頭がそうです。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。いきなり「死のうと思っていた」とあるのに、話が着物のことに行ってしまい、読者はわけが分からないまま宙ぶらりんになります。
一方、「未決」のレトリックは、知りたい情報をすぐに与えないという点は「情報待機」と同様です。それだけでなく、読者の「未解決感を引き起こす目的でおこなわれる操作」です。中村氏が挙げるのは星新一のショートショート「問題の装置」(『だれかさんの悪夢』所収)です。この作品は、法廷場面から始まるのですが、検事が次のように論告します。
「被告はまことに恐るべき装置を作りあげた。これを放任しておいたら、世の秩序を根本からくつがえし、社会不安をひきおこしかねない。〔下略〕」この「恐るべき装置」とは何なのか、読者は最後のほうまで分かりません。これは、テレビの言い方にすれば、「被告は、まことに恐ろしい、あるものを作りました」とでもなるでしょうか。
こう考えると、例のテレビの手法は、「情報待機」だけでなく「未決」のレトリックとして説明してもよさそうです。(2006.03.24)