桔梗さんは、生徒に匿名で恋を詠んだ短歌を書かせ、他の生徒に、それに対する返歌を書かせるという授業を行っています。つまり、相聞歌を贈り合う授業です。
冒頭で、以前の生徒が作った作品が紹介されていました。
帰り道あなたに言われたさようなら明日も会うのになぜか切ないという歌に対して、
「さようなら」やっと言えたよこの言葉明日の学校とても楽しみという返歌が寄せられたそうです(ホームページ「2001年十二月 万葉・古今・新古今発展」)。
私は、この2首の歌は、発言の意味が人によっていろいろに解釈されることを示す分かりやすい例だと思いました。
歌の意味は明らかです。ある女の子が、日ごろ気になっている男の子から「さようなら」と言われ、切ない気持ちになった。しかし、男の子のほうとしては、じつは彼女にことばがかけたくて、やっとの思いで「さようなら」と言ったのです。つまり、女の子にとっては、「さようなら」は相手が離れていくときのことばだったのですが、男の子にとっては、相手に近づこうとする意図をこめたことばでした。
「さようなら」というたった一言について、男の子と女の子がまったく反対の感じを抱いているところにおもしろさを感じます。われわれが互いにことばを交わすときは、たった一言のあいさつをめぐってさえ、双方が別々の感じを抱くことがよく分かります。まして、2人がデートに行って1日を過ごし、さまざまな会話を交わすとき、そこには、誤解だとすぐ分かるもの以外に、意識されない無数の誤解が起こっているに違いありません。
もともと、恋歌は、1つのことばの意味を二様に変えてやりとりするところに妙味があります。大げさに言えば、コミュニケーション・ギャップを巧みに取り入れた詩歌だと言うこともできます。ただ、古代の相聞歌の多くは、答えるほうが贈り手のことばをわざとねじまげて返すことがしばしばです。技巧に傾きすぎるきらいがあります。
番組で紹介された中学生の作品は、そのような技巧的なものではありません。「さようなら」の返歌を詠んだ男の子の場合、相手と自分との間に生まれた意味の違いに気づいて、「ああ、そういうつもりではなかったんだよ」と素朴に答えている感じがあります。本来なら誤解に気づかずに終わったかもしれないのに、授業で相聞歌を作ったことで、運良く誤解が解けたのではないでしょうか。




語源は、
「さようならば(しからば)これにて失礼つかまつります。ご無礼の段、平にご容赦のほどを」がだんだんと短くなったものでしょう。