2006年01月09日

話を始めるには手間がかかる2

話を始めるには手間がかかる」の続きです。

すでに触れたように、夏目漱石の「それから」では、弟が兄に借金を申し込むまでに、面倒な手順を踏んでいました。「いつ話をするかを決める」「うなぎ屋に入る」「お銚子を2、3本空にする」という前置きが必要でした。これよりもずっとややこしい手順を踏む例が、やはり漱石の「行人」にありました。

「行人」の第4章にあたる「塵労」では、ある土曜日の午後、主人公の「自分」の所に、父から電話がかかってきます。
「明日の朝一寸行くが好いかい」
「へえ」
「差支があるかい」
「いえ別に……」
「じゃ待ってて呉れ、好いだろうね。さようなら」(新潮文庫 1993年81刷改版、2005年95刷 p.285)
父は電話でこれしか言わず、「自分」にはいったい何の用事かさえ分かりません。仕方なく、自宅で早起きして待っていると、父はなかなか来ず、ようやく10時ごろに羽織袴でやって来ます。

それからすぐ用談が始まるのかというと、そうは行きません。父は主人公を上野に連れ出します。2人は表慶館(美術館)に入ります。父は展示品に関するさまざまな講釈を聞かせてばかりいて、ほかの話をしません。

それから洋食屋に入ります。その席でいよいよ話が始まるのかと思ったら、父はなおも世間話を続けるだけです。〈用談らしい改まったものは、珈琲{コーヒー}を飲むまで遂{つい}に彼の口に上{のぼ}らなかった〉のです。

ついに帰り道となり、「自分」の家へ行く道と実家へ行く道との分岐点に来ました。ここで父は〈まあ好いから宅{うち}まで御出{おいで}〉と「自分」を誘います。それならば、わざわざ上野まで連れ出したりせずに、昨日の電話で「家に来なさい」と呼びつければいいようなものです。しかし、父は直接的に命令することを避けた、または「自分」に拒まれることをおそれたのでしょう。

さて、「自分」を連れて実家に戻り、そこでようやく父は何か話を始めるのかというと、いっこうにその気配がありません。「自分」は父や母、兄嫁、それに妹とともに雑談をするしかありません。

ところが、その後、主人公が妹の部屋に寄り、ふたたび座敷に戻ってくると、父と母とが差し向かいで何か話をしています。よくよく尋ねてみると、主人公の兄の精神状態が悪く、陰鬱な性格がどんどんひどくなっていくというのです。主人公はしばらくその話を聞き、
自分は父や母と相談の揚句、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼等〔=父母〕が自分達の手際{てぎわ}では到底{とても}駄目{だめ}だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好{よ}かろうと発議{ほつぎ}して二人の賛成を得た。然しその頼み役には是非とも自分が立たなければ済まなかった。(p.299)
と、問題解決のために一肌脱ぐ事になります。このあたりで、時間は夕方5時近くになっています。

要するに、父の希望は何かというと、「兄の機嫌をよくするため、弟である主人公に協力してほしい」ということでした。そのことを、昨日の電話でも言わず、美術館でも、昼食の席でも言わず、実家に連れて帰ってからも、とうとう直接的には頼み事をせず、主人公自身に解決策を提案させるように導いたのです。

べつに父が小細工を弄した、とはいえないでしょう。むしろ、父は主人公との間に角を立てないように、立てないように考えて行動したのだろうと思います。あるいは、直接的に頼み事をする度胸がなかったため、自然に以上のような手順を踏むことになったのだろうと思います。これは日本人ならではの頼み方と言ってもよいでしょうか、どうでしょうか。
posted by Yeemar at 16:00| Comment(4) | TrackBack(0) | コミュニケーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。

> これは日本人ならではの頼み方と言ってもよいでしょうか、
> どうでしょうか。

どうでしょうか?・・・・・・と言われたら、
「どうもこうもない」と答えるしかないだろね。
小説のエピソードから実社会を判断することは、
空想と現実の混同なので避けるべきだと思うよ。
Posted by まあくん at 2009年08月08日 05:01
小説には、おっしゃるとおり空想の部分もありますが、現実を反映した部分も大いにあるのです。研究では、顕著な成功例としては津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』があります。金田一春彦『日本人の言語表現』も、文学を資料に日本人の言語生活を論じた成功例といえるでしょう。問題は、上記に引用したような例がレアケースであったかどうかということですね。
Posted by Yeemar at 2009年08月09日 08:25
こんばんは。

レアケースとかはよく分からないなぁ〜

っていうか、実社会のことを判断するならば、実社会に事例を求めるのが科学的な態度だということ。実社会のことを判断するときに、実社会ではなく空想の産物に事例を求めるのは非科学的な態度だからさ。

それと、「文学を資料に日本人の言語生活を論じた成功例」という表現のことなんだけど、物事を頼むときに相手を一日中いろんな場所を連れ回したりする有様のことを「言語生活」と呼ぶならば、言葉遣いがちょっと不適当だと思う。むしろ「ありがちな行動パターン」とかのほうがベターだよね。
Posted by まあくん at 2009年08月09日 21:14
>レアケースか、、、日本人ならではの頼み方か、、、?

どちらも正解だと思います。属している社会や地域差により、前者であったり、後者であったりします。個人的な経験ですが、、、

・前者のレアケースの場合
 東京のような大都会では、相手が切り出さなければ、呼び出された方から用件を訊ねるでしょう。大都会の生活者や会社人間の時間の感覚を例に取ると、「これ急ぎだから」という場合、10年以上前でも東京では3時間、地方では3日と言われていました。

・後者の場合
 山村など社会の変化が緩やかな地域では、同世代の人々でも都会人間には親や祖父母世代の対応であり、両者間でギャップが発生します。はっきりものを言い過ぎて露骨だ、と一方が思えば、他方はまどるっこしくて苛々する、というように。


>とうとう直接的には頼み事をせず、主人公自身に解決策を提案させるように導いたのです。

 これは、人間関係によりますが、一歩間違えば「利用された、嵌められた」という問題を生じませんか? 「誘導」は、相手が自主的に引き受けた事として相手に責任を押し付けたり、また、実際は依頼であるのに、不都合時の無関心や責任回避への無意識の予防策を取っていることがあります。

 躾や教育のためであれば、誘導も必要だと思いますが、一般には、残念ながら、下心のある人が使う場合が多く、誠意のある人は、騙し討ちのような回りくどいことはしないで、「頼むときは頼む」そして、世話になったら「キチンとお礼をする」というのが普通だと思いますが、、、。ただ、プロポーズの時だけは例外です。1日でも3日でも気の済むまで「どうぞ、ごゆっくり!」 
Posted by 京の桜色 at 2009年08月17日 05:17
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