和子 なるとも、ならないでか。ま、さっきのおっかさんのお考えが腑{ふ}に落ちたこともあり、また、これから年の瀬にかけてはなにかと物入りだから、(p.124)私はこの作品を発表当時に読み、また、当時のこまつ座の舞台も見ましたが(余談、その時はこの作品の良さが分からなかった。今は分かります。もう一度舞台が見たい)、この「腑に落ちる」には注意を引かれませんでした。
和子 (頷いて)そう見当をつけたら、昨夜{ゆうべ}からのことが何も彼も腑に落ちました。(p.178)
今は注意を引かれます。というのも、「『腑に落ちる』は誤りだ、『腑に落ちない』としか言わない」という声をしばしば聞くようになったからです。ネットでも、そのような意見にしばしば出会います。「腑に落ちる」を可とする人でも、「最近はそうとも言うようになってきたようだ」というように、「最近」の言い方と考えている場合があります。
書物で言及しているのは、たとえば、読売新聞校閲部『日本語「日めくり」一日一語』(中公新書ラクレ 2003)です。p.166「ふに落ちない」に、「肯定の場合は、「心に落ちる」「胸に落ちる」を使う」とあります。また、野口恵子氏は、『かなり気がかりな日本語』(集英社新書 2004)p.99以下で、「「腑に落ちる」は腑に落ちない」として、「なぜ釈然としないのか」についての考えを記し、「この慣用句の肯定形を今後も使わないでいこうと改めて心に誓った次第である」とまとめています。
井上ひさし氏はことば選びに非常にうるさい作家の1人です。その人が「腑に落ちる」を使っているということは、少なくとも井上氏には違和感を生じないことばであるようです。
歴史的にはどうなのか。井上氏を含めて、最近使われるようになってきたのか。手元の用例を見てみると、決してそんなことはありません。
古いほうへ行く前に、確認のために、現代の使用例を2例ほど挙げておきます。
▼蓮實〔重彦〕先生の言葉がストンと腑に落ちる、なんて経験はこれが最初で最後かも。〔林操・見ずにすませるワイドショー143〕(「週刊新潮」2005.03.24 p.123)このように普通に使われていることは間違いない。では、昔はどうでしょう。幸田文の小説「流れる」(1955年発表)には出てきます。
「バンディアミール湖です」/ と通訳が言うが、これが湖とは、腑に落ちるまでいくらかの時間が必要だった。〔写真・文=大石芳野〕(「週刊朝日」2005.04.01 p.8)
日向{ひなた}で見る絹糸よりつややかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑{ふ}に落ちて行った。(新潮文庫1999年57刷改版 p.232)さらに古いほうへ行くと、夏目漱石が使っています。「彼岸過迄」(1912年発表)にはこうあります。
何しろこういう問題に就て、出来るだけ本人の自由を許さないのは親の義務に背くのも同然だという意味を、昔風の彼女の腑{ふ}に落るように砕いて説明した。(新潮文庫 1952年発行 1990年67刷改版 2005年88刷 p.280)漱石はまた、「明暗」でもこの語を使っています。
以上で、この語は、現に存在し、現代の文章の名手も使っており、ことばとしても昔からある、ということが分かりました。辞書などに「腑に落ちない」しか載っていないとすれば、それは辞書に何らかの方針があるか、うっかりしていたのか、どちらかでしょう。
一体に、「こういうことばはない」とか、「もしあったとしても最近使われるようになったのだ」とか主張することはむずかしいことです。困ったことには、いったんそういう言説が広まってしまうと、今までそのことばを使っていた人までが、「このことばを使うと教養がないと思われるんじゃないか」などと気になって、使用を控えることにもなりかねません。ことば批判は、「ことば狩り」と背中合わせなので、注意すべきです。
追記
この話は、とっくに先蹤がありました。道浦俊彦氏「平成ことば事情」の「ことばの話」909「腑に落ちる」に、「いんてる」105(2004.07.02)に載った境田稔信氏の文章「「腑に落ちる」と「的を得る」」が紹介されています。この号は、以前、私も境田氏にお願いして送っていただいたものであり(!)、「えっ」と思って確かめてみると、辞書の記述が紹介されていました。
要点は、(1)戦前の辞典では『大日本国語辞典』『日本大辞典言泉』『大辞典』などが「腑に落つ」〔見出し〕で載せている。(2)『日本国語大辞典』第2版に「ふに落ちる[入る]」「ふに落とす」の見出しで載り、否定・肯定の用例がある。(3)水谷静夫氏が「釈然」に関し「『釈然とした』(=腑に落ちた)よりも『釈然としない』というほうが記憶に残るから、打ち消しが多く使われる〉という話を座談会でしている、ということでした。
最新の『日本国語大辞典』第2版にも、たしかに「腑に落ちて」の例が載っています。徳冨蘆花「思出の記」(1900-01)で、上記の夏目漱石の例より古い例があっさり出ています。本文に当たると、
四ケ月経てば、学校の様子も大略{おほかた}腑{ふ}に落ちて、僕も先づ関西学院生となり了{すま}したのであつた。(五の巻(二)、筑摩現代日本文学全集5 p.225)とあります。
こういう基本的な調べが不十分なままに文章を書いたのは、不用意でした。とりわけ境田氏にはご無礼をいたしました。おわびを申し上げます。
なお、NHK「お元気ですか日本列島」の「気になることば」2005.10.17「腑に落ちる、って変?」でも取り上げられており、有島武郎「或る女」から「腑に落ちる」の例が引かれています。この例は知っていましたが、完全な肯定ではないので、私の文章では触れませんでした。(2006.03.03)




検索で、貴ブログにお邪魔しています。
「腑に落ちる」が書かれていた私の文章で、
人に指摘されました。
別におかしくないと確信して使っておりましたので
驚きました。
こうやって説明して頂くと「腑に落ちます」。
大いに助かりました。
私もブログを持っていますが、今は休止中です。
これからもお邪魔して勉強させて頂きます。
有難うございました。
「腑に落ちる」という言い方は間違いでないと思います。ふしぎなのは、間違いでないはずのことばが「間違いだ」と批判されるようになるのはどうしてか、ということです。ことばにも冤罪は起こります。
これまでのことばを守るために、ちょっとでもへんなことばだと思ったら、使わないようにしよう、というのも、ひとつの立場です。ただし、人前で「これはへんなことばだ」と指摘するためには、相当調べておく必要があります。