2008年03月25日

かなり当てはまらない

名前は管理職なのに時間外手当が出ないなどの「名ばかり管理職」について、NHKが1月、全国200社あまりを対象にアンケートを行いました。その結果が報道されました。
会社の管理職が法律の条件に当てはまるか尋ねたところ、「ほとんど当てはまらない」が9%、「かなり当てはまらない」が18%、「一部当てはまらない」が36%で、(NHK「ニュース7」2008.03.23 19:00)
この「かなり当てはまらない」に注意が向きました。私は使わない言い方です。こういうアンケートの文言は、数値を日常語に翻訳している面もあるので、ふつうの日本語とは違った言い回しになることがあるかもしれません。

『三省堂国語辞典』第6版では、「かなり」は次のように説明しています。
(1)極端(キョクタン)なほどではないが、程度が強いようす。「―大きい」(2)〔俗〕非常に。すごく。「―むかつく」
第5版では〈相当。「―大きい」〉だけだったので、詳しくなっています。これは「かなり+肯定表現」を想定した説明です。「かなり」はふつう否定表現とは結びつかず、「かなり痛くない」「かなり高くない」などとは言いにくいはずだからです。「かなりつまらない」とは言いますが、これは「つまらない」が否定表現ではなく「無味乾燥」の意の形容詞になっているからです。

『三省堂』の上記の説明でも、むりやり「かなり当てはまらない」を解釈できないこともありません。「ほとんど当てはまらない」を「はずれ度A」とした場合、「かなり当てはまらない」は、そこまで極端ではないが、まあ「はずれ度B」ぐらいといった語感でしょうか。

しかし、私の語感では、「かなり+否定表現」が何パーセント程度を指すのか、分かりません。「テストがかなりできた」と言えば、80点か90点かといった点を思い浮かべます(100点ではない)。一方、「テストがかなりできなかった」と言われても、さあ、それは何点ぐらいか、ちょっとイメージしがたいのです。肯定表現の場合を単純に逆転すれば10点か20点だったということになりますが、その場合、私なら「ほとんどできなかった」になります。私の語感に基づいてだいたいのところを示すと、0点は「まったくできなかった」、0〜40点ぐらいは「ほとんどできなかった」、40〜70点ぐらいは「あまり(それほど)できなかった」、70〜80点ぐらいは「ふつう(まあまあ)だった」、80〜90点ぐらいは「かなりできた」、90〜100点は「よく(たいへんよく)できた」であり、「かなりできなかった」の入る余地はありません。

ところが、この「かなり+否定」は、しばしば目にします。用例を引用します。
〔チョコボールのくじの〕金〔=ゴールドの意〕も本当にあるのだが、かなり出ない。仮に「20個に1枚銀」と仮定すると、銀5枚ぶんつまり「100個に1枚金」ぐらいになるのか。〔つぼさがし46・「おもちゃのカンヅメ」のつぼ〕(「週刊朝日」2005.03.04 p.56)

 今連載している雑誌の担当も男性で、男性作家の担当が当然多いのだけれど、この人も〔差し入れ時に〕かなり肉しか買って来ない。〔安野モヨコ・くいいじ8〕(「週刊文春」2006.10.19 p.69)

「そうだよ、雅子ちゃん」山瀬が口をはさんだ。かなり呂律{ろれつ}が回っていない。「この際、犬の名前もヨーから、プーぐらいに変えてさ」〔藤田宜永・喜の行列悲の行列51〕(「サンデー毎日」2007.04.29 p.59)
これらの用法をかりに辞書に載せるとすれば、「〔俗〕〔下に打ち消しのことばが来る〕ほとんど。」と簡潔に説明したいところです。上の例は、「くじの『金』がほとんど出ない」「ほとんど肉しか買って来ない」「ほとんど呂律が回っていない」と解して差し支えないからです。ただ、そうすると、先のアンケートの「ほとんど当てはまらない」と「かなり当てはまらない」の違いが出ません。その点に配慮すれば、
〔俗〕極端(キョクタン)なほどではないが、程度が弱いようす。「条件に―当てはまらない」
このようになるでしょうか。

『三省堂国語辞典』は、新用法はわりあい積極的に載せる辞書ですが、この「かなり」は、用法になお不明な点もあるので、載せるにあたっては迷う語といえます。『三省堂』は第6版が出たばかりなので、次の改訂で載せるとしてもまだ先のことです。この用法をそれよりも先に載せる辞書は、おそらくないでしょう。
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2008年03月22日

「イケメン」検証はありがたい

TBSのバラエティ番組「ご起源さん!」(2008.03.21 18:55)を見ました。ことばや物の起源を探る番組です。最初に、「イケメン」の語源は何かが取り上げられました。この部分では、私の電話インタビューも流れました。

番組の結論を要約します――『広辞苑』第6版で、この語は「いけ面」の表記で載り、「いけている」の略と「面」をあわせた俗語かと説かれる。しかし、「朝日新聞」2008.01.16でも取り上げられたように、この説は不十分である。そこで語源について調査を開始した。語の発祥について、ゲイ雑誌「バディ」からとの説があったが、編集部の証言で否定された。最終的には、ギャル雑誌「エッグ」(egg)の元編集者・矢野智子さんが初めて使ったとされ、本人もインタビューで認めた。1999.01の誌面で「ねえ、ひろゆきクン、前回のイケメン見てどう思った?」とある。これは「クリクリ矢ぬの イケてるメンズ」というコーナーの略称。したがって、本来は「いけてる」と「メンズ」の合成語ということになる――

有意義な取材だったと思います。俗語の発祥については、この「イケメン」に限らず諸説ある場合が多いのですが、それを具体的に実証しようとすると、なかなかむずかしいものがあります。この番組のように、突撃取材で関係者のインタビューまで取ってもらえると、(その検証過程が正当であれば)有力な資料になります。

この「イケメン」の語源については、これまでのところ、学術的に最も頼れるのは米川明彦編『日本俗語大辞典』(東京堂)の次の記述です。
いけメン[名](「いけてるメン」の略で、英語 men と「面」をかけたもの)かっこいい男(達)。「イケメン」と表記する。
ただし、この〈men と「面」をかけたもの〉と判断した根拠は示してありません。この記述がなぜ頼れるかというと、編者がきわめて実証的な研究者だからで、いわば編者の信用に基づいているのです。

『大辞林』第3版も、この説を踏襲しています。引用しますと、〔若者語。「いけてる(=かっこいい)」の略に「面」あるいは「メン(men)」をつけたものといわれる〕というふうに、伝聞の「といわれる」をつけています。

『三省堂国語辞典』第6版も、通説を踏襲して、以下のような語釈になりました。
イケ メン(名)〔俗〕外見の かっこいい男。いい男。〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕
辞書の見出しは、和語はひらがなで、外来語はカタカナで表記するので、もし「いけてるmen」なら「いけメン」、「いけてる面」なら「いけめん」となります。しかし、後半が「メン」だか「めん」だか分からないので、全体を一般的表記に従って「イケメン」としてあります。

今回の番組では、非常に助かることに、「イケメン」の発信源とされる雑誌の号数や誌面の様子まで教えてくれています。それで、この情報を元に追加調査をすることができます。この点で、じつにありがたい番組です。

ただし、語源の捉え方としては、やはり〔「イケてる【=かっこいい】メン【=menまたは面】」から〕のままでよいと考えます。というのも、「イケメン」ということばは、容姿を重視しています。現在では、このことばには「面」の意識はやはり入っているというべきだからです。「menまたは面」を「menおよび面」として、両方を積極的に認める道もあるでしょう。

ところで、番組中の私のインタビューというのは、「いけてる」の古い例についてでした。私は、ドラマで桃井かおりさんが30年も前に使った例(「男たちの旅路」1977年)があると証言したのですが(「いける、いかす、いけてる」参照)、番組でその裏を取ってくれました。ドラマのその場面が流され、また、元の脚本(山田太一)にそのせりふはないことが示されました。結論として、この「いけてる」は「桃井さんのアドリブだった」ということになりました。

さらには、桃井さん本人にインタビューを敢行したのには舌を巻きました。桃井さんいわく、「若者っぽいアドリブをかましたくて、〔性的な俗語の〕「いく」「いかない」〔に基づいて〕なんかちょっとかっこいいものを見たとき、『今いけてます』っていう意味だった」ということでした。
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2008年03月19日

新しい語法?「可能+ている」

動詞「楽しむ」を可能形にすると「楽しめる」になります。これは当たり前。では、それに進行形「ている」をつけて「楽しめている」と言うことはできるでしょうか。

若い人は、おそらく「できる」と言うのではないかと思います。たとえば、次のように使う例があります。
スカッシュのルールや技について知らないこともたくさんあります。それでも、スカッシュは楽しめています
(早稲田大学学生の文章、2006.08.01)
しかし、これは、私には新奇な感じがします。私が書くならば、可能形だけを使って「十分楽しめます」とするか(くどいので「スカッシュ」は繰り返さない)、または、進行形だけを使って「十分楽しんでいます」のようにするか、どちらかです。可能形も進行形も両方くっつける、という発想は、私にはありません。

この「可能形+進行形」の形(ここでは「進行形」に「完了形」も含めます)は、探してみれば、よく目につきます。いくつか引用します。
〔中学校の男性教師〕〔生徒への対応を〕まあいろいろな角度から考えてはいるんですけれども、まあ解決策というか打開策っていうのがまだ自分の中で見つかりきれてない〔=見つかりきれる+てる+ない〕、そういう中でこう日々過ごしているっていうのが、まあ今の現状です。(NHK「NHKスペシャル・“学校”って何ですか?」2007.03.03.21 19:30)

「彼女はあたしの古い友だちよ。ずっと会っていなかったけど、一番信用できる人」/ タカシに聞かれていることを考え、そうとだけいった。白理は呑みこめていない〔=呑みこめる+ている+ない〕表情で頷いた。〔大沢在昌・魔女の盟約38〕(「週刊文春」2007.04.26 p.115)

〔住人の女性〕私も夕べから全然寝れてなかった〔=寝れる(←寝られる)+てる+ない〕んで、これでやっとゆっくり眠れますけどもね。(NHK「ニュースウォッチ9」2007.05.18 21:00)

小林〔幸子〕 順風満帆じゃなかったことで、私は今までやってこれている〔=これる(←こられる)+ている〕のかもしれない。(「週刊文春」2008.02.07 p.116)
用例からすると、「……ていない」と否定形で結ぶほうが若干多いかもしれません。いわゆる「ら抜き」表現になることも多く、「やってこられている」と言わず「やってこれている」になったりもしています。いずれにしても、私ならば使わない言い方で、それぞれ「見つかっていない(見つかりきっていない)」「(まだ)呑みこめない」「寝られなかった(寝ていなかった)」「こられた」と言いそうなところです。

昔はどうだったかというと、「可能形+進行形」の形はなかったわけではありません。たとえば、「文章がよく書けている」などと言います。「書ける+ている」です。太宰治「ろまん灯籠」(1940-1941)には〈面白い。よく書けていますよ。〉と出てきます。ただ、この「書ける」は、「(紙を)折る」の結果として「(紙が)折れる」と言うのと同じく、「書く」の結果を表す「書ける」であると考えることもできます。

昔の状況については、精査していません。ここでは、「どうも、昔の文章ではあまり「可能形+進行形」は見かけないような気がする」という、私の印象を記すにとどめます。もし、確実な例をご存じでしたらご教示ください。

「楽しめている」のような言い方が、もし新しいと仮定すれば、それはいつごろから広まった言い方でしょうか(仮定の上に立つ推測というのはあやふやですが、まあお見逃しください)。それは、「いけてる」ということばが流行しはじめたころではないかと思います。「いけてる」は「いく(行)」の可能形「いける」に「てる(←ている)」が付いたものです。「いける」は「(酒が)いける口」のように、長らくこの形で使われ、戦後は〈このおねえちゃんはちょっといける〉(石坂洋次郎『陽のあたる坂道』1956-57)のように流行したのですが、それに「てる」がついたのは、私の記憶では1996年ごろからです。

「いける」から「いけてる」を作ったのと同じ仕組みで、「楽しめる」→「楽しめている」などの語法が作られ、広まったのではないかと推測します。

なお、方言では、たとえば徳島県で「行けよー行けよー」(←行けよる行けよる。大丈夫)というふうに、動詞の可能形(行ける)に進行形「よる」をつけることがあるようです(「ふるさと日本のことば語彙索引」の「よる」を参照)。関係があるでしょうか。

関連文章=「いける、いかす、いけてる
posted by Yeemar at 16:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 文法一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月18日

「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―

前回、常用漢字表の改定に関して、「趣旨はまったく賛成」と書きました。社会生活で目にする漢字が増えている現在、漢字表を拡大するのは当然だと思います。ただし、「理解漢字の表」(読めるだけでよい漢字の表)、「書写漢字の表」(書けるようにする漢字の表)の2つに分けて、新追加漢字はすべて理解漢字とするのがよいと述べました。

理解漢字といっても、だれもが理解するだけで書かなければ、その漢字は消えてなくなってしまいます。ここで言う理解漢字とは、学校教育で書かせなくてよく(書きたい人は書いてもよい)、字体・字形を採点対象にしないということです。パソコンや携帯メールでは当然使ってよいということです。

たとえば、「誰」「頃」という字は、現在の常用漢字表には入っていませんが、社会での使用頻度としては上位に来ています(国立国語研究所の『現代雑誌200万字言語調査』など)。新常用漢字表では、おそらく追加候補になるでしょう。これは「理解漢字」とします。そうすれば、中学校の生徒は、これを読めなければいけないけれど、自分はパソコンで打てれば十分ということになります。実際には、このように高頻度で目に触れる文字は、自然に手でも書けるようになるでしょう。

新常用漢字表では、都道府県名もすべて入りそうな情勢です。これも理解漢字で十分です。書写漢字にしてしまうと、「茨城」の「茨」の「にすい」の上側は「ヽ」か「一」か、などという面倒くさい問題が出てきます。「ヽ」か「一」か、止めるかはねるか、などという問題は、ふつうは教育現場以外では出ない(どちらでもよい)ものです。でも、初等・中等教育の段階では、2つの正解は望ましくないので、問題化するのです。これらが理解漢字ならば、学校のテストで点画までは問われないため、問題がなくなります。

私は、理解漢字・書写漢字を分ける常用漢字表ならば、現状の文字生活を温かく容認するものになると考えます。社会の変化にそっと寄り添うものになり、社会を強引に漢字表に合わせる結果にはならないと信じます。

――以上は前回の補足で、以下は個人的な愚痴を書きます。

秘めた本音のところを言いますと、書写漢字であれ、理解漢字であれ、常用漢字表の字数が増減するのは、私にとっては複雑な思いがあります。現在の常用漢字表は「一般の社会生活」における「漢字使用の目安」を示すものです。目安というのは、100パーセント従わなくてもいいけれど、だいたい従ってください、ということと考えています。文章を書く人間として、常用漢字表をまったく知らないと思われるのは心外なので、私はこの表にかなりの程度従って文章を書いています。その基準が変わるということは、私の文字生活が多少ともぐらぐらすることになります。

たとえば、私は自分の書く文章で「誰」「頃」「揃」「頁」「狙」などの字を漢字で書かないようにしています。これらは、社会では高頻度で使われる字ですが、常用漢字表にはありません。常用漢字表に従おうとする以上、これらの字はなるべく使わないのがいさぎよい態度です。今、私のウェブサイトの字を検索してみると、「誰」「頃」は、引用文を除いては一切使っていませんでした。

それが、新常用漢字表では、「誰」「頃」……などの字もご自由にお使いください、ということになりそうです。そうすると、「私の今までの禁欲的な態度は何だったのか?」という、ばかを見たような気持ちになるのも事実です。規則が変わってからは、「だれ」「ころ」とかな書きにした私の文章は、「旧常用漢字表時代の文章」という印象を与える、古くさいものになります。常用漢字表に律儀に従ってきた結果がこれでは、納得できないではありませんか。

以上のようなことを感じる人は多いのでしょうか。どうも多いとは思われず(つまり、現実には常用漢字表を「目安」と意識して書いている人が多いとは思われず)、私の文章は苦笑を誘うような気もします。ただ、学校現場などでは、プリントの文章などの使用漢字に神経を使っておられるでしょうから、私の気持ちもお分かりいただけるのではないでしょうか。
ラベル:常用漢字表
posted by Yeemar at 14:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月16日

新常用漢字表は字体変えないで

常用漢字表の改定作業が進行中だと聞きます。文化審議会の資料や、漢字に詳しい人々のウェブサイトなどを見ると、もう主な論点はあらかた出尽くしていて、門外漢が口を出す余地はなさそうです〔7月15日追記。漢字専門でなくとも日本語研究者であるからには、「門外漢」というのは無責任なので、取り消します〕。とはいえ、日本語で生活する個人として、自分の使う漢字が今後どう決められるのか、不安を感じる点があるのも事実です。ここに素朴な意見を書いておく意味もあるでしょう。

現在の常用漢字表と、社会の漢字使用の実態がかけ離れてきた。これが今回の改定の理由だと理解しています。つまり、漢字表を現実の社会に合わせようということです。子ども(社会)の体形が変わってきたから、それに合わせて服(漢字表)を替えようということですね。この趣旨はまったく賛成です。そこで、関係各位にお願いしたいのは、これと逆に、社会のほうを漢字表に合わせるような結果にならないようにしていただきたいということです。

私が中学生だったころ、今の常用漢字表ができました。漢字で書けることばが増えるということで、たいへん喜びました。これからは「ぼくは」でなく「僕は」と書けるのですから、大歓迎です。ところが、思わぬ落とし穴がありました。高校生になってから、漢字のテストで、「洗濯」の「濯」の右上を「羽」にしてバツをもらったのです。「濯」は、常用漢字表に新しく入った字で、それまで一般に「羽」だった部分が「ヨヨ」に変えられました。私は、「濯」が表に入ったことは知っていたものの、ついでに字体も変わったことまでは知りませんでした。先生に言われて教科書の後ろの漢字表を確認し、「ヨヨ」になっていることを知って衝撃を受けました。

似たようなことは、たびたびありました。常用漢字表制定からしばらくは、教科書にも新旧の字体が混在していたので、「霸権」と「覇権」のどちらが正しいのか混乱したりしました。今でも、「『ほたる』という字は『螢』だっけ、『蛍』だっけ、たしかあれは常用漢字表に入ったから『蛍』だな」などと迷うことがあります。

政府の決めた漢字表と無関係に暮らし、自分の好きな漢字を書いていれば、こういうことで悩みはしません。でも、多少とも漢字表を尊重して生活している人は、表の内容が大きく変わると、まあ大げさに言えば、自分の文字生活の基盤がくつがえる思いをしなければなりません。人々の文字生活の実態に寄り添った改定であればありがたいのですが、人々の文字生活のほうを変えさせる改定にはならないようにしていただきたいのです。

もっと具体的に言えば、「今回の改定で、字体の変更がなければよいが」と心配しています。これについては、字体変更やむなし、いや、変更すべきでない、と激論が闘わされているので、もはや指をくわえて成り行きを見守るしかないのですが、字体は変更しないのが穏当だろうと考えます。

たとえば、「賭」という字の「日」の上に「ヽ」がある現在の活字(印刷標準字体)が、新常用漢字表に入り、「諸」などに合わせて「ヽ」のない字になったとします。すでに「点あり」で覚えていた人は、高校時代の私と同様に混乱するでしょう。

「いやいや、それは筆写体と活字体を混同しているんだ」という反論があると思います。手書きの時は、「賭」には点を打たないのがふつうです。その字体が漢字表に採用されたと考えれば、「点なし」がむしろ自然だともいえます。しかしながら、漢字字典を見た生徒は「点あり」で覚えます。その生徒が漢字テストでバツをもらって驚くという事態も起こるでしょう。

漢字テストは一例です。多言を避けますが、現実に字体変更が決まれば、印刷物やコンピュータの書体を一新しなければならないなど、社会的影響が大きいことは言うまでもありません。社会の変化に応じて漢字表を改めたはずが、漢字表に従って社会が大きく変わる、もっと言えば振り回されることになります。これでは主客逆転であり、本末転倒です。

とはいえ、字体を変更しなければ、同一の漢字表の中で、Aは略字体を採用し、Bは正字体(というか従来の表外漢字字体)を採用するという不整合が起こり得ます。そのほうが、学校の生徒にとっては迷惑ともいえます。

では、どうすればいいか。これもすでに案が出ていることですが、書くための漢字(書写漢字)と、読めればいい漢字(理解漢字)の2つの表に分けるのが最も妥当だろうと思います。

書写漢字は、現在の常用漢字の1945字で十分でしょう。高校まで(大学まで)かかっても、1945字も書けるようにするのは一苦労です。何なら、ここから「勺」「朕」「逓」「匁」などいくつかの字を削っても結構です(削らなくても結構です)。

一方、理解漢字は何百字でも増やしてよいと考えます。新常用漢字表で増える字は、すべてこの理解漢字ということにします。私たちの能力は不思議なもので、書けなくても読めるだけでよければ、非常に多くの字を覚えることができます。この理解漢字の字体は、「賭」「謎」「餌」などをはじめ、現在の印刷標準字体をそのまま示しておきます(「賭」は点のある字、「謎」は二点しんにゅう、「餌」の食へんはむずかしい字体)。書写漢字とは別の表なので、新しく増えた字を略字体にしなくても、表の一貫性は保たれます。

今回の改定理由では、「情報機器の発達で目にする漢字が多くなった、そこで、その漢字をちゃんと読めるようにしよう」ということが大きいはずです。つまり、理解漢字を多くすることが主目的であって、書写漢字を多くすることは主目的でないはずです。それならば、書写漢字と理解漢字との2つに表を分けることは妥当性が高いというべきです。この点について、どれほど議論が進んでいるか知らないのですが、2表に分ける方向で話し合っていただきたいと希望します。

私見をまとめますと、以下のようになります。(1)新しく常用漢字表に加わる漢字は、現在の字体(表外漢字字体表の字体)を変えないでいただきたい。(2)新追加の漢字は理解漢字とし、従来の常用漢字は書写漢字として、性格を分けていただきたい、漢字表を2表に分ければ、それぞれの表では字体の整合性に矛盾も生じない、ということです。

最後に蛇足ですが、国語政策が変わるたびに、私の頭は混乱の度を深めていくようです。常用漢字表が決まってから「濯」などの字を覚え直し、JIS漢字の変更で(これは経済産業省の管轄ですが)「森オウガイ」の「オウ」を手書きでも「区に鳥」と書くようになり、そうかと思えば「表外漢字字体表」が答申されたのを見て(これは活字に関する決まりですが)、やっぱり「オウガイ」は「區に鳥」のほうがいいような気がしてきたりと、落ち着きません。私の反応がことさら極端というわけではないでしょう。字体変更はないのが理想的だと考えます。

関連文章=「「誰・頃」をかなで書く私―常用漢字雑談―
ラベル:常用漢字表
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2008年03月11日

むずかしい漢字「油ちょう」

冷凍ギョーザの毒物混入事件が報じられはじめたころ、テレビで毒物混入のルートを探る特集が放送されました。その中で、卸売り業者が冷凍食品の輸入元について知らせるファクスが紹介されていました。表の中に、「油ちょう」という見慣れないことばがありました。
てづくり野菜かき揚げ40(油ちょう済)
〔略〕
てづくりむきえびかき揚げ60油ちょう
(NHK「クローズアップ現代・追跡・毒混入ルート 〜中国製ギョーザ 深まる謎〜」2008.02.04 19:30)
「油ちょう」のような書き方は、「憂うつ」などと同じで交ぜ書きと言われます。もとは二字熟語で、「ちょう」も漢字で書いたはずです。どういう漢字だったのか知りたくなりました。

とりあえず、ウェブサイトを検索してみます。こういう場合、「ゆちょう」のようにひらがなで検索すると、用語解説のサイトなどで、漢字を示しているのに突き当たるものです。ところが、なかなかそれらしいものが分かりません。

「油ちょう」の意味はすぐ分かりました。「油調理」ということです(「油であげること」のほうがよりよい。下段参照)。冷凍食品会社のサイトに以下のようにあります。
また日本でのエビの復権も大きな課題といえます。ニッスイは日本の消費量の減少について、「台所から油調理(油ちょう)が減少したのが最大の原因」と分析。(ウェブ「ニッスイ フロンティア」2006.03発行)
とすれば、「油ちょう」は「油調」かと思われました。実際、「油調」としてあるサイトもあります(全日本外食流通サービス協会のウェブサイトに「冷凍食品-油調」のページがあります)。しかし、それならば素直に「油調」と書けばいいだけの話です。ひらがなにしてある理由が分かりません。

k080311yutyo.jpgこうなると、専門書をひもとかざるを得ません。『最新冷凍食品事典』(朝倉書店 1987、1989年3刷)を見てみました。残念ながら用語解説のようなページはありませんが、以下の文章に突き当たりました。
また,イカは油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}による収縮によって歯ざわりが著しく硬くなることが多い.冷凍食品の場合,必ずその食品の特性を出す理想的な調理が行われる保証がないから,高温で早く油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}する場合も多い.述べた切込みを入れることで,このように調理の条件による変化も防止することを可能にし,軟らかさを保つことを可能にする.(p.199)
この「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」こそ、「油ちょう」の正確な表記でしょう。この「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、そうとうむずかしい字です。JIS漢字の第2水準までになく、ふつうには入力しにくいのです。ウェブで探しても見つからなかった理由のひとつと思われます。

字書によっては、この字を「チョウ」読むことが示してありません。『学研漢和大字典』や『新潮日本語漢字辞典』では「やく」「いためる」の意で「ヨウ」、「ゆでる」の意で「ジョウ・ソウ」です。『増補改訂 JIS漢字字典』では「ソウ」のみです。とすると、『最新冷凍食品事典』に出てくるのも「ユソウ」とか「ユジョウ」であって、目指す「ユチョウ」ではないかもしれないという疑問が湧きます。

『角川大字源』を引いてようやく、「ソウ」「ヨウ」の読みのほかに「チョウ」の読みに出会いました。意味も3番目に「あげる。油で揚げる」の意が示してあり、「油ちょう」の用法と矛盾がありません。「油ちょう」は「油〓{火へんに葉の草かんむりのない字}」であると考えられます。

昔からある専門用語は、このようにむずかしいものが多いようです。今では、難解な字を避けてひらがなに開いてしまうため、そのむずかしい字を使った熟語が今に残っていることが、外からは見えにくい状態になっています。「火へんに、葉の草かんむりのない字」は、言わば、ひらがなの皮をかぶりながら、特殊な分野で現代でも生き続けている字と言えるでしょう。

似たような漢字の例として、通信用語の「き線」(幹線の末端)などにつかわれる「き」がそうです。「饋線」と書くのだそうです。
posted by Yeemar at 17:20| Comment(5) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

使うべし、「とんでもございません」

新宿の地下街で書店に寄った際(3月7日)、『頭がいい人の敬語の使い方』(本郷陽二著、日本文芸社 2006)という本を目にしました。いくつも重ねてあったので、売れているものとみえます。以前に出た本なのに今になって気づいたわけは、帯に次のように大書してあったからです。
使ってませんか!?/「とんでもございません
「おや、自分は『とんでもございません』という言い方を使っているが、誤りなのだろうか?」と思った人が手に取ることをねらっているものとみえます。

この「とんでもございません」は、たしかに、よく敬語の誤りの例として出されるものです。それで、帯で訴えるのにふさわしいと出版社は判断したのでしょう。インターネット書店で確認したかぎりでは(買わなかったので)、「「とんでもございません」はとんでもない誤用」という章または節もあるようです。

筆者の文章の細かいニュアンスを知らずにいうのも気が引けますが、「とんでもない誤用」と断罪することには反対です。筆者は敬語の専門家ではないようですが、そう自信を持って決めつけていいのかと、疑問に思います。

「とんでもない」は、これで熟した一語であるため、「とんでもありません」「とんでもございません」は誤りで、「とんでもないことでございます」と言うべきだとは、よく指摘されます。ちょうど、「もったいない」を「もったいございません」と言わないのと同じに考えれば、たしかに筋は通っています。

ところが、むしろ「とんでもございません」は使ってよいと考えるべき強力な論拠があります。まず第1点として、わりあい古い用例があるということ。「青空文庫」によれば、昭和初期の例があります。
まあとんでもございません。ちょこちょこと致せば何のこともありは致しません。(宮本百合子「海浜一日」1927年)
とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――(林不忘「丹下左膳・こけ猿の巻」1934年)
80年以上前の用例があるということになると、これは定着した言い方と考えるほうが自然です。

次に、第2点として、「とんでもございません」と「とんでもないことでございます」とは意味が違うということです。これは、多くの人々が素朴に感じていることでもあります。たとえば、前述の本を買った人のブログに、次のような感想がありました。
Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもございません。こちらこそ・・・」/といっているところを/Aさん「お手間をおかけしまして申し訳ございません。」/Bさん「とんでもないことでございます。・・・」/となると、なんだか責めてるみたいじゃありません?/うーむ、日本語って難しい。/やっぱり「とんでもございません」を封印できないかも。(「ちいさなくらしに、おおきなしあわせ。」2007.11.08)
これはそのとおりで、謙遜するときに「とんでもございません」を使う人でも、政治家の汚職について感想を求められれば「とんでもないことでございます」と言うでしょう。使い分けているのです。

この「とんでもございません」「とんでもないことでございます」の使い分けを広く知らしめたのは、最近、文化審議会が答申した「敬語の指針」(2007年2月)です(第3章、47ページ。PDFファイル)。この「指針」は、美化語・丁重語という敬語の型を示したことで話題になりましたかが、ほかにも注目すべき点があります。論旨が重複しますが、引用します。
〔上略〕「とんでもございません」は,「とんでもないことでございます」とは表そうとする意味が若干異なるという点に留意する必要がある。〔略。褒められた場面で〕「とんでもないことでございます」と言ったのでは,「あなたの褒めたことはとんでもないことだ」という意味にも受け取られるおそれがあるので,注意する必要がある。/ また,例えば,あの人のしていることはとんでもないことだ,と表現したい場合には,「あの方のなさっていることはとんでもございませんね。」などとは言えないが,「とんでもないことでございますね。」などは普通に用いることができる。
このように、不用意に両者の表現を言い換えて使うと、誤解の元にもなりかねないのです。となると、何世紀も前の時代のことはともかく、現代語としては、「とんでもございません」「とんでもないことでございます」は、それぞれ「正しい」日本語であって、別々の役割を果たしていると考えるのが妥当でしょう。

『三省堂国語辞典』第6版でも、以上のような考え方に立って、「とんでもない」の項に以下のように注記してあります。
〔ていねいな言い方は、@〜B〔注・「思いもかけない」「あってはならない」「とほうもない」の意味〕では「―こと・です(でございます)」だが、C〔相手の発言を否定する〕では「とんでも・ありません(ございません)」が多く使われる〕
「敬語の指針」のお墨付きもあることだし、このように注記する辞書は今後も続くでしょう。「とんでもございません」を「とんでもない誤用」と決めつける本は、今後「トンデモ本」と批判されないともかぎりません。
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2008年03月05日

昭和を騒がせた漢字たち

 円満字二郎著『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館 2007)がベストセラーになっています。すでに的確な書評はいくつも出ていますが、好きな本なので、遅ればせながら、感想めいたものを書いておきます。

 この本は、題名から分かるとおり、昭和(戦後)の歴史と漢字との関わりを、いくつかの具体的な事件を中心にして論じるものです。私自身、ことばや文字が好きなのは当然として、戦後の歴史にもオタク的な興味があり、NHK「THE NEWS」(戦後のニュースハイライトが1年1巻にまとまっている)などというビデオを見ては楽しんでいるので、本書はいわば「ツボにはまった」という感じです。一気に読んでしまいました。

 本書に出て来る「漢字にまつわる事件」は、知らないものが多くありました。たとえば、戦後いったん「郵政省」になった役所を「逓信省」に戻そうという動きがあったこと(その中心人物は田中角栄)。専売公社のたばこ「おおぞら」に「宙」という文字をあしらったところ、「その漢字はそうは読めない」と批判されてデザイン変更になったこと(しかも売れ行き不振で製造休止に)。小学校で「元気で仲よく」という碑を建てたら、漢字の点画がおかしいと裁判沙汰になったこと。どれも当時は話題になったのかもしれませんが、私には初耳で、基本的な知識の部分で勉強になりました。

 知識もさることながら、筆者の視線は、漢字そのものだけでなく、漢字を使う人々、さらにその時代に向いており、それが本書を独特のものにしています。ある漢字について、「Aと書くのが正しいか、Bと書くのが正しいか」と正誤の点で論ずる本は、うんざりするほどあります。気のきいた本になると、「なぜAと考える人がいるのか、Bと考える人がいるのか」と、人間に焦点を当てるものもあります。ところが、本書では、「AとかBとかいう議論が出て来たのは、そもそもその時代がどういう時代だからか」という、さらに一段高い所に上がって見渡しています。漢字の歴史という大河を上から眺めているような、見晴らしのいい感じがあります。

 たとえば、「元気で仲よく」という小学校の碑文の話では、「仲」のにんべんの縦棒が、上に少し突き出ているのは、マルかバツかという議論が戦わされたそうです(1970年代のこと)。もし、専門家がこれに解説するなら、「どちらもバツではありません」とか「あまり目くじらを立てないで」とか言うのがせいぜいだろうと思います。本書の興味深いところは、さらに進んで、こういった点画にこだわる議論が、そのころから激化した受験戦争の必然として起こったと指摘している点です。ということは、この碑がそれより前の時代に建っていれば、批判も起こらなかった可能性があります。

 さらにさかのぼった時代、1950年代には、福井県庁の掲示板に「福丼県」と書いてあったことが、官民を巻きこんで議論になったといいます。今日の目から見ても、「福丼県」はおかしいような気がしますが、「井」を「丼」と書くことは歴史的にもあったのだそうです。ただし、本書はそこでは終わりません。テンがあっていいか、いけないかという議論が起こるのは、戦後の「当用漢字字体表」(1949年)によって、当時の人々に字体の意識が生まれたことと無関係でない点を指摘しています。もし、それ以前ならば、〈「福丼県」を見ても、点が一つ多いな、と思うくらいで、県庁までねじ込もうとは思わなかっただろう〉という筆者の意見には同感です。

 筆者の見方にそってごく乱暴にまとめれば、戦後の人々の漢字意識には、2回の大きな変化が訪れたといえそうです。第1に、戦後すぐ、当用漢字などの制定によって、漢字に「基準」を持ち込む考え方が広まった。たとえば、「福丼県」と書こうものなら批判が殺到し、「郵政省」を「逓信省」に戻そうものなら「漢字制限に逆行する」と大反対された。第2に、高度成長ごろから、それぞれの漢字は「唯一無二」のものであるという考え方が広まった。別字で書き換えたり、使用を制限したりすることへの違和感が強まった。たとえば、水俣病の原告団は「うらみ」を表すために、当用漢字の「恨」ではなく、表外字の「怨」を使った。学生運動の活動家は、漢字の民主化に逆行するはずの略字や造字を多用した――。と、これはごく大づかみな要約ですが、筆者の見方は的を射ていると思います。

 われわれは、「あるべき日本語の表記」「漢字をどういうふうに書けばいいか」などという大きな議論をするとき、百年後も通用するような不変の論拠に立って論じているつもりでいます。でも、本書を読むと、どの時代にも通用すると思って語っていることが、じつは、まさにその時代だからこそ出てくる意見であることに気づきます。遠い将来を見通したつもりで決定した国語政策が、何年か経つともう見直しを迫られるというのも、われわれが(または役所の人々が)時代の制約を離れてことばを見つめることがむずかしいためでしょう。

 最後に、つけ足し。本書に出て来る話題のいくつかは、私が個人的に関心の強いもので、その意味でも興味深く読むことができました。石坂洋次郎『青い山脈』は、これまで2、3回は読み、映画版も2回は見ていますが、これを戦後の言語状況と結びつけて考えることはありませんでした。筆者の観点に脱帽します。また、狭山事件その他の差別事件については、大学生のころ、野間宏『狭山裁判(上・下)』(岩波新書)を読んで以来、関心が持続しています。筆者は、このほか水俣病裁判を取り上げるなど、弱者の視点に立って文字史を眺める姿勢があると思います。
posted by Yeemar at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字・表記一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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