親が子になにを教えるか、教えたいか、教えるべきか、教えないべきか、これはもう教育の神髄といえますが、一方で、これほど技術がむずかしいものはない。〔齋藤孝のサイトー変換・30〕(「AERA」2005.04.11 p.80)この「教えないべき」という言い方は、昔はなかったか、ごくごくまれだったと思われます。ことばの並び方の順番としては、「べき」の後に「ない」が来て、「教えるべきでない」となるのがふつうでした。近現代の主な文章を調べてみると、「べきでない」はたくさん出てきますが、「ないべき」は出て来ません。
今や、この言い方には、ときどきぶつかります。地下鉄サリン事件の時、患者を救うために尽くした聖路加国際病院救命センターの石松伸一さんは、後にテレビで次のようにコメントしました。
あのー状況で、あのー〔解毒剤の〕「パム」という薬を使うべきか、使わないべきか、あのー、かなり悩みましたね。(NHK「プロジェクトX・挑戦者たち」2005.02.08 21:15)また、民主党の中村哲治代議士(当時)は
私たち政治家が、NHKの経営陣の人事について、やめるべき、やめないべきと申し上げることが政治介入になりかねませんから、不適切であると思います。(「NHK17年度予算審議〜衆議院総務委員会」2005.03.15 9:50)と発言しました。
この言い方が新しいということを指摘すれば、話はおしまいですが、では、なぜ昔はふつうでなかったのかについて、多少考えをめぐらしてみます。
昔は、「……べからず」のように「べし+否定」の順に並ぶだけでなく、「……ざるべし」のように、「否定+べし」の順番で並ぶこともありました。しかし、この両者は意味が違っていました。
「源氏物語」で「べし+否定」で出てくるのは、たとえば、「かたみに言ひあはすべきにあらねば」(互いに話し合ってよいことではないから)のように「不適当」を表す場合や、「さすがに折るべくもあらず」(さすがに手折ることはできそうにもない)のように「不可能」を表す場合です。一方、「否定+べし」の形で出て来るときは、たとえば「御文などは絶えざるべし」(お便りなどは絶えないのであろう)というように、「確実な推量」を表しました。
「教えることは適当でない」と言いたい場合、「不適当」を表す言い方を選ぶ必要があります。古代ならば、「べし+否定」の順で、「教ふべきにあらず」「教ふべからず」などと言ったところでしょう。これは、「禁止」の言い方にもなりました。一方、「否定+べし」の順で「教へざるべし」とすると、「教えないだろう」という「推量」の意味になってしまいます。
口語で「教えないべき」とは言わなかったのは、文語の言い方が受け継がれていたからでしょう。ところが、時代とともに、「べき」は主として「適当」や「可能」の意味に使われるようになり、「推量」に使われることが少なくなりました。つまり、文語のしがらみが薄れました。そこで、文語の世界ではふつうでなかった承接の順が生まれたのでしょう。
to be, or not to be
を匂わせますね。
「〜べきでない」(不適当)が比較的強い批判ないし禁止めいた意味合いを持つのに対し,「〜ないべき」は,その行為をしないことを敢えて選択するという,当事者の裁量の幅が存在することを示唆するようにも思います。後者は,膨大な情報の中から適切なものを選択する必要に迫られる時代ならではの,心の動き方かもしれません。
「べきでない」と「ないべき」の意味の差も、たしかにあるでしょう。前者のほうに禁止の意味が強く感じられるのは私も同じです。