でも、私は、「考える」とか「思いはかる」とかいう意味で「積もる」を使いません。もちろん、「○○するつもり」と、名詞形の形では使いますが、動詞形では、自分も使わないし、現代語での例を見たこともありません。
ほかの辞書を引いてみると、『大辞林』第3版や『広辞苑』第6版には江戸時代の例が出ています。『日本国語大辞典』第2版も江戸時代の例(4例)です。どうも、古い使い方ではないかと考えられます。『学研国語大辞典』第2版には、泉鏡花「照葉狂言」(1896年)および樋口一葉「われから」(1896年)の例が引いてありますが、近代の例としてもだいぶ早いものです。「われから」の例を以下に引いておきます。
どういふ様子どのやうな事をいふて行{ゆ}きましたかとも問ひたけれど悋気男{りんきをとこ}と忖度{つも}らるるも口惜{くちを}しく、(新潮文庫『にごりえ・たけくらべ』p.159による)また、小型辞書を見ると、『明鏡国語辞典』初版が〈「悋気{りんき}男と―・らるるも口惜しく〈一葉〉」〉と、「われから」の例を載せています。典拠を示しているということは、古い使い方であることを示唆しているようです。『旺文社国語辞典』は、以前の版ではこの意味を載せていましたが、最新の第10版にはありません。『新選国語辞典』第8版・『集英社国語辞典』第2版などにもありません。
こう見てくると、現代語として「積もる」を「推量する」の意味で使うことはなくなっているのではないかと思われてきます。
ところが、『学研現代新国語辞典』改訂第4版には、〈おしはかる。〉という意味が記されていて、次のように口語文の例が出ています。
「けちな奴{やつ}と―・られるのもくやしい」これは、いったいどこから採集した用例でしょうか。もし、現代語としてこのような例があるならば、「積もる」の「推量する」の意味を辞書から削るべきではありません。でも、どうも、これは作例らしく思われます。というのも、上に示した「われから」の一節と酷似しているからです(『学研現代新国語辞典』のもとになった『学研国語大辞典』に「われから」の例が引いてあることからもそう思われます)。
はっきりしたことが分からないため、安易な批評はできませんが、もし『学研現代新国語辞典』の例が作例ならば、誤解を与える不適切な例です。「われから」の文章が分かりにくいため、口語文に差し替えたということかもしれませんが、それが現代語の実例であるような印象を与えかねません。
私は、辞書の例文として実例でなく作例を用いる場合には、よほど慎重にしなければならないと考えます。「○○ということばを使って短文を作りなさい」という問題は、国語の授業でもよく出ます。ごく当たり前の例文を作ったつもりが、あとで考えると、そんな言い方はしない、ということはよくあるものです。実際に確かに用いられた例があり、しかも、簡潔でだれにでも分かりやすい文を選ぶことも、辞書作りに求められることの一つだと考えます。
さて、「推量する」の意味の「積もる」ですが、もろもろの辞書を調査した結果からは、現代語ではあまり使われなさそうだ、という感触が強くなりました。まだ断定したわけではなく、しばらく注意をしてみたいと思います。