今回は、「草枕」を読んで気づいたことばのうちから、いくつかを取り出して記してみます。(ページ数は新潮文庫 1980.07.10 70刷による)。
●とぞ知れこれはシェレー(シェリー)の詩「雲雀に寄せて」を漱石が和訳したものです。係り結びの規則からすれば「籠るとぞ知る」か「籠るとこそ知れ」となるべきところ。漱石は漢詩には詳しかったけれども、古文にはあまり関心がなかったことを物語る例といえます。
「前を見ては、後{しり}えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想{おもい}、籠{こも}るとぞ知れ」(p.8-9)
●さっぱし江戸っ子の床屋のせりふです。岩波版の全集で見ると「さっぱし」は「薩ぱし」とあて字が使われています。この床屋は、別の箇所では「こうやると誰でもさっぱり〔薩張り〕するからね」と「さっぱり」の形を使っています。「まったく」の意味では「さっぱし」、「不快感がなくなる」の意味では「さっぱり」と使い分けたのでしょうか。
何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想{あいそ}に出てきますかい。どうもさっぱし、見境{みさけえ}のねえ女だから困っちまわあ」(p.56)
「〜り」を「〜し」と言う語法が「中部地方・近畿地方など各地で、かなり使われている」と井上史雄著『日本語ウォッチング』(岩波新書)に記されていることについては、以前「はっきし言って」という文章で触れました。東京のことばとしても少なからず勢力があったのでしょう。
なお、この床屋は「かったるい」の訛り「けったるい」(「そんなに倦怠{けったる}うがすかい」p.56)という語も使っています。
●古来から「古来」は「古くから」という意味だから、「古来から」は重言だ、とよく言われます。漱石も使っているとは知りませんでした。どれくらいさかのぼれる言い方でしょうか。
古来からこの難事業に全然の績{いさおし}を収め得たる画工があるかないか知らぬ。(p.67)
今回はこのあたりまでにしておきましょう。
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