実を言うと、私はまだこの本を読んでおらず、書評を行う資格はありません。ただ、タイトルが衝撃的であるため、内容のいかんにかかわらず、「そうか、人は見た目が9割であって、ことばの重要度は1割にしかすぎないのか」と誤解する人が多いだろうということについては、一言しておいていいのではないかと思います。
そう誤解する人がいる証拠はあるのか、と問われれば、「四国新聞」2006.01.06 p.1の「一日一言」欄を挙げましょう。ここにはこうあります。
見た目は重要だ。米国の心理学者アルバート・マレービアンの実験によると、人が他人から受け取る情報のうち、顔の表情が55%、声質や大きさなどが38%をそれぞれ占めるのに、話す言葉の内容は7%にすぎないらしい▲この結果を紹介した「人は見た目が九割〔ママ〕」(竹内一郎、新潮社)には、「ついついコミュニケーションの『主役』は言葉だと思われがちだが、それは大間違い」とまである。確かにそのようだ新聞記者なら、もう少し裏を取って書くべきです。マレービアン(メラビアンとも、Albert Mehrabian)の調査は、ここに書かれているような主張を導くものではありません。
マレービアン・西田司他共訳『非言語コミュニケーション』(聖文社 1986)で示されているデータは、「表情と言葉が矛盾する場合」に、人は何から最もインパクトを受けるか、という調査の結果です。たとえば、以下は私が作った例ですが(※注)、こういうようなことです。あるとき、恋人がいかにも気のなさそうな声と表情で「愛しているよ」とあなたに言ったとします。これが、「表情と言葉が矛盾する」メッセージということです。こういうときであれば、だれだってことばより表情を信用するでしょう。
マレービアンらの調査は、訳書ではこうまとめられています。
好意の総計=言葉による好意表現(7%)+声による好意表現(38%)+顔による好意表現(55%)注意していただきたいのは、「他人から受け取る情報のうち、顔の表情が55%」とは決して書いていないということです。ここでは、あくまで、「好意を示すメッセージに矛盾がある場合」についてしか述べていません。
つまり、顔の表情のインパクトが最大で、次が声の調子(音声表現)、最後が言葉となっている。(『非言語コミュニケーション』p.96)
マレービアンは、この「好意の総計」をさらに一般化して「感情の総計」も「言葉」7%、「声」38%、「顔」55%と置き換えています。これはたとえば、仕事を探している人がどれだけ熱心であるかについて、採用者は、ことばよりも声の調子や表情から判断することが多いということです。
ところが、これを「人は見た目が9割」とまとめてしまうと、いろいろな間違いを引き起こします。「今度大勢の前でプレゼンテーションをすることになった。内容はほとんど準備ができていないが、堂々とした表情・口調で話せばごまかせるだろう」、または、「おれはじつは卑怯な性格なのだが、さいわい好男子に生まれついている。人は見た目が9割だから、うまく世の中を渡ってゆけるだろう」――これらは、真実かどうかは私には判定できませんが、少なくとも、マレービアンらはこういうことについては言及していません。
永江朗氏も、「朝日新聞」2005.12.04「ベストセラー解読」でこの新書を取り上げ、次のように注意を喚起しています。
ところで、大前提になっている「7・38・55」は、「メラビアンの法則」として知られる。矛盾した情報に接したとき、言語・聴覚・視覚のうち何を優先するかを調べた実験だが、博士自身がこれは限られた場面についてだけのもの、とクギを刺していたはず。永江氏は、新書の著者に失礼にならないようにごく軽く触れているだけですが、マレービアンの「クギの差し方」は、次のようにはっきりしています。
ところで、ここで注意すべきことが一つある。言葉によらないキューは、言葉と比べて、不釣合なほど大きな力を持っていると述べてきたが、それは感情(快感、覚醒、支配)と好意‐嫌悪とに限られていることである。言葉によらない表現の方が、常に言葉より重要であるとは言えないことは明らかである。事実、言葉の示す指示物を伝えることにおいては、言葉によらない表現手段はほとんど役に立たないのである(例えば、「明日の午後二時に会いましょう。」、「昨日は、ベロアの新しい背広を着ていました。」、「X+Y=Z」)。(訳書 p.101)とすれば、内容のないプレゼンテーションをいくら自信たっぷりの表情で行っても、成功の保証はない、ということになります。ことばを軽んじるならば、きっとことばに逆襲されることになるでしょう。
※注(2015.05.09追記)
原典には、短く要約できる適切な例がなかったので、ここでは私が原典の趣旨を酌んだ作例を出しています。ちなみに、原典から一例を引くと、こんな具合です。
〈 社交の場で、飲み物やコーヒーをこぼしたり、花瓶や電気スタンドを倒すなどの、失敗をしたことのある人は多いであろう。そのような場合に、連れの者や女主人{ホステス}が示す反応にはさまざまなものがあり得よう。親しい友人間では、時として、「ぶきっちょ」、「ぼけ」、「どじ」というような呼び声が、反応として、発せられることがある。しかしその場合、顔には笑みが浮かび、口調は怒っているようだが、親愛の情がこもっている。その言葉によるメッセージ、つまり悪態は、話者の嘆息と狼狽を表しているが、微笑と声の調子から、決して愛想をつかしたのではないことがわかる。そのような複雑なメッセージを言葉だけで伝えることは不可能ではないにしても、大変難しいことであろう。敢えて言えぱ、次のようになるであろう。「本当に困ったことをしてくれたものだ。お陰で気分が壊れてしまった。でもまあ嫌いになったわけじゃあないが……。」そんなことを言葉で表しても、せいぜい、白々しく響くだけであろうし、また、それを実行する人は少ないであろう。しかし、そのようなメッセージこそ健全なコミュニケーションの方法である、と主張する精神療法士{サイコセラピスト}もいないわけではない。〉(『非言語コミュニケーション』p.93)
実は、昨日(11/7)、飯間さんのこのブログ記事の
マレービアン教授の著書の箇所を引用し“「人は見た目
が9割」というウソ”という記事を「JanJan」
というインターネット新聞に書かせていただきました。
私の記事の趣旨も飯間さんと同じで、『人は見た目が
9割』という本が、マレービアンの法則を勝手に拡大
解釈してベストセラーになっているという現象に対し、
異議を唱えたものです。
あらかじめお知らせすべきところ、順序が逆になって
しまい、申し訳ございません。
それにしても新書ブームに便乗した最近の「売らんかな」
のタイトルの付け方やPR方法には、大いに憤りを感じ
ます。今後も、このブログを参考にさせていただきます。