「固定的にものを考える私は必要はないかと思います」のように、へんなところに「私は」を入れる人がいるという話はすでに書きました。これでは、「固定的に考える私」ととられてしまって、「固定的に考える必要はない」と私が考えている、とは伝わらないおそれがあります。
このような言い方は、単に、ことばを順番に並べることをしくじって、本来割り込んではならないはずの箇所に「私は」が割り込んでしまったものです。少なくとも、私はそう解釈していました。
ところが、2年ほど前のニュース番組を見ていると、また不思議な例を拾いました。アメリカ産牛肉の輸入が始めて禁止されたとき、外食チェーン店「ジョナサン」の横川竟会長が、次のように述べていました。
〔米側は、牛の〕全頭検査およびそれに準ずる形のですね、安全を確保できるような案を、ひとつかふたつ、日本政府にですね、やっぱ投げて、で、よく議論をして、一日も早く〔輸入を〕再開するですね、僕は国民に対する義務が、日本政府にもアメリカにも僕は輸出国としてあるし、輸入国としても僕はあると思いますね。(NHK「ニュース10」2004.01.15 22:00)ここでは「僕は」という語句が3回繰り返されています。この「僕は」は、当然のことながら、1回言えば十分です。それを3回繰り返すのは、どういう理由によるのでしょうか。
文が長くなって、たまたま主語を2回繰り返してしまうことはあります。昔、テレビ朝日の報道局長が、当時下野していた自民党の怒りを買う発言をし、制裁を受けたことがありました。今その発言録を読むと、なかなか含蓄に富む内容ですが、それはともかく、局長は次のように言っています。
例えば、メディアが変に偏向するなんてことは、僕は日本の視聴者のチェックとそれからバランスというものから見てありえないというふうに僕は感じます。(「朝日新聞」1993.10.23 p.28)「僕は」が2回繰り返されています。これは、1度言った「僕は」を忘れて繰り返したものでしょう。
ところが、さっきの会長のように、3回繰り返すということはどういうことか。おそらく、会長は、「僕は」ということばをフィラー(filler)のように使っているのでしょう。フィラーとは、「あのー」とか「まあこの」とかいう、文の要所要所で場つなぎのように挿入されることばです。
ニュースで使われた会長のことばはわずか何十秒かですが、その中に「あのー」「えー」というような完全に無意味なことばは入っていません。意識的に避けているのかもしれません。その代わり、「やっぱ投げて」の「やっぱ」のような意味の希薄なことば、「準ずる形のですね」「日本政府にですね」のような間投助詞が使われています。
「僕は」も、おそらく、これらと同じように、間を持たせるために使っているのでしょう。少なくとも、3回のうち2回は必要ないのですから、詰めものにする以外には使う目的がありません。
重要な主語を表すはずの「僕」を単なる場つなぎに使う語法は、ずいぶん大胆にみえます。このように、1文の中に3回も4回も使う人は、ほかにもいるのでしょうか。注意してみましょう。