たとえば、「私が先生の留守におうちを訪ね、奥様に書類を託した」というような状況を考えてみます。登場人物は「私」「先生」、そして、間に「奥様」が入ります。「私」は奥様に、
先生にこの書類をお届け願えますか。のように言うはずです。そして、実際上は、これで奥様からも先生からも文句は出ないでしょう。ところが、よくよく考えてみると、この文は「奥様」に対する敬意は「お……願う」で表されていますが、「先生」に対しては敬意が表されていません。その証拠に、上の文の「先生」を「私」に入れ替えて、
私にこの書類をお届け願えますか。としても、失礼な文になりません。つまり、「だれだれに」に当たる人物に敬意が表されていないのです。
この場合、無理に先生にも敬意を表そうとすると、奥様の行動を低めることによってしか実現できません。たとえば「お届けしていただけますか」のような言い方になるはずです。この「お届けして」の部分は、「奥様が先生にお届けする」ということであって、暗に、先生の方が奥様よりも上に位置すると言っていることになります。これは、奥様に対して失礼です。
そうすると、このような場合、先生にも奥様にも申し分のない敬意を表すことは、結局できないことになります。
一方、逆に、こちらが話の中心になる場合にも問題が起こることがあります。たとえば、「先生」「私」そして「私の妻」の3人を登場人物にします。「先生が、私の留守に電話をくれて、妻に研究会の件について伝言をした」という事実があったとします。あとで、「私」は先生に向かって、
研究会の件については、妻から伺っています。と言いたくなります。「先生からのお話は妻を通して伺っています」ということで、「伺う」は先生に敬意を表したつもりです。
ところが、「妻から伺う」という言い方をしてしまうと、これはまるで妻に敬意を表しているように聞こえます。たいへんまずい言い方なのです。
では、「妻から聞いています」と言えばいいでしょうか。たしかに妻への敬意はなくなりましたが、先生への敬意も依然として表されていません。
こういった問題を避けようとすれば、
先生からお話を伺ったと、妻が申しておりました。などと、まったく別の言い方を工夫する必要があります。ふつうの文を敬語を含む文に変えることは、必ずしも機械的にはできないのです。
(「ことば会議室」の「田中先生、鈴木先生にこれを差し上げて下さい。」の議論を参考にしました。)
追記
「妻から」ともだれからとも言わず、単に「研究会の件については承っています」とすれば、問題は回避できます。「承る」は「伝え聞く」の謙譲語でもありますから、だれかを通じて聞いたという語感が出ます。ただし、だれから聞いたかを示すことができません。「妻から承っています」とすれば、やはり妻を尊敬する表現になってしまいます。(2006.02.10)



