2008年10月19日

「推量する」の意の「積もる」は使うか

『三省堂国語辞典』の「積もる」には、「雪が積もる」と言うときの意味などとともに、〈考える。思いはかる。〉という意味が載っています。初版以来、この記述があり、前身に当たる『明解国語辞典』にも載っているので、えんえん引き継がれてきた語釈と言えます。

でも、私は、「考える」とか「思いはかる」とかいう意味で「積もる」を使いません。もちろん、「○○するつもり」と、名詞形の形では使いますが、動詞形では、自分も使わないし、現代語での例を見たこともありません。

ほかの辞書を引いてみると、『大辞林』第3版や『広辞苑』第6版には江戸時代の例が出ています。『日本国語大辞典』第2版も江戸時代の例(4例)です。どうも、古い使い方ではないかと考えられます。『学研国語大辞典』第2版には、泉鏡花「照葉狂言」(1896年)および樋口一葉「われから」(1896年)の例が引いてありますが、近代の例としてもだいぶ早いものです。「われから」の例を以下に引いておきます。
どういふ様子どのやうな事をいふて行{ゆ}きましたかとも問ひたけれど悋気男{りんきをとこ}と忖度{つも}らるるも口惜{くちを}しく、(新潮文庫『にごりえ・たけくらべ』p.159による)
また、小型辞書を見ると、『明鏡国語辞典』初版が〈「悋気{りんき}男と―・らるるも口惜しく〈一葉〉」〉と、「われから」の例を載せています。典拠を示しているということは、古い使い方であることを示唆しているようです。『旺文社国語辞典』は、以前の版ではこの意味を載せていましたが、最新の第10版にはありません。『新選国語辞典』第8版・『集英社国語辞典』第2版などにもありません。

こう見てくると、現代語として「積もる」を「推量する」の意味で使うことはなくなっているのではないかと思われてきます。

ところが、『学研現代新国語辞典』改訂第4版には、〈おしはかる。〉という意味が記されていて、次のように口語文の例が出ています。
「けちな奴{やつ}と―・られるのもくやしい」
これは、いったいどこから採集した用例でしょうか。もし、現代語としてこのような例があるならば、「積もる」の「推量する」の意味を辞書から削るべきではありません。でも、どうも、これは作例らしく思われます。というのも、上に示した「われから」の一節と酷似しているからです(『学研現代新国語辞典』のもとになった『学研国語大辞典』に「われから」の例が引いてあることからもそう思われます)。

はっきりしたことが分からないため、安易な批評はできませんが、もし『学研現代新国語辞典』の例が作例ならば、誤解を与える不適切な例です。「われから」の文章が分かりにくいため、口語文に差し替えたということかもしれませんが、それが現代語の実例であるような印象を与えかねません。

私は、辞書の例文として実例でなく作例を用いる場合には、よほど慎重にしなければならないと考えます。「○○ということばを使って短文を作りなさい」という問題は、国語の授業でもよく出ます。ごく当たり前の例文を作ったつもりが、あとで考えると、そんな言い方はしない、ということはよくあるものです。実際に確かに用いられた例があり、しかも、簡潔でだれにでも分かりやすい文を選ぶことも、辞書作りに求められることの一つだと考えます。

さて、「推量する」の意味の「積もる」ですが、もろもろの辞書を調査した結果からは、現代語ではあまり使われなさそうだ、という感触が強くなりました。まだ断定したわけではなく、しばらく注意をしてみたいと思います。
ラベル:推量 積もる
posted by Yeemar at 12:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 語彙一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

麻生首相の演説の文体

9月29日、麻生新首相が所信表明演説を行いました。所信表明というよりは、政権交代をうかがう野党民主党への代表質問の色合いが濃く、異例の演説だと驚きをもって迎えられました。

私も有権者であるからには、演説の内容については思うところがありますが、ここは日本語について述べる場ですから、一切省略します。ここでは、新首相の演説文の特徴について指摘しておきます。

新聞で演説を読んで、すぐに、「ああ、これは役人の手がほとんど入っていないらしい」と思いました。首相の演説というよりは、政治家が夕刊紙に書くコラムのような文体です。〈〔民主党が〕のめない点があるなら〉などという格調を欠く表現が目につきますが、分かりやすいことは確かです。分かりやすいというのは、内容の適否や真偽について、聞き手(読み手)が判断しやすいということです。

首相の演説というものは、一般に、各省庁の役人が書いた原案をつぎはぎして作るものだそうです。そのせいか、ふつうはたいへん読みにくいのです。一文の中にたくさんの情報を欲張って盛りこんでいて、ついていけなくなります。

麻生首相の演説には、情報を詰め込む文は目立ちません。むしろ、〈経済成長なくして、財政再建はない。あり得ません。〉のように、「ない」を「あり得ません」にただ言い換えただけのところがあったりして、情報の密度は低いのです。ゆっくり進む授業と同じで、これは聞き手の理解を助けます。首相が何に積極的で、何に消極的かということが、よく分かります。

分かりやすいということのほかに、文末が多様であることも特徴です。役人の下書きに基づく演説は、一種の法律文のような趣があって、文末も型にはまっています。ほぼ10年前の小渕首相の所信表明演説(1998.08.07)を分析すると、7,461字、118文(私の計算による)のうち、「ます」で終わる文が95、「です」が10、「た」が7、「ん」が6です。長文の演説の語尾が、わずか「ます」「です」「た」「ん」の4種類しかありません。

私が文章を書いたとしても、「ます」「です」「た」「ん」が多くなります。この私の文章も、書き終えてから確かめると、(下の箇条書きの部分を除いて)この4つの語尾だけでできています。私の文章も役人ふうなのかもしれません。

麻生首相の演説は、がらっと様子が変わります。6,026字、206文のうち、「ます」で終わる文が106、「ん」29、「です」23、「か」10、「た」9、「ある」3、「を」3、「こと」2、「ましょう」2という具合です。このほか、1例ずつ出ているのが、「当たり前」「いく」「強化」「経済成長」「結構」「三年」「手段」「する」「たい」「立ちすくませる」「と」「取り組む」「無い」「…ない」「なる」「に」「不足」「ほしい」「補正予算」です。

「か」が多いのは、もちろん、民主党への詰問調の演説だからです。また、いわゆる名詞止め(体言止め)を多用していること、丁寧体の中に普通体を混ぜていることなどが、文末を多様にしています。これほど型破りな文体の首相演説は、後にも先にもないのではないかと思います。

最後に、私は麻生首相の演説をどう評価したかをまとめておきます。

1 文章が分かりやすい。したがって、内容がいいか悪いかが判断しやすい。
2 文末が多様。
3 格調に欠ける。

以上です。
posted by Yeemar at 07:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする