2021年11月02日

「汚名挽回」への違和感に答える

■はじめに

2021年10月31日にクサナギさんが「note」で「汚名挽回は正しい説再考」という文章を書いています。その中で、「汚名挽回」という表現を誤用ではないとする説明の〈論理的整合性〉と〈科学的妥当性〉が論じられています。

議論の中心となっているのは、私(飯間)が『文藝春秋』2021年11月号に書いた「日本語探偵」第63回の「汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」という文章です。クサナギさんはこの〈扇動的なタイトルに正直仰け反った〉と述べ、私のタイトルのつけ方に問題があったことを指摘しています。さらに〈Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない〉と繰り返しており、このタイトルが批判的に見られたことがよく分かりました。

私のタイトルのつけ方が「扇動的」という批判に関しては、率直に反省したいと思います。断定調で立場を鮮明にしようという気持ちがなかったとは言えません。学問的にものごとが「解明済み」になることは、実はないのかもしれません。解明されたと思っても、また新たな論点が出てくることはいくらでもあります。私の表現はたしかに粗雑でした。言わんとする真意はこういうことです。「『汚名挽回』には誤用説があるが、それに対して、なぜこの言い方が成り立つかという十分に論理的な説明がある。その説明に対しては、今のところ見るべき反駁がない」。タイトルとしては長すぎますが、このように表現すれば、いくぶん穏当だったでしょうか。

クサナギさんはツイッターで礼儀正しく〈この記事は飯間さん批判ではない〉と断ってくださっていますが、批判として受け止めるべきところは、謙虚に受け止めたいと思います。

その上で、改めて私の考えを整理し、センセーショナルにではなく記しておくべき必要を感じます。

■国語辞典は旧版を踏襲するものも

クサナギさんの文章のタイトルは「汚名挽回は正しい説再考」となっています。ここは厳密を要するところです。私は常々、「誤用の客観的な基準はない」と述べています(たとえばこちら)。ことばを客観的に「誤り」「正しい」と断定はできないということです。したがって、「汚名挽回」は「誤用ではない」「おかしくはない」と否定形で言うことはできても、「絶対正しい」と言うこともできません。私が目指すのは、「誤用である」との批判に対して、別の寛容な見方を示すことです。「誤用と決めつけることはできない、この言い方が成立する理由は、論理的に説明できる」と、その考え方を示すことです。「汚名挽回」の場合、従来の「誤用説」に対しては、研究者を含む複数の人々によって、すでに十分筋の通る説明がなされていると考えます。

「汚名挽回」はそもそもなぜ誤用と批判されたのか、今さらながら振り返ってみましょう。クサナギさんは『現代国語例解辞典』『学研現代新国語辞典』が「誤用」と明記していること、「デジタル大辞泉」が誤用説・非誤用説を併記していること、『明鏡国語辞典』には迷いが見られることを述べています。これは〈2021年10月現在〉とのことですが、これらの辞書には、「『汚名挽回』非誤用説」が知られるようになる以前から「誤用」の説明が載っています。

  • 「汚名(を)挽回」「汚名(を)回復」は「名誉挽回」「名誉回復」の混同で、不適切な言い方。「汚名(を)返上(する)」が適切な言い方。(『現代国語例解辞典』第3版・2003年)

  • 「汚名挽回 ばんかい」は誤り。(『学研現代新国語辞典』第4版・2008年)

  • 「汚名挽回 ばんかい」「汚名を挽回する」は誤用。「汚名返上」「汚名を返上する」「名誉挽回」「名誉を挽回する」が正しい使い方。文化庁が発表した平成16〔2004〕年度「国語に関する世論調査」では、「前回失敗したので今度は―しようと誓った」という場合に、本来の言い方である「汚名返上」を使う人が38.3パーセント、間違った言い方「汚名挽回」を使う人が44.1パーセントという逆転した結果が出ている。(『大辞泉』第2版・2012年)

現行版である『現代国語例解辞典』第5版、『学研現代新国語辞典』第6版も同様の記述です。つまり、これらの現行版が「汚名挽回」を誤用としているのは、「『汚名挽回』非誤用説」を検討した結果というよりは、単に旧版の記述を踏襲したものと考えられます。一方、「デジタル大辞泉」では誤用説・非誤用説を併記しているので、上記の『大辞泉』第2版よりも中立的になっていることは注目すべきです。

■「汚名挽回」のどこを弁護すれば十分か

さて、これらの辞書で「汚名挽回」を誤用とする理由は、
(1)「名誉挽回」との混同(『現代国語例解辞典』)
(2)「本来の言い方」は「汚名返上」(『大辞泉』)
ということです。さらに、日本語の誤用を扱った一般書籍では、
(3)「汚名挽回」は「失った汚名を取り戻す」ということになり、これでは意味不明。(清水義範『日本語がもっと面白くなるパズルの本』光文社 1997年)
との理由を示すものもあります(清水氏の著書は一例で、同様の主張多数)。

「汚名挽回」が誤用であるという主張は、大きく以上の3点にまとめられます。したがって、この3点について、それぞれの主張が当たらないことを示せば、従来の「汚名挽回」誤用説に対する説明としては十分です。

まず、(1)と(2)に関して。「汚名挽回」が「名誉挽回」との混同から生まれたと言うためには、「汚名挽回」よりも「名誉挽回」のほうが先に成立している必要があります。また、「汚名返上」が「本来の言い方」と言うためには、「汚名挽回」よりも古い実例を示す必要があります。ところが、これらの説明はいずれも実例の裏づけがなく、あくまで「汚名挽回」は新しい言い方だろうという前提に立って推測したものにすぎません。実際には、「汚名(を)挽回」は19世紀以来の例が報告されていることは『文藝春秋』の文章で紹介したとおりです。「名誉挽回」「汚名返上」のさらに古い例が見つからないかぎり、(1)(2)の観点から「汚名挽回」を誤用とすることはできません。

(1)(2)よりもいっそう重要な論点は(3)です。「汚名挽回」が「意味不明」ではなく、理屈にあった言い方であることを示せば、「汚名挽回」も存在していい理由が生まれます。この点について詳しく考察しているのが、クサナギさんも引用する複数の先行文献です。

それを改めて私のことばで(特に私が大事だと考える点について)まとめれば、こうなります。

――「挽回」を「取り戻す」と考えると、たしかに意味が通らない。だが、「挽回」には「元の良き状態に戻す」の意味がある。したがって、「○○挽回」の「○○」に、「名誉」のようなプラスの意味のことばだけでなく、「汚名」のようなマイナスの意味のことばが来ることは自然である。「名誉挽回=名誉を元の状態に戻す」「汚名挽回=汚名を元の状態に戻す」「劣勢挽回=劣勢を元の状態に戻す」「遅れを挽回=遅れを元の状態に戻す」……などとなり、いずれもおかしくない。――

私は『文藝春秋』で以上のような考え方を紹介した後、次のように文章を締めくくっています。
ここまでの議論を理解しているはずの人でも、「汚名を挽回したら汚名の重ね着になる」という気がする人もいるようです。さんざん批判されてきた表現なので、無理もない。ただ、自分が使うかどうかはともかく、他人が使うことはとがめにくい状況になりました。
つまり、「どうしても違和感があって使いたくない」という人に「違和感を持たないでください」と押しつけることはできないし、個人個人が違和感を持つのはしかたがない。ただし、他人がこの表現を使っている場面に出合っても、「誤用だ」ととがめないでほしい、と願うのがこの文章の趣旨です。

■「汚名挽回」に対する違和感について

「汚名挽回」非誤用説を唱えつつも、この言い方に違和感を持つ人がいるというのは、クサナギさんの指摘のとおりです。クサナギさん自身も「汚名挽回」を素直に受け入れられないと言い、その理由について考察しています。その考察には説得力があり、大いに参考になります。

その考察を私のことばでまとめてみます。

――「汚名挽回」を誤用でないとする説は、「汚名」を状態と捉えている。「劣勢挽回」「遅れを挽回」ならば、たしかに「劣勢の状態を元に戻す」「遅れた状態を元に戻す」と解釈でき、違和感はない。しかし、「汚名」は状態というより、ある人物に貼られた「標識」(レッテル)と考えるほうが妥当だ。標識・レッテルを「挽回する」、つまり元に戻すというのは不自然であり、そこに違和感が生まれる。――

私のことばに直しすぎて、ご本人の主張と違うと言われることを恐れますが、「汚名」を「状態」と捉えるか「標識」と捉えるかによって違和感の有無が分かれる、ということと解釈しました。

なぜ自分がこの言い方に違和感を持つかについて、客観的に検討した文章であり、すっきりと理解できました。一方で、クサナギさんは「汚名」を状態と捉える立場もあることは否定していません。「汚名挽回」非誤用説と矛盾するものではない、と受け取りました。

クサナギさんの説に対しては疑問もあります。「汚名挽回」の「汚名」が標識だとすると、同様に「名誉」も標識とは言えないでしょうか。「名誉を傷つける」「名誉を守る」「名誉を重んじる」……などは、「名誉という状態を傷つける」などと解するよりは「名誉という標識を傷つける」などに近い意味だと思われます。それなのに「名誉挽回」と言えてしまうのはどうしてでしょうか。こうした疑問は、私の読み取り不足によるものかもしれないので、メモするにとどめておきます。

ともあれ、「汚名挽回」に違和感を持つ人がいて、そういう違和感を持つのはなぜか、と探究することは、私も興味深く思います。こうした問題については「解決済み」だとはまったく考えません。ただ、クサナギさん自身、「汚名」が標識だからといって、〈「汚名挽回は誤用である」と主張することを目的としてはいない〉と述べています。したがって、この問題は、従来の「汚名挽回」誤用説に対して十分な説明がなされているか、というテーマとは一応分けるべきものと考えます。「従来、この表現を誤用として批判した説に対しては、ひととおり説明が用意されている。それ以外のところで違和感があるとすれば、その正体は何だろう」ということです。

■まとめ

クサナギさんの問題提起の全体を振り返ると、だいたい次のようになるでしょうか。

――「汚名挽回」と言える理由について「学問的にほぼ解明済み」とするタイトルは扇動的だ。現に、自分は「汚名挽回」に違和感を持つが、その違和感を打ち消すだけの説明はまだない。そこで考察してみると、「汚名」は状態ではなく標識と捉えられる。標識を表す語に「挽回する」(元に戻す)という動詞が接続するところに違和感が生まれるのだろう。――

私としては、「なるほど、そういうこともありうる」と納得しました。人がことばになぜ違和感を持つかという探究は必要です。一方で、「そのことばに違和感を持つ人がいる」イコール「誤用」ではないことも確かです。

現時点でのいわゆる「汚名挽回」誤用説に対し、それが当たらないという主張は十分成立していると考えます。「汚名挽回」に関する「被疑事実」については、ひととおり弁護がなされており、このことばを使う人をとがめることはできなくなったと言うべきです。それとは別に、雑誌に発表した私の文章のタイトルが穏当を欠いたということは、改めて反省の意を表します。

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2011年11月16日

スクープ! 早大赤本の間違い見つけた

大学入試の現代文を、久しぶりに読む機会がありました。印象として、以前(私が受験した1980年代)に比べ、出題される文章の質が上がっているようです。以前は、どう考えても読むのがむだでしかない、無内容な文章が出てきました。今回読んだ文章は、読みながら「なるほど」と考えさせられる、興味深いものが多くありました。もっとも、入試問題文の制約上、一部分だけの引用であるため、それを読んだだけで何かまとまった知識が得られるというものではないのですが(入試の文章だけ解いているのではだめで、1冊の本を読む必要があるのはこのためです)。

それはともかく、私の答案を「赤本」(教学社『大学入試シリーズ』)の解答と照らし合わせてみて、がっかりしました。ちょいちょい間違いがあって、どうも満点が取れないのです。まことにお恥ずかしい。日本語を研究し、教えていながら、こんなざまでは困ります。うっかりしていた部分もあるし、引っかけ問題にだまされた部分もあります。いわゆる「受験の勘」を忘れてしまったためのミスだった、と言い訳しておきます。

ただ、そうは言っても、「これは、赤本のほうが間違っている」と考えられる部分もありました。具体的には、2008年度の早稲田大学文学部の国語の現代文。末木文美士(すえき・ふみひこ)さんの『他者/死者/私』の一節が出題され、その文中で渡辺哲夫さんの『死と狂気』に触れた箇所があります。そこに出てくる「歴史的に構造化する」という語句の意味が問われています。この解答が、どうも腑に落ちないのです。

と言っても、これだけでは、何のことか分かりませんね。以下に問題文の必要箇所を引用しておきます(ご面倒なら、あとから読んでくださってもけっこうです。原文と設問の雰囲気だけ分かってもらえば、以下で私の言いたいことは伝わるはずです)。
渡辺によれば、死者は、「生者たちの生存と生活を D歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何より言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」。われわれが死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ。
 渡辺はこの観点から他者論を見直し、「他者」という言葉の多義性を三つに分ける。第一に、「ほとんどの他者は、死者である。……他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつ」。第二に、「他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する」。これを著者は「言語的分節世界」と呼ぶ。つまり、死者によって構造化された世界のことだ。それは、生者から見れば収奪したものであり、死者から見れば贈与したものだ。第三に、「生きている個々の他者、他人」である。従来の他者論がこの第三の他者を中心に論じられてきたのに対して、渡辺は第一、第二の他者の見直しを図ろうというのである。
次に、設問と選択肢を示します。
問七 傍線部D「歴史的に構造化する」の説明としてもっとも適当なものを次の中から選び、その記号の記入欄にマークせよ。
 イ われわれの生きている世界はすべて無名の先人たちが築き上げてきたものだということ。
 〔略〕
 ニ 個々の人間を歴史の中に位置づけることを通して、普遍的な人間の運命を明らかにするということ。
わずらわしいので、選択肢は2つを除いて省略しました。私はこのうち「イ」が正解だと考えたのですが、赤本では「ニ」が正解となっています。はたして、本当に正解は「ニ」でしょうか。

素直に読めば、「イ」なのです。事実、赤本の解説にも、こう書いてあります。〈他者たる死者は、現在の生者に日常的秩序を贈与する。それがすなわち「死者による世界の構造化」ということ〉。つまり、現在、宗教・法律・慣習・倫理などといった、私たちの世界を構成する基本的なものや概念は、すでに死んでしまった先人たちが形作ったものだ、彼らから贈与された遺産だ、というのです。それなら、「イ」の選択肢そのままではありませんか。

もっとも、赤本では、続けて〈イとニで迷うが〉と書いています。〈イは「無名の先人たちが築き上げてきた」が「死者たちに負うて」きたの言い換えとして不適当。ニの「歴史の中に位置づける」が「構造化」の言い換えにあたる〉と説明しています。

でも、渡辺さんがここで言う「死者」とは、〈没個性の霊魂の群れの“顔”〉なのだから、これを〈無名の先人たち〉と言ってもいいはずです。〈言い換えとして不適当〉どころか、どんぴしゃりです。むしろ、「ニ」は、〈歴史の中に位置づける〉はたしかに「構造化」の言い換えかもしれませんが、〈個々の人間を歴史の中に位置づける〉は意味をなさないし、後半の〈普遍的な人間の運命を明らかにする〉はいっそう意味不明です。つけ加えれば、もとの選択肢「イ〜ニ」の中で、日本語として意味が通るのは、唯一「イ」だけです。

「いや、それはやはりあなた(飯間)の考えが足りないのではないか。自分が答えを誤ったので、くやしまぎれに強弁しているだけだろう」と言われるかもしれません。

ところが、驚くべきことがあります。渡辺さんの説を批評しているこの問題文の筆者、末木文美士さんがホームページを開設していて、そこで、同じように渡辺さんの文章を批評しています(「ボクの哲学モドキ」のうち「死から死者へ」。2002年の文章)。そして、そこには次のように書かれています。
 渡辺さんの説には、柳田・折口の民俗学の影響が強い。著者によれば、死者とは、「生者たちの生存と生活を歴史的に構造化する」力を持ち、「常に不特定、没個性」である(23 頁)。というと分りにくいけれど、要するにボクたちの生きている世界はすべて先人たちが築き上げてきたものだ、ということだ。「この世の人間の生活に必要な一切のものは、死者から賦与されている。宗教、法律、慣習、倫理、生の意味、物の意味、感情、そして何よりも言葉を、われわれは無名かつ無数の死者たちに負うている」(33頁)。ボクたちが、死者として具体的に思い浮かべる身近な者は、「没個性の霊魂の群れの“顔”」なのだ(25頁)。
なんと、筆者自らが、正しい選択肢が「イ」であることを証言しているではありませんか。

末木さんのホームページの文章は、著書の一節が早稲田の入試問題として取り上げられる以前のものです。ことによると、著書の中にも、こんなふうに「歴史的に構造化する」の意味を解説した部分があるのかもしれません。入試問題の作成者もそれを踏まえていたのではなかったでしょうか(何しろ、選択肢の言い回しがそっくりだから)。

おそらく、この設問は、問題作成者の親切によるものでしょう。「歴史的に構造化する」と言われても、受験生は分かりません。そこで、「これはこういう意味ですよ」ということを、選択肢の形で教えてあげたのだろうと推測します。現に、私も「イ」の選択肢を読んで、そのあとの読解が助けられました。もし「ニ」が正解だとしても、それは語句の説明としてまったく意味不明であり、読解の役には立ちません。

今回の例は、赤本の誤りであると確定しました。私としては、自分の正しさが確認されて、満足しました。もっとも、こんなことで「スクープ」などといい気になってはいけないのでしょう。入試問題の模範解答は、出版社や予備校によって、往々にして食い違いがあると聞いています。今回のような例は、ほかにもざらにありそうです(今回、私が解いてみた問題の中には、ほかにも疑わしいものがありました)。

それにしても、こうした例がもし「ざらにある」ならば、受験生の人たちはかわいそうです。模範解答が間違っているにもかかわらず、「自分のほうが間違いだ」とむりに納得している人がいるかもしれません。出版社や予備校の責任は重いし、さらに責任が重いのは大学です。大学、特に難関大学は、ぜひとも入試の正解を公表すべきであると、最後に結論を添えておきます。
posted by Yeemar at 19:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 表現・文章一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月18日

「どうも!にほんご講座です。」の冒険


私で務まるのか?

2011年4月から半年間、NHK Eテレの「どうも!にほんご講座です。」の講師を務めました。外国人学習者のための日本語講座です。本放送が土曜日の午前5時5分から、再放送が翌週金曜日深夜の12時半からという、あまり視聴率の見込めない放送時間帯でした。ただ、それだけに冒険もできました。桜金造さん扮するそば屋の主人とその一家が巻き起こす小事件を扱いながら、日本の古いコントのフレーズや、芸能人の名言などを紹介するという、なんとも変わった番組が誕生しました。放送がもう少しで終わるのを期に、この番組を総括しておきます。

最初、講師の話をいただいたとき、「私で務まるのか」と驚きました。私は、日本語研究者、国語辞典編纂者であって、日本語教育の専門家ではありません。大学で外国人学生対象の日本語クラスを持ってはいますが、それは上級者を対象にしたものです。初級・中級者といった、外国語を学ぶ途上にある人に対する教授法を知りません。私が日本語講座を担当するなんて、魚の缶詰工場の工員が漁に出るとか、SF作家がロケットの乗組員になるとか、そのくらいの違和感があります。日本語教育の専門家が知ったら激怒するのではないか。

でも、テレビで自分のことばで語る機会が得られる、というのは魅力的です。「ともかく、走りながら考えよう」と腹を決めて、話をお受けしました。

話を受けてから、「そうは言っても、知識が不足していてはまずいだろう」と思い、日本語教育関連の本を改めて読みました。教授法のDVDも取り寄せて視聴しました。そうやっていくつかを読んだり見たりしたものの、途中でやめてしまいました。「どうやら、これらの内容は、テレビの語学番組にはあまり関係がない」と考えたからです。

放送講座は対面教育ではない

日本語教育に限らず、世にごまんと出ている外国語教育のための本は、言うまでもなく、対面教育を前提にしています。生徒と向かい合って、動詞の活用を教えたり、発音を指導したりするためのものです。それらを教える際、どういうところに気をつけたらいいかということが、すなわち日本語(外国語)教授法です。

ところが、放送による語学講座(放送講座)では、講師は学習者と対面していません。「ああ、そういう言い方はしませんよ」「その発音では分かりません。もう一度」「すばらしい。最初よりずいぶんよくなりました」などと声をかけることはできません。対面教育のように、フィードバック(軌道修正のための助言)を与えたり、上達度を評価してモチベーション(やる気)を高めたり、ということは不可能です。これは、一般的な語学教育の指導方法が、放送では通用しないことを意味します。

放送講座にはまた、決定的な制約があります。それは放送時間です。NHKの語学テキストのうちどれでもいいので、巻末か巻頭に載っている「語学講座放送時刻表」を見てください。放送時間が一番長い番組でも、テレビなら週1回25分、ラジオなら週4回15分です。想像してほしいのですが、あなたが語学学校に通うとして、週イチで25分間教室に座っているだけで、外国語が上達すると思うでしょうか。ほとんど絶望的です。今回の番組の場合、なんと週イチで15分間の放送です。一般的な日本語教授法によるかぎり、どんなに優秀な教師だって、これだけの時間で学習者のレベルを大きく上げることは困難です。

放送講座で必要なこと

では、立場を変えて、自分が放送講座で学ぶとしたら、番組に何を求めるかを考えてみましょう。私はこれまで、NHKラジオの語学講座にはたいへんお世話になりました。中学の時の「基礎英語」から始まって、「中国語講座」「ハングル講座」「ロシア語講座」あたりまで手を出しました。ドイツ語やフランス語もちょっとはやってみました。放送講座で最もありがたかったのは、「ネイティブのゆっくりした発音が聴ける」ということでした。講師の人には悪いのですが、あまりに細かい文法説明などはどうでもよかったのです。「いいスキット(短いドラマや会話)の提供」。私が放送講座に求めるものはこれでした。

ラジオでの私の学習法は、ざっと以下のようです。第1、「スキットのゆっくりした発音を聞く」。第2、「そのとおりに自分も繰り返す」。第3、「日本語訳を参照しながら意味を取る」。第4、「スキットを暗記する」……これだけ。要するに、「聴いて、覚える」の繰り返しです。だから、放送時間は20分(昔は今よりちょっと長かった)でも、繰り返し聴いて覚えるためには、何時間もかかりました。

放送講座では、学習者自身が先生役を務めなければなりません。スキットが覚えられなければ「もう少しがんばろう」と自ら励ましたり、スキットがやや長いと思う日は「この部分だけ覚えればいいことにしよう」とハードルを下げたりします。分からないことがあれば、人に質問もできないので、自分なりに「こうだろう」と納得できるまで調べるしかありません。「独習」というのは、そういうことです。語学の独習は、基本的に、苦難の道のりなのです。

放送講座の講師が生徒と対面できない以上は、やるべきことの第一番は、いい素材の提供です。「この文章を覚えてみたい」「こういうことばを使ってみたい」と学習者が思うような魅力的な素材が提供できれば、その講座は、責任のかなりの部分を果たしたと言えるでしょう。

余談になりますが、魅力的な素材ということであれば、必ずしも放送講座や語学CDのスキットに限ることはありません。外国の映画やドラマ、音楽を繰り返し聴いて覚えるのも、語学力の向上のためにはたいへん有効です。などと言ってしまっては、NHKには悪いのですが……。

学習の原動力を提供

さて、「どうも!にほんご講座です。」をどうするか。週イチ15分では、一般的な日本語教授法が通用しないことは、すでに述べました。初回に「私、○○と申します」を教え、それから1週間も経って「これは何ですか」を教えるといった調子では、学習者のやる気は下がりまくりです。また、対面教育なら、何人かが15分間「私、○○と申します」と自己紹介しあうだけでも間が持ちますが、放送では、延々それだけを流すわけにもいきません。

ここは、「セサミストリート」方式で行こうと考えました。「セサミ」は、かつてNHK教育テレビで放送されたアメリカの子ども番組です。せりふはふつうの英語で、吹き替えなし(後には副音声がついた)。日本の子どもには、話の内容はほとんど分からないはずですが、大人気の番組でした。私もよく見ており、「なんだか分からないが、英語はおもしろそうだ」ということは分かったのです。

「どうも!にほんご」も、「日本語はおもしろそうだ」と感じてもらうことに徹しよう。スタッフとの話し合いでは、この点を強調し、賛同を得ました。スキットの日本語をやさしくするという配慮はするけれども、出演者の自由会話は、別に語彙を制限したりせず、ふつうに話してもらうことにしました。初級学習者で、日本語がよく分からなくても、「なんだかおもしろそう」と興味を感じさえすれば、それが学習を続けるための原動力になります。番組は、その原動力を提供しようと考えました。

自分がおもしろいと思うことをやる

では、どういう方法をとれば、おもしろさを感じてもらえるのでしょうか。これは、正直なところ、分かりません。おもしろさの感覚は人によります。千差万別の学習者が、一致しておもしろがるような内容にすることは不可能です。「こうすればウケるのではないか」などと、実感もないまま、学習者の好みを想像しながら番組を作ることはできません。

となれば、方法はひとつです。自分がおもしろいと思うことをやるしかありません。

私が提案したのは、「日本語のおもしろフレーズを紹介しましょう」ということでした。日本には昔から、「アーノネオッサン、ワシャカナワンヨ」(高勢實乗)だの、「地球の上に朝が来る」(川田義雄)だのといった、変なフレーズ(ギャグフレーズとも言う)がたくさんあります。以上は戦前のものですが、戦後になると、「こりゃまた失礼いたしました」(植木等)とか、「飛びます、飛びます」(坂上二郎)とか、「次行ってみよう、次」(いかりや長介)とか、有名なフレーズが次々に生まれました。おもしろフレーズに限らなくとも、「ふつうの女の子に戻りたい」(キャンディーズ)、「ぼくは死にません」(武田鉄矢)、「同情するなら金をくれ」(安達祐実)など、メディアから生まれた名ぜりふは無数にあります。これらを織りこんだスキットを作るというのはどう?

「なぜ、そんなフレーズを?」――それは、私自身が好きだから、としか言いようがありません。私自身が、クレージーキャッツのコントが好きで、ドリフターズの番組をよく見ていて、キャンディーズのファンだから、というのが理由です。流行したフレーズは、いずれも、日本語の音のおもしろさや表現のおもしろさを備えていて、ついついまねして使いたくなります。いや、そうした実用性を離れても、「ことばというものはおもしろい」ということを表現する材料として、私がまず取り上げたいのは、こうしたフレーズなのです。日本の詩歌や小説の一節を紹介してもいいわけですが、それは別番組の「にほんごであそぼ」に任せます。私は、私のおもしろいと思うことをやる。いかがでしょう。

放送開始

放送は、4月2日から24回の予定で始まりました。内容は、大きく分けて、5つのコーナーからなります。

まず、桜金造さんのそば屋一家のスキット。短いコメディーで、毎回、往年の名フレーズのひとつが物語のポイントになります。たとえば、「こりゃまた失礼いたしました」の回では、金造さんが、植木等の「お呼びでない」のギャグを再現します。

次に、2人のアニメキャラが登場し、語法の解説をします。「失礼」ということばにはどういう使いかたがあるか、といった具合です。

3番目に、和服姿の私が畳の部屋に座り、名フレーズの流行した当時の背景について語ります。私の要望で、このコーナーにも要所にギャグを入れてもらいました。

4番目に、「にほんご紙芝居」のコーナー。外国人の解答者を前に、私が、こんどは紙芝居屋の格好をして、日本語に関するクイズを出します。素材には、主に、私が街の中で撮影してきた写真を使います。アシスタントは、タレントのもりまいさん(森下まいさん)です。

最後に、VTR映像で、日本で働いている外国人に「仕事で出合った日本語」について語ってもらいます。

これで15分。短い時間に、盛りだくさんな内容です。私としては、昔の「ウゴウゴルーガ」の雰囲気もちょっとあるのではないかと思います。

ツイッターやブログの反応は

心配なのは、視聴者の反応です。外国人学習者がブログやツイッターを使って、「日本語で」番組の感想を書くことはむずかしいため、今のところ、彼らの反応を知ることはできません(NHKには声が寄せられているかもしれません)。私に分かるのは、(本来の対象ではない)日本人視聴者の反応です。これらを見るかぎり、私のねらいは、まあまあ成功したと考えています。

反応は大きく2つに分かれました。ひとつは、「学び初めの外国人にはむずかしい内容ではないか」ということです。これは覚悟していました。「セサミストリート」のように、内容の理解よりも、まず言語のシャワーを浴びせることを目的としているのですから、少々むずかしくてもやむをえません。

もうひとつは、「日本語講座とは思えないフレーズを教えている」。それはそうです。何しろ、コントなどのフレーズを教えるのですから。このことについては、「非常識で、よくない」という反応はごく少なく、「意外で、おもしろい」という反応が多いようです。週の番組のタイトル(フレーズが載っている)に興味を引かれて番組を見た人も少なくないようでした。

「ふつうの女の子に戻りたい」の回では、ツイッターに「こんな特殊なフレーズ、使っている人は3人しか見たことがない」という趣旨の意見が出ました。つまり、キャンディーズの3人だけ、というわけ。そのとおりですが、この回では「〜たい」の言い方を学習しています。キャンディーズの名ぜりふをきっかけに、希望表現のいろいろを覚えてもらおうという、なかなか手のこんだことをやっているつもりです。

問題提起は果たした

私の見た範囲は、あくまでブログやツイッターに限られますが、「不まじめだ」とか「つまらない」という反応はまずなく、むしろ強い興味を示してくれたものが多かったことは幸いでした。

語学の独習は苦難の道のりだと述べました。その苦しさを乗り越えさせるのは、「この言語はおもしろい」と感じる学習者の気持ちです。放送講座では、何よりもまず、その気持ちを持ってもらうことが肝心です。おもしろい素材にもいろいろありますが、私の「好み」から言えば、それはコントなどのフレーズだったということです。

日本語教育の方法論から言えば、邪道のそしりもあるかもしれません。でも、「自分が学習者だったら何を望むか」を突きつめて考えた結果として、放送講座のひとつのありかたを示したつもりです。問題提起の役割は果たすことができたでしょう。

この番組は、今年度下半期も同じくEテレで再放送されることが決まっています。放送時間は上半期と同じで、土曜日の午前5時5分からと、翌週金曜日深夜の12時半から。再放送のほうが視聴しやすいと思います。関心のおありのかたは、どうか、ぜひご覧ください。
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