「最近」と書きましたが、私は、こういった語法が最近のものかどうか、疑っています。
たしかに、話し手がコーヒーが好きかどうかを知らない聞き手にとって、「コーヒーが好きじゃないですか」と言われても、「そんなことは知らない」と言うしかないでしょう。「まったく、へんな言い方がはやる。日本語はどうなってしまうのだろう」というところまで考えが発展するとしても無理はありません。
しかし、相手の知らないことを、知っているように表現する言い方は、ずいぶん昔からあったようです。
森鴎外の小説「身上話」(1910年発表)の中で、若い女中が次のように言うところがあります。
丁度(ちょうど)其頃(そのころ)わたくしひどく困まっていまして、可笑(おか)しなお話ですが、着物も体に附けているのしきゃないのでしょう。それが方々摩(す)り切れて、お客様の前へ出る度に、気になって気になってならないのでしょう。困ると智慧(ちえ)が出るものでございますのね。(『新潮名作選 百年の文学』p.9〔ルビを付加、文字遣い改める〕)この「〜でしょう」は、まさしく、今の用法の「〜じゃないですか」にあたります。今ふうに言えば、「着物も1着しかないじゃないですか」「お客さんの前に出ると、気になってしかたがないじゃないですか」といった感じでしょうか。聞き手としては、「そんなこと、知らないよ」と言うしかありません。
同様の言い方を、夏目漱石も小説で使っています。主人公の敬太郎に対して、友人の森本が、
「今朝の景色は寐坊{ねぼう}の貴方に見せたい様だった。何しろ日がかんかん当ってる癖に靄{もや}が一杯なんでしょう。電車を此方から透かして見ると、乗客がまるで障子に映る影画の様に、はっきり一人々々見分けられるんです。(『彼岸過迄』〔1912年発表〕新潮文庫 1952年発行 1990年67刷改版 2005年88刷 p.13)ここでは、主人公の見ていない今朝の景色について「靄が一杯なんでしょう」、つまり、「もやがいっぱいじゃないですか」と言っています。敬太郎は寝ていたのですから、そんなことを聞かれても答えようがないはずです。
もうひとつ、だめ押しに谷崎潤一郎の例を挙げておきます。
彼奴(きゃつ)の為(た)めには、私は時々魘(うな)されますよ。叔父様が亡(なくな)ってから、一度暇を出したんだけれど、其(そ)の時なんざ、私達親子を怨んで、毎日々々刃物を懐(ふところ)にして、家の周囲(まわり)をうろついてるッて騒ぎなんだろう。まあ私達がどんなに酷(ひど)い事でもしたようで世間体(せけんてい)が悪いじゃないか。(「悪魔」〔1912年発表〕『谷崎潤一郎全集 第1巻』中央公論社 1981.05初版 p.291〔ルビを付加、文字遣い改める〕)これは、主人公の下宿先のおばさんのせりふです。「あの男が刃物を持って、毎日家のまわりをうろついているという騒ぎじゃないですか」というわけです。男が刃物を持っているかどうかは、主人公は、当然、それまで知らなかったのです。
こう見てみると、どの例もなぜか1910年代のものです。しかし、これは偶然でしょう。1980年代の向田邦子の小説にも同様の言い方が出てきます。
「物凄い美人かと思ったら反対でしょ。門倉のおじさんたら芋俵だなんて」ある職人の女房について、みんながきっと美人なのだろうと予想していたら、実物は芋俵のようだった、というのです。現代ならば「きっとすごい美人かと思ったら、真逆(まぎゃく)じゃないですか」というところです。ただ、この例の場合、ここに来るまでに、女房の実際の容貌が「色黒、小肥り」ということについては触れられているので、「反対でしょ」というのは、必ずしも唐突ではないかもしれません。
三日逢わないと三日分の出来ごとを、さと子は石川義彦に話すのが楽しみだった。(『あ・うん』〔1980-1981年発表〕文春文庫 2003.08.10 新装版第1刷 p.171)
ほかにも、考えてみれば、昔話などでも「聞き手の知らないはずのことを、さも知っているかのように言う」という語法はあります。戦後の国定読本(国語教科書)にとられている「金のさかな」という物語では、
おじいさんが帰ってみると、どうでしょう、ちゃんとごてんができていて、おばあさんは女王になっているではありませんか。物語の聞き手は、おばあさんが女王になったかどうかなんて、あらかじめ知るわけはありません。「女王になっているではありませんか」と言われても、「知りませんよ」と言うしかないわけです。
こう見てくると、現在のように、聞き手が知らないことについて「〜じゃないですか」と言うような語法は、発想としては新奇なものではないことが分かります。鴎外・漱石も使っており、国定教科書にも載っています。
もっと言えば、「源氏物語」にも同様の例があります。
「朧月夜に似るものぞなき」と、うち誦じて、こなたざまには来るものか。(花宴)のように出てくるのも、同じ発想でしょう。「女の人が、歌いながら、こちらに来るじゃないですか」と言っているのです。物語の聞き手は、女の人が来るかどうか、もちろん知りはしません。
ずいぶん伝統的な語法ではありませんか。
追記
江戸川乱歩の1926年の作品にも、この語法が出て来ます。人妻が一人称で次のように語っています。
その道がまた、お天気でもじめじめしたような地面で、しげみの中には、大きなガマが住んでいて、グルルル……グルルル……と、いやな鳴き声さえたてるのでございましょう。それをやっとしんぼうして、蔵の中へたどりついても、そこも同じようにまっ暗で、(「人でなしの恋」『人間椅子 他九編』春陽文庫 1987年新装版 1996年22刷 p.189)茂みにガマガエルがすんでいるか、鳴き声を立てているかは、聞き手が知るはずのないことです。
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